日本陸軍が行った後期防衛戦闘について  
「日本陸軍、破滅の道をひた走る ペリリュー島の戦い3 嵐の前の静けさ2~ペリリュー地区隊初期の防御計画」

文:YSW

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(秋田県立図書館所蔵 戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦2 付図より)
この時点で4つの地区に区分されているため5月の下旬以降だと思われる

 ペリリュー島の部隊について。
 昭和19年6月初頭のペリリュー島にはペリリュー地区隊(長 中川大佐)が守備隊として配備されます。
 歩兵第二連隊、歩兵第十五連隊第三大隊、師団戦車隊(一個小隊がアンガウル地区隊に配備)、師団通信隊一分隊、師団じく重隊の一分隊、経理勤務部の一分隊、野戦病院三分の一と大部隊(本島であるパラオであっても歩兵第十五連隊(三個大隊欠)が主力だった。なおパラオ本島では後に独立混成第五十三旅団を編成する)でした。
 糧食においてはペリリュー島には三千五百名分の糧食九か月分[1-1]が配備されましたがそれでもなお足りないものでした。

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 中川州男大佐(以下中川大佐)は四月下旬にペリリュー島に進駐します。進駐するや、三月以降同等の守備を担っていた山口武夫少将の部隊の一部と海上機動第一旅団輸送隊とその守備を交代します。また配備の重点を南半部と北部(ガドブス島含む)に分け、至近距離で短刀火力を発揮して敵を水際にて撃滅する作戦構想の下にペリリュー島を東・北・南の三地区に区分しそれぞれに一個大隊を基幹に部隊を配置、また予備戦力として二個中隊を基幹として配置させています。[1-2]

 
歩兵第二連隊第六中隊小隊長であった山口永少尉は当時の状況を次のように回想しています。
「連隊がペリリュー島に進出した四月当時、同島には海軍航空隊のほかに海上機動第一旅団輸送隊の一部などが配置されていたが、陣地はほとんどなく無防備の状態であった。連隊の上陸後、各部隊の守備地区決定に伴い、まず防空壕の構築に専念、次いで防御陣地の構築に移行した。全島石灰岩で、しかも石のみ、ハンマー、ダイナマイトなどの不足のため作業は困難を極めた。築城資材は海軍部隊の方が豊富で陸軍部隊は三拝九拝をして分けてもらった。」[1-3]

 
 ここまでの文を読んで気づいた方もいるかもしれませんが、初期防御計画において、中川大佐は水際防御を重要視しているように見えます。

 
これは昭和18年11月に配布された「島嶼守備部隊戦闘教令(案)」および昭和19年4月に発行された「島嶼守備部隊戦闘教令(案)の説明」の影響によるものと考えられます。

 
「島嶼守備部隊戦闘教令(案)」の「第五章 築城、交通」の第六十六 直接配備、という項目では「海岸に直接配備を行うには主陣地の前縁は通常水際近くに選定しなるべく砲兵をもって遠くの海上を火制し得るとともに、水際の敵に退位し自歩兵重火器及び近戦砲兵の主火力を指向し、かつ期を失せず逆襲を実施する如く施設するものとす。」[2-1]と書かれており、この後の文でも加農砲を保持し、掩蔽施設がきちんと構築されている場合はできるだけ海上を制圧し、敵艦艇、泊地あるいは舟艇群を射撃すること、とあります。

 もちろん補足や注意として「火砲は敵砲爆の目標となるをもって、これが過半なる使用はいたずらに損害を受くるものにして、実効これに伴わざること多きは洗礼の実証するところなるをもってなり。」[2-2]としていますが、実際のところ大陸指第2130号別冊の「島嶼守備要領」昭和19年8月19日 での「第三 主陣地帯の前縁は小島にて全島を陣地たらしむる場合のほか、前地にける靭強なる戦闘を実施し得るのを利を収めかつ敵の砲爆撃に折る損害の減少を図るなどのため海岸より適正後退して選定するを可とす」まで有効な作戦として明言されておらず、昭和19年10月に出された「上陸防御教令(案)」まで水際防御からの脱却はできていません。

 しかし愚痴のような山口少尉の発言からわかるように地下陣地についても重視し、特にサンゴ礁の堅い岩盤はダイナマイトを使ってでも掘り、利用する。という事がよくわかります。

 
さて、話は昭和19年5月24日。歩兵第十五連隊第三大隊(大隊長代理中村準大尉以下750名―大隊長千明武久大尉は5月17日から連隊本部付から補職)がペリリュー地区隊に増強され、中川大佐は三地区から東西南北の四地区に新たに区分し、新たに設けた西地区は第二大隊(隊長 富田 保二少佐)に守備を命じ、南地区の守備は第三大隊に命じます。27日には交代を完了させました。[1-3]

 5月下旬時点の防御計画は前述した様に水際防御主体であったものの、この後の戦いにおいて重要となる記述がみられます。

 
それは五月下旬におけるペリリュー地区隊の防御計画の大要における「第六 築城 二 水際防御陣地ノ編成施設上著意スヘキ事項左ノ如シ」の「3 重火器の側防火点は敵機および艦砲射撃に掩蔽できる位置を選定。 努めて耐弾性が高いとともに状況の変化に即応することのできるよう数か所の陣地を準備すること」と「三 水際陣地の後方に地形を利用し第二線中間陣地をもうけ、水際陣地の破たんの拡大を阻止し、なおかつ予備隊の反撃の拠点になるようにすること。またその編成の要領は水際陣地に準ずるものにするが地区に重火器の大部をもって陣地前から水際に至るまでの間に郷愁的集中火力を発揮することのできる多数の陣地および堅固な掩砲(銃)所を設けなおかつ反撃の機動路を整備する。またその間隙と縦深に多数の擬陣地と偽工事を設置する」との記述です。[1-4]

 この他にも「五 野砲は主として斜射側射をもって水際付近に火力を指向し敵舟艇と戦車を撃滅に努めるとともに水際陣地の一部の破たんに際し同所に火力を集中し得る如く準備し環礁の要所にあらかじめ火力を配置する」「大部分の下方は水際支点および第二線陣地内に堅固なる側防火点をもうけ、また多数の陣地を準備し敵火の損害を分散せしめる」[1-5]としています。

 つまりは従来の水際防御をもとに戦術および陣地を構築するものの「敵軍戦法早わかり」などの情報により制空・制海権のとられた水際防衛に限界を感じ新たなる防御戦術である縦深防御を取り入れ始めたと考えられます。

 
前回の話でも書いた通り、水際陣地は防御のための土地でした。しかしそれは味方陣営が少なくとも制空権・制海権ともに取られない、または保持していることによって成り立つ作戦であり、この戦い以後より日本軍は海岸を戦場として見ず、複郭陣地・斜面陣地を本命としているのです。

 
ペリリュー守備隊の行った、これまでの陣地構築と防御戦術の転換はもちろん上層部の反感を産むこととなります。
 これは村井櫂治郎少将の視察にも表れます。
 しかしパラオ守備隊、つまり矢面に立つこととなる部隊にとって、自分たちが任務を全うできるか出来ないかは戦術にかかっているため、ペリリュー守備隊は視察後も陣地構築を続けることが出来るのです。
 少将視察については今後機会があったら書いていきたいと思っています。

 
次回は部隊訓練に関して説明していきます。


引用文献

戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦2
P96
P102
P103
P105
P106

日本陸軍式 島の守りかた
2-1 P93
2-2 P92


その他参考文献

復刻版 敵軍戦法早わかり
写真で見るペリリュー島の戦い
卑怯な日本軍
ペリリュー・沖縄戦記

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