MiG-25がやって来た日の話
(空自の日本防空史21)

文:nona

 今回から3記事連続で1976年に発生したMiG-25事件を紹介いたします。

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http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2007/2007/pdf/19020301.pdf
函館空港に強行着陸したソ連戦闘機MiG-25

 ソ連防空軍の亡命パイロット

 
1976年9月6日12時50分、ウラジオストク北東約220kmに位置するチュエグエフカ基地から3機のMiG-25戦闘機が迎撃訓練のため離陸します。

 
この訓練に参加したソ連防空軍パイロットのヴィクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉は、MiG-25でソ連からの逃亡を心に決めていました。

 
彼が国を捨てようとする理由は、軍内部における待遇の不満と妻との不仲にありましたが、後にジョン・バロン氏が著したベレンコ中尉の伝記では、100ページ以上にわたってソ連で経験した並ならぬ苦悩が記されています。


 超低空飛行で追手を回避したMiG-25

 
MiG-25編隊が高度5000mに達すると、ベレンコ中尉は無線を切り、単機で急降下を開始します。急降下はトラブルによる墜落を装うためのものですが、ベレンコ機が編隊の最後尾を飛んでいたこともあり、僚機はすぐには気付かなかったようです。

 ベレンコ中尉はMiG-25が本当に墜落死ないよう地面へ衝突する直前で機を水平に戻し、高度30mないし60mの超低空飛行を維持しながら日本を目指しました。

 
MiG-25は漁船や高波に数回衝突しかけ、さらに天候も悪化しつつありましたが、超低空飛行のおかげでレーダー監視網をくぐり抜け、無事に防空圏から脱出しています。


 奥尻レーダーサイトがMiG-25を探知

 
13時11分、ベレンコ中尉はMiG-25がソ連の防空圏を抜けたと判断し、再び上昇を開始します。

 
MiG-25は離陸前に16580L(14.5t)の燃料を搭載し、条件が良ければ2200kmの片道飛行ができるものの、今回は空気抵抗の増大する超低空飛行を続けたことで、すでに大量の燃料を消費していました。

 
よってベレンコ中尉は燃費の改善が見込んで巡航高度付近への上昇を試みたのですが、その途中で空自の奥尻レーダーサイトに探知されています。

 
このとき奥尻レーダーサイト側が捉えた機影は北海道の西方180km、高度6000m、時速約800kmで、これに追跡番号5024を付与し、奥尻レーダーサイトから国際緊急周波数による多言語での警告を発信されました。

 
ただしベレンコ中尉は無線機のスイッチを切ったままで、これに気付くことはありません。MiG-25の無線装置は使用できる周波数帯が狭く、味方としか交信ができないものでしたから、操縦に集中するためにも無線を使うつもりはなかったのです。


 MiG-25が領空を侵犯

 
13時22分にMiG-25は小樽市南西に達し、ついに日本の領空を侵犯します。この時点で本州側を含め4地点のレーダーサイトがMiG-25らしき機影を確認しており、13時25分には千歳基地から発進したF-4EJも探知に成功していました。

 
ところが、F-4EJのレーダーはMiG-25を探知してから30秒ほどで機影を見失い、13時26分までに4地点全てのレーダーサイトも探知できなくなりました。

 
MiG-25が全てのレーダーから消えてしまったのは、ベレンコ中尉が雲を避けるため機体の高度を下げたことが原因でした。ベレンコ中尉の航法が正しければ、MiG-25は空自の千歳飛行場の近くまで来ているはずでしたが、その高度では雲が濃く空から飛行場を発見できなかったのです。

 
その後MiG-25は変針し、道南上空をさまようように飛び回ります。

 
13時35分ごろにレーダーサイトが奥尻島東方の海上に一瞬だけ不明機をとらえた、ということでF-4EJが急行しますが、MiG-25は間もなくその空域を去っています。

 
なお、MiG-25とは別の動きとして、9つの機影がソ連本土から日本方面へ向かう様子もレーダーサイトで探知されています。これは空自の動きを探っていたソ連が、姿を消したベレンコ中尉のMiG-25との関係に気付いたもの、と考えられます。


 14.5トンの燃料は1時間で底をつく

 
空自とベレンコ中尉は互いを見つけられず、MiG-25の燃料は瞬く間に減少しました。

 
13時42分ごろ、MiG-25の機内で「残存燃料は危険水準に落ちています。」という警告音声が再生されたことで、ベレンコ中尉はそうした音声が用意されていたことに驚く一方、こう言い返したそうです。

 
「姐ちゃん、どこにいるのかしらねえが、教えてくれ。飛行場はどこにあるんだ。」

 また、最後の手段としての緊急脱出についても一抹の不安がありました。ベレンコ中尉は「今日の訓練飛行は海に出ないから、救命具も要らない」と整備兵に嘘をつき、海上脱出用の救命具をわざと基地へ置いてきてしまったのです。


 函館空港に滑り込んだMiG-25

 
北海道上空をさまよっていたMiG-25でしたが、これが最後のチャンスであるとして、果てしない黒雲の中降下を開始。雲が途切れた高度250mで、ついに飛行場を発見します。

 
しかしベレンコ中尉が見つけた飛行場は当初予定していた千歳基地ではなく、150km南西の函館空港でした。函館空港滑走路はMiG-25が着陸するには規定の3分の1ほど長さ足りず、しかも旅客機が離陸態勢にありました。

 
とはいえ燃料は2分と持ちそうにありませんから、ベレンコ中尉は、離陸する旅客機を上空で待たず、直前で回避し、すぐさま着陸態勢に入りました。

 
このときの着陸速度は220ノットという異例の速さ。MiG-25は長さの足らない滑走路をオーバーランし、さらに250mほど草原を走ったところでようやく停止に成功します。

 
時刻は13:50分ごろ、約1時間の亡命飛行後に残った燃料で、MiG-25が飛行できる時間はわずか30秒でした。


 ベレンコの少年時代

 
極限状態に身を投じ、亡命飛行に成功したベレンコ中尉について、彼の伝記から少年時代のエピソードを一つ紹介いたします。

 
少年時代のヴィクトル少年は継母から差別をうけた時期があり、家に居づらかった彼は図書室での読書に傾倒し、本が両親や教師の代わりとなっていました。

 
図書室の司書は冒険小説を読みたい、という彼のリクエストに応じ(ソ連では児童が自由に本を選ぶことを認めなかった)ジュール・ヴェルヌやマーク・トゥエインの小説を貸し出していますが、彼が特に愛したのは、反乱奴隷のスパルタクスが故郷への帰還を目指す物語と、フランスの飛行家テグジュペリの冒険小説であったそうです。

 
どちらもソ連においても政治的に認められた作品であるようですが、そのストーリーは彼の将来を暗示させるものでもあったのです。


 次回は函館に着陸したMiG-25を巡る自衛隊の動きを紹介いたします。


 
参考資料

ミグー25ソ連脱出―ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか(ジョン・バロン著, 高橋正訳 1982年3月30日)
P7-25 P36-39

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P337-338

1977年 防衛白書 第4章 ミグ25事件
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_04.html

ミグ25事件の真相 闇に葬られた防衛出動(大小田八尋 ISBN978-4-05-901072-3 2001年8月13日)
P26-40

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