航空自衛隊防空史5
F-86F「旭光」その3  封じられたミサイル編

文・写真:nona


 
F-86F特集の最後はAIM-9Bサイドワインダーを解説いたします。
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台湾の空軍航空教育展示館で展示されるAIM-9Bサイドワインダー

 AIM-9Bサイドワインダー

 F-86Fの豆鉄砲では爆撃機に手も足も出ない、という状況を打破する存在と期待されたのが、このAIM-9Bサイドワインダー空対空ミサイル。

 1956年にアメリカ運用が開始された当時の最新兵器で、約4kmの有効射程を持ち、先端の赤外線センサーが目標のエンジン排気熱を追尾、近接信管付きの4.5kgの弾頭により、大型爆撃機にも有効な一撃を与えることが可能となりました。

 
平時におけるAIM-9Bの平時の命中率は約70%と、おおむね実用レベルの性能を有していました。

 
なお、AIM-9Bの呼称は当初はアメリカ海軍と海兵隊のもので、アメリカ空軍では当初GAR-8と呼んでいます。


 発射にまつわる制約

 
このベストセラー兵器にも、命中率を維持するには様々な制約がありました。

・敵機が太陽に向けて飛行している時、敵機と太陽の角度を最小で25°とする。

・最大最小射程を(測距レーダーを用いるなどして)即座に判断する。AIM-9Bの有効射程は4km前後であるが、最小射程は1kmあるいは1000ヤード。

・発射時のGと速度の関係に注意。1G状況下で170ノット、2Gで230ノット以下の速度ではロックオンしない。(理由は不明)

・2Gをこえる加速度で発射してもサイドワインダーが追尾できない。(ミサイルの視野が狭いため、旋回中に発射直後に目標を見失う可能性がある。)

・高度40000ft以上では敵機の熱源を補足できるのは、(敵機後方)左右10°の範囲まで狭まる。

・敵機に対する最善の攻撃位置は後方下方。

 
このようにAIM-9Bの発射には現代のミサイルよりも考慮すべきことが多く、攻撃のタイミングを逃しやすかったのです。また撃たれた側も上記の欠点を知っていれば、たやすく回避が可能でした。

 
1958年に台湾空軍が用いた時には約60%の命中率を保てたAIM-9Bですが、ベトナム戦争中の1965年2月から68年3月に、アメリカ空軍が用いたAIM-9Bの撃墜率は16%まで低下しています。(AIM-9シリーズ全体の撃墜率は18%で、高温多湿環境による故障も考慮する必要がある。)


 スパローよりは扱いやすかったサイドワインダー

 
それでもベトナム戦争における撃墜数は、AIM-7スパローシリーズが61機に対して、AIM-9サイドワインダーシリーズが86機と、いくらか優秀な成績を得ています。

 
これはスパローがほぼF-4戦闘機専用だったことが最大の原因ですが、敵味方識別装置の搭載が進んでおらず、不用意に目視外の機体を攻撃できなかったこと、最短射程が1.5kmと発射可能領域が狭いことも、AIM-9ほどスコアが伸びなかった理由となっています。

 
また海軍のF-8クルセイダー戦闘機では、同機の信頼性の低い機関砲に変わる切り札としてAIM-9が扱われ、空対空戦で撃墜した19機のうち、14機がAIM-9BまたはCによる戦果でした。

 
ベトナム戦争では機関砲が再評価された、とはよく言われますが、サイドワインダーも一定の価値が認められた戦いでもありました。


 AIM-9B取得までの経緯

 
ミサイル兵器の将来性は開発期間から期待されており、AIM-9Bの試作型が実射試験で標的に命中した1953年には、日本でも旧保安隊の制度調査委員会が整備すべき兵力の一つとしてミサイルを挙げられ、9月には防衛生産委員会内に誘導弾部会が設置されていました。

 
またアイゼンハワー大統領の元、アメリカ軍は「大量報復戦略」にもとづいて核戦力を強化しつつ、朝鮮戦争で膨張した通常戦力の削減を開始します。在日米軍の撤収は自衛隊の強化よりも速いスピードで進むことになり、戦力低下の穴埋めとしても、ミサイルが求められたのです。

 
ただしアメリカは最新兵器であるミサイル技術を、国外に提供するつもりはありませんでした。当時アメリカ陸軍砲兵学校に留学していた陸上自衛隊幹部自衛官は、誘導弾関係の授業の際には、他国の留学生全員とともに、授業から除外されたことを残念な思い出として語っています。

 
このような制限は日本だけを対象としたものではないものの、日本の新聞が「日本は差別されていて、廃れかかった時代遅れのものを与えられている」と曲解して報道、アメリカ側が憂慮することもありました。


 アメリカの方針転換

 
頑な態度のアメリカに対し、日本はヨーロッパからのミサイル兵器導入を試みます。1956年にはスイス・エリコン社から地対空ミサイルRSD58の導入を決めたり、イギリスの空対空ミサイル、ファイアストリークの調査団派遣を検討しますが、これにはアメリカの注意を引く目的もあったようです。

 
こうした方策は直接的な成果は得なかったものの、1957年末にアメリカは態度を一転、NATO諸国および日本へミサイルの供給を約束します。この方針転換は1957年10月のスプートニク・ショックによるソ連脅威論の高まりが影響している、と言われます。

 
1958年にはアメリカ同盟諸国へミサイルが供給され、航空自衛隊のF-86Fでは、全ての機体ではないものの、IRAN(定期検査)で改修が施され、翼下に2発のAIM-9Bを搭載可能となりました。

 
同年8月には、台湾海峡における緊張の高まりをうけ、台湾へサイドワインダーミサイルと関連機材を空輸され、9月24日にはAIM-9Bを搭載したF-86が6機の人民解放空軍の戦闘機を撃墜し、初陣を飾ることになりました。

 
ただし空対空ミサイル技術の独占は諦めざるをえず、中国内で使用されたミサイルの残骸が共産圏に渡り、リバースエンジニアリングをうけることは避けられませんでした。

 
1962年にソ連はR-3S(K-13又はAA-2アトールとも)赤外線誘導空対空ミサイルの配備を開始したのですが、これはAIM-9Bを複製したもの、と言われています。


 航空自衛隊に課された制約

 
実は航空自衛隊の戦闘機はスクランブル時にミサイルを搭載しない、という制約が課されていました。

 
その理由を航空自衛隊史は「平時の領空侵犯措置に任ずる要撃機には、ミサイルを使用する状況を想定しがたい」という当時の政府による情勢判断によるもの。例外は68年から71年の3年間、機関砲を搭載していないF-104Jのために、ミサイルの搭載が許可された時だけでした。

 
この制約ためにソ連軍はもちろん、同盟国のアメリカからも、航空自衛隊のF-86Fがなめられ続けることになりました。

 
佐藤守氏がF-86Fのパイロットであった1967年の6月18日のこと、2機のTu-95の迎撃を試みたものの、この頃のソ連爆撃機はよくジグザグ飛行をするようになり、その日もF-86Fを翻弄していました。

 
しかしアメリカ海兵隊所属のミサイルを搭載したF-4戦闘機が後ろからやって来ると、とたんにTu-95は密集編隊を組んでおとなしくなった、といいます。

 
F-4戦闘機の1番機はTu-95を舐め回すように異常接近し、2番機は後方でバックアップしたものの、しばらくするとF-86Fのほうへ近づいてきて、ハンドシグナルで「帰れ」と促してきたのです。実際F-86Fができることは何もありませんでしたから、やむなく先に帰投せざるをえませんでした。

 
航空自衛隊はF-104、F-4、F-15と次々に高性能機を導入したものの、スクランブル機ミサイル非搭載の制約は課されたままで、1983年8月18日に有事即応体制の整備の一環という形で規制が解除されるまで続いたのです。


 次回は全天候戦闘機F-86Dについて解説いたします。


 参考

世界の傑作機 No.93 ノースアメリカンF-86セイバー (文林堂 ISBN4-89319-092-X 2001年5月5日)
P38~37,P98,P83~85 P89,P94,P98~102

ヴィジュアル大全航空機搭載兵器(トマス・ニューディック著 毒島刀也訳 ISBN978-4-562-05075-8 2014年5月30日)
P14,P22~23

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P428~429

世界の傑作機 No.93 ノースアメリカンF-86セイバー (文林堂 ISBN4-89319-092-X 2001年5月5日)
P98,P83~85,P89,P94,P98~102

ヴィジュアル大全航空機搭載兵器(トマス・ニューディック著 毒島刀也訳 ISBN978-4-562-05075-8 2014年5月30日)
P14,P22~23

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P428~429

操縦のはなし(服部省吾 ISBN4-7655-4392-7 1994年2月10日)
P116-137

誘導弾導入をめぐる日米の攻防(航空自衛隊幹部学校教育部戦略・戦史教官室 岡田志津枝 2009年3月)
http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200903/03.pdf