航空自衛隊防空史9
空自の高射部隊その2  ナイキミサイル運用史編

文:nona

 ナイキミサイル運用史

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航空自衛隊第1高射群のゆるキャラ「パックさん」。[祖父は、修行を重ねて「アジャックスの杖」を造る。父は、その杖を束ねて「ハーキュリーズの杖」に作り替えた。]というナイキ時代を匂わせる設定がなされた。

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 ナイキ部隊の建設開始

 
1964年に航空自衛隊へ移管された第1高射群は、陸自時代から引き続き千葉県の習志野、埼玉県の入間、茨城県の霞ヶ浦、神奈川県の武山への高射中隊配備を継続し、首都圏の防空を担当しました。1969年より各中隊は「高射隊」へ改名しています。

 
続く第2高射群は1967年、九州北部に配備されました。運用当初からECCM能力向上を図った改良型ナイキシステムとなり、調達費用は日米のコストシェアリング方式とされました。

 
さらに北海道札幌上空を防衛する第3高射群の建設が開始されたものの、基地予定地となった長沼町で基地建設反対運動が発生。長沼ナイキ事件へ発展し、他所のミサイル基地建設に影響を与えます。

 この反対運動中の1971年に北海道の第3高射群が編制が完了、1973年に第4高射群が中京阪神に、第5高射群が沖縄に、1979年に第6高射群が津軽海峡防空部隊として編成を完了。ここにいたり現在まで続く6個高射群(大隊)、24個高射隊(中隊)の体制が確立します。


 ニューメキシコでの年次射撃訓練

 
ナイキは射程が極めて長い兵器ですが、残念ながら国内で訓練できる場所はありません。1961年4月にナイキ関連で日米でかわされた覚書では、アメリカでの年次実射訓練を義務付けられていました。

 空自移管後初となる海外訓練は1964年10月に実施され、第1高射群指令以下、4個中隊から165名が、旧立川空軍基地からC-135 に乗り込み、アメリカへ出発しています。

 
訓練はニューメキシコ州マクレガー射場で実施され、各中隊はアメリカ軍評価部隊の審査の中、数日をかけてミサイルの組み立て調整、システムテスト、各中隊2発の実射を訓練しました。

 
マクレガー射場は広大な土地を有する一方、昼は灼熱、夜は極寒という寒暖差の厳しい砂漠気候で、液体燃料が漏れ出していないか、点検が欠かせなかったようです。

 
さらに射撃管制器材に用いられた真空管は、僅かな温度湿度の変化で性能に影響を与える、ということで、射撃管器材のトレーラーハウスはエアコンが設けられていたものの、これに立ち入り制限が加えられます。

 
また射場のあちこちに不発弾が埋まり、訓練時期にはガラガラヘビの活動期間と重なるということで、舗装路以外立ち入り禁止。意外にも窮屈な場所でした。

 
マクレガー射場は日本にはない特殊な環境でしたが、最後に実施されたミサイル射撃訓練では、高度3000、17000mの2つの標的に対し、通信系統の故障という状況が与えられたものの、各中隊はいずれも目標に全弾命中。米軍から「3中隊は良好、第四中隊は優秀」と評価されています。


 ナイキJ弾の導入

 
1958年にアメリカでナイキ・エイジャックスを大型化したナイキ・ハーキュリーズが登場後、航空自衛隊では核弾頭の搭載機能を省いたナイキJ弾として導入し、1967年から1977年までに466発が調達されました。生産は三菱重工が担当しています。

 
ナイキ・ハーキュリーズは弾体を大型化、ブースターを4本束ねとし、射程120km(130あるいは155kmとも)射高45km、速度マッハ3以上、弾頭510kgへ強化され、超音速目標への対処が可能となりました。

 一方でミサイルの重量はエイジャックス1.5tから4.5tに大幅に重量を増し、対空ミサイルとしては異例の大きさとなりました。この重量増にもかかわらずナイキ・ハーキュリーズは移動可能なシステムとされますが、総勢26両のトラックが必要でした。

 
また「ナイキJ」という呼称の影響か、空自のある基地のホームページでナイキ・エイジャックスを指して「ナイキA」「ナイキAジャックス」という表記も見られます。


 幻となった空自版ボマーク

 
ナイキシステムの取得調達が進む一方、当初空自が構想していたF99ボマークミサイルの導入は諦めざるを得なくなります。

 
ボマークとはアメリカとカナダで使用された無人戦闘機型SAM。液体ラムジェットエンジンで推進し、最高速度2900km/h、射程は640kmを有しています。

 
誘導はSAGEシステムとリンクした中間慣性誘導と、迎撃機のFCSを転用した誘導装置によるアクティブレーダーホーミング。目標に迫ったところで1000ポンドの通常弾頭、あるいは核弾頭でこれを破壊する、という極端な自動化がされた兵器システムです。

 アメリカは1958年に日本へのボマーク供与を認める旨の発言をし、防衛庁の第二次防衛力整備計画で1個部隊の創設が盛り込まれたものの、この時期までにボマークは生産を終了し、さらに価格や運用難が想定されたため、結局導入は見送られています。


 最終形態ナイキ・フェニックス

 
航空自衛隊においてナイキシステムが配備の途上にあった1973年、アメリカはナイキを運用する各国に対し、新型SAMへの移行につき、旧来のナイキ関連部品の供給を1985年で打ち切る、と予告します。

 
この予告をうけ1974年5月に防衛庁長官が、ナイキの後継について国内開発を検討している旨の答弁を行い、1978年に三菱重工が外国企業と共同でナイキ・フェニックス構想を提案します。

 
ナイキ・フェニックスとはF-14戦闘機が用いるAN/AWG-9射撃管制装置と、AIM-54フェニックス空対空ミサイルの誘導装置を流用した地対空ミサイルシステムで、既存のナイキJと共通点もあり、運用共通性や価格面で有利とされました。

 
陸自に対してもホーク地対空ミサイルシステムの後継としても提案され、今度は陸自と空自が共同でナイキ・フェニックスの調査研究にあたったようです。

 
しかし調査の結果、陸空共にナイキ・フェニックスの導入を見送り、陸自は改良ホーク、空自はペトリオットミサイルの導入を1985年までに決定します。

 
ただしペトリオット全国配備までのタイムラグを考慮し、航空自衛隊は1985年にアメリカから10年分のナイキ維持部品を一括購入、国内企業の協力で長期保存の劣化防止措置を施し、1994年にナイキシステムが運用を終えるまで、その能力維持に努めました。


 次回は第一次FXについて解説する予定です。


 
参考

日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)
P92~96

対空戦(イアン・V・ホッグ著 陸上自衛隊高射学校訳 ISBN4-562-01246-3 1982年5月30日)
P151~163

航空ファン2005年3月号 航空自衛隊の50年を振り返って その15(久野正夫文 文林堂 編  2005年3月)
P94

丸NO.5831994年11月号 特集 アンノウン機撃墜法 システム防空戦(潮書房編 1994年11月)
P88

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P226~233

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