航空自衛隊防空史1
航空自衛隊発足から「領空侵犯に対する措置」開始まで

文:nona

 
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  今回の連載では冷戦時代における航空自衛隊の防空の歴史を紹介して参ります。第一回では航空自衛隊の発足から「領空侵犯に対する措置」が開始までの経緯を解説いたします。

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 1952年秋の北海道危機

 
1945年の敗戦と翌年の平和憲法の成立により、一度は全ての戦力を放棄した日本でしたが、1950年の朝鮮戦争により状況は一変。朝鮮へ転出したアメリカ軍の穴埋めとしての警察予備隊の発足と、1951年のサンフランシスコ平和条約による主権回復など、再軍備が許容されつつありました。

 
航空戦力の再建は1952年に本格化し、静岡県の浜松では保安隊航空学校が開校、青森県の三沢では「チェリーブロッサムプロジェクト」の名でレーダーおよび通信網の技術者が育成されました。

 この時点で、北海道に対するソ連機の領空侵犯が多発しておりましたが、日本には如何ともしがたい状況でしたから、日米安全保障条約に基づきアメリカ空軍が対処していました。

 
一方でアメリカ空軍は爆撃機を北方領土付近に展開させたことで、B-29爆撃機がソ連機によって撃墜されてしまいます。1952年10月7日、歯舞諸島の勇留島付近での事件でした。

 
これ以降ソ連機による領空侵犯は増加の一途を辿り、対するアメリカ空軍も本国政府から交戦許可を取り付けるなど、強硬姿勢を続けました。

 
1953年2月16日には、ソ連機2機と米軍機2機が交互に発砲する一触即発の事態に至りました。

 
ここでようやく両国は互いに身を引き、対立も沈静化したものの、1954年には再びアメリカ空軍の爆撃機が撃墜される事件が起きています。

 
こうした事例から、航空自衛隊には平時のソ連の狼藉を抑止できる防空組織と、アメリカの都合で日本が戦争に巻き込まれないよう、日本の判断で対処行動できる独立指揮権が求められました。


 航空自衛隊の発足と戦闘機の取得

 
1954年7月1日航空自衛隊が発足し、1955年からは主力戦闘機となるF-86Fセイバーの配備、並びにパイロットの訓練がスタートします。

 
このF-86セイバーは、第1世代に属するジェット戦闘機で、最終的に480機を取得し、うち300機は三菱でノックダウンおよび、アッセンブリ方式で生産されました。運動性、操縦性に秀でたことで、元空自パイロットから高く評価されています。

 
その一例を挙げると、

「F-104、F-15と比べると飛行性能でも戦闘能力でも数段劣るが、自分の手と足で操縦しているという手応えがあった。」「F-104部隊への異動を断って、F-86Fに乗り続けることを選んだ。」
岩崎貴弘氏(元第204、305飛行群運用班長、退官後エアショーパイロット)

「あれに今乗ることのできない現在のパイロットはかわいそうだなと思います。」
森垣英佐氏(第202飛行隊長)

「空気の流れに身を任せつつ、操縦者の意志を自在に表現させてくれた。」
佐藤守氏(元空将、退官後軍事評論家)

「今でも操縦できるんじゃないかな。T-33よりも乗りやすかった。」
竹田五郎氏(元陸軍飛行第224戦隊中隊長、防衛庁統合幕僚会議議長)

 
と大変好評の機体でした。


 
多発した航空機事故

 
航空自衛隊の航空機部隊の増勢に従い、事故も多発しました。航空自衛隊史で最も大中の事故が多かった1957年には19名が殉職、19機が破壊される異常事態となっています。F-86Fも10機が事故で破壊され、さらに1機が地上で整備員の上半身を吸い込み大破しました。

 
特異な例としては、隊長機からはぐれ自位置を見失ったF-86Fが地面に衝突し、隊長機も僚機を探しているうちに燃料切れで墜落、1日に2機が破壊される、事故もありました。

 
対策として1957年中に航空集団司令部による安全検閲が開始され、1958年に臨時救難航空隊の編制で、事故および殉職者は減少傾向となるものの、毎年10機以上の喪失は当たり前、という時期が1963年まで続きました。

 
F-86Fを始めとする航空機部隊の戦力化は、危険と隣り合わせの状態で進められたのです。


 
レーダーサイト及び迎撃管制組織の供与

 
F-86Fの戦力化と平行し、アメリカ空軍から迎撃管制組織の引き継ぎ準備も実施されました。

 
航空自衛隊では1954年10月に訓練航空警戒隊を編制し、隊員に一定の訓練を実施した後、アメリカ空軍が管理する日本各地のレーダーサイトに派遣。アメリカ空軍のオペレーター達と共同生活を送りながら運用ノウハウを学ばせました。

 
レーダーサイト施設の移管は1958年5月31 日に鹿児島県下甑島から開始され、6月10日に北海道の襟裳岬、6月4日に静岡県の御前崎のレーダーサイトが続きました。

 
1960年には三沢、入間、春日のADDC/ADCC(迎撃指令所、迎撃管制所)も移管されたことで、迎撃管制組織の引き継ぎはほぼ完了となります。

 
例外としてソ連領が目と鼻の先にある稚内レーダーサイトは、2回の評価試験の後(通常は1回)、1961年9月1日になって移管となりました。


 航空自衛隊初のスクランブル

 
1958年4月26日、津島防衛庁長官はついに航空自衛隊に対し領空侵犯に対する出動を命令。続いて4月28日、北海道千歳基地の第3・4飛行隊のF-86F戦闘機が警戒待機に入ります。

 
そして5月13日午前10時、北海道のレーダーが日本海を南下する国籍不明機を捉え、10時16分に第二航空団に対しスクランブルが発令されました。

 
千歳基地で待機していた第3飛行隊のF-86F戦闘機2機が5分以内に発進し、国籍不明機へ向かいます。

 
しばらくして国籍不明機は進路を替え、領空を侵犯する恐れがなくなると、F-86Fへ帰投が指示され、11時10分に千歳基地に着陸。

 
これが航空自衛隊初のスクランブルでした。


 警戒待機は1日4時間

 今でこそ「24時間いつでも5分以内に発進」が当たり前の警戒待機ですが、前述の千歳基地のF-86Fが警戒待機にあったのは、平日の10~14時という極めて短く、要員も不足していました。

 
この状況は次第に改善され、12月22日からは日の出30分前から日没まで発進待機が延長されますが、F-86Fが全天候能力を持たない以上は、夜間の警戒待機は行われませんでした。

 
1958年度の緊急発進回数も25回に留まり、依然として日本の防空はアメリカが頼みの状況が続きます。

 
その後、警戒待機態勢の航空基地は増加し、1959年8月には捜索レーダーを搭載する全天候戦闘機のF-86Dも警戒待機に加わります。

 
小笠原・沖縄を除く日本全国、24時間の警戒待機態勢が完成したのは、1964年10月のこと。ちょうどブルーインパルスのF-86Fが東京上空に五輪の輪を描いた頃でした。

 
これをうけ、長らく日本の防空に携わっていたアメリカ空軍は発進待機態勢を1965年6月に解除、ようやく航空自衛隊も独力で防空が可能となりました。

 
次回は1960年中頃までの迎撃管制組織による発見、識別、要撃のプロセスを解説いたします。


 参考

航空警戒管制組織の形成と航空自衛隊への移管―同盟における相剋
http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j15-1_5.pdf


航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編集,防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P83,P158

航空自衛隊五十年史 資料編(航空自衛隊50年史編さん委員会編集,防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
255~257P

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(文林堂 ISBN4-89319-092-X 2001年5月5日)
P91,P98-102

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(岩崎貴弘 ISBN4-06-210672-8 2001年11月20日)
P246,P328

自衛隊エリート・パイロット
(菊池征男他 ISBN978-4-87149-982-8 2007年8月31日)
P40

スクランブル 警告射撃を実施せよ
(田中石城 ISBN4-906124-26-7 1997年4月27日発行)
P36-46

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