【軍事講座】戦艦扶桑の「あ号作戦」-囮理論とその周辺-

文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)

 この記事は以前投稿した『戦艦扶桑の「常在戦場」』の後日談にあたります。
 本文には以前の投稿内容を踏まえた個所がありますので、未読の方は前作も併せてごらんください。


○大事なことは全部提督の決断で学びました。

 
史上最大の空母航空決戦となった「マリアナ沖海戦」。
 参加した日本戦艦は「大和」「武蔵」「長門」「金剛」「榛名」の5隻です。
 昔のSLGでばっちり学習しましたから、間違いありません。
 残る「扶桑」「山城」「伊勢」「日向」の4隻は母港で新たな艦隊を編成し、呉から増援として出撃。こういう遊び方をした人は多いのではないでしょうか?
 もちろん私もその一人でした。
 
そのため何かの本で「扶桑」が当時ダバオに居たと知ったとき、最初に感じたのは違和感でした。
 「旧式戦艦が姉妹艦と別れて1隻だけ、どうしてこんなところに?」
 その答えにたどり着くまで約10年。
 これは、役立たずの欠陥戦艦と誹謗される彼女が、戦史の狭間で演じた一人舞台に関する記録です。

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○真夜中の招待状。闇の呼ぶ声

 
昭和19年(1944年)5月29日2343。
『本作戦を渾作戦と呼称し同部隊を渾部隊と称す(中略)…間接護衛隊「扶桑」。』
 連合艦隊電令作第102号として発信された一本の電文が「扶桑」を翻弄します。
 それは「扶桑」が『あ号作戦』のため、タウィタウィ泊地で待機中のことでした。

 
これより2日前の5月27日、ニューギニア西部ヘルビング湾に浮かぶ要衝・ビアク島に連合軍が上陸。防衛する日本軍守備隊(ビアク支隊)と激戦になります。
 同地が『あ号作戦』で想定の決戦海面-パラオ諸島、ミンダナオ島、ニューギニア島西端を囲む線の内側で「三角地帯」と呼ばれた-に近いことから、急きょ日本陸海軍はビアク島に兵力を増強し、連合軍侵攻部隊の撃退を図ります。
 これが70年度の2014年秋、『艦隊これくしょん -艦これ-』(もはや伏字を使いもしない)の期間限定イベントとして公開された、「発動!渾作戦」こと『渾作戦』の概要です。そしてそれは日本軍にとって、よりスケールの大きい勝利を狙った作戦への布石でもありました。

 
第一機動艦隊の一員としてタウィタウィ泊地に待機していた「扶桑」は、この作戦のため転用され、ある目的をもって艦隊主力と別行動をとることになります。

 
ですがその目的を説明する前に、まず「扶桑」の艦隊における位置づけを、もう一度整理したいと思います。

○置き場がない!-さまよえる「扶桑」-

 
時計の針は3か月遡り、昭和19年2月25日。
 この日、連合艦隊戦時編制が一部改定され、伝統ある第一艦隊が解隊されました。
 長らく戦艦中心の部隊として「連合艦隊主力」の代名詞であった第一艦隊ですが、戦術思想の変化に伴いその存在を見直され、3月1日付で発足の第一機動艦隊(第二艦隊と第三艦隊で編成)が名実ともに連合艦隊主力の役割を担うことになったのです。

 
第一艦隊の解隊に伴い、第一艦隊司令長官直率であった第二戦隊も解隊されます。
 当時、戦隊の所属艦は「長門」「扶桑」「山城」「伊勢」「日向」の5隻。
 それが編制改定により「長門」は第二艦隊第一戦隊(「大和」「武蔵」)に編入。
 残る「扶桑」「山城」「伊勢」「日向」の4隻はそれぞれ単艦扱いで連合艦隊附属に編入されました。

 
字面の上では違和感のない変更ですが、当時この5隻は南方組(「長門」「扶桑」)、内地組(「山城」「伊勢」「日向」)に大きく分かれて行動しており、両者の距離はなんと約5,000キロ。所属変更と言われても、話はそう単純ではありませんでした。
 とりわけ問題になったと思われるのが、南方のリンガ泊地にいた「扶桑」です。

 
先に述べたとおり、「扶桑」と「長門」は17年7月から同じ第二戦隊に所属し、特に18年8月の南方進出後は常に行動を共にした僚艦でした。練習艦として東京湾から出てこない「山城」、柱島泊地で爆沈した「陸奥」、お互いの姉妹艦よりむしろ戦時中の同一行動期間は長いほどで、人間で言えば実の兄弟(姉妹?)より絆の深い『戦友』に例えられます。
 その二隻の配属先がこの時分かれたのです。
 そして結果的に、これが両艦の運命の分かれ道になりました。

 
所属変更の理由について触れているのが、2月23日軍令部総長が戦時編制の改定について天皇に報告した上奏文です(長文のため「扶桑」「長門」関係部分のみ抜粋)。
 『第一艦隊の主力でありまする第二戦隊の戦艦中「長門」は機動艦隊に編入(中略)残ります「扶桑」「山城」は現装備に於きましては機動部隊に編入を不適当と致します』

 
「扶桑」の『現装備』とは具体的に何を指し、どのような理由で『不適当』なのかはわかりません。
 先に述べたとおり、「扶桑」と「長門」の電波装備と対空兵装はこの時期同じようなレベルなので、この点ではないと思われます。主砲口径の差(「扶桑」36糎、「長門」41糎)とも考えられますが、それでは『現装備』の『現』とは何でしょうか。主砲口径という変更不可能な要素を『現装備』と呼ぶには違和感があります。
 私の想像で恐縮ですが、これは「扶桑」「山城」の航空戦艦改造が未実施であることを指すのではないかと思います。引用文で(中略)とした部分には、航空戦艦に改造した「伊勢」「日向」の報告が述べられており、続けて読むと全体として違和感のない文章となっています。

 
また上奏の4日前。2月19日軍令部における編制改定の起案文には次のような説明があります(長文のため「扶桑」「長門」関係部分のみ抜粋)。
 『2.「武蔵」「大和」「長門」の3戦艦を第一戦隊とし、機動部隊に編入するを適当とす』
 『4.「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」は単艦とし、(中略)「扶桑」「山城」は差当り練習任務に充当のこと』


 
「扶桑」は同一行動中の「長門」ではなく、内地にいる「山城」と同じ扱いであることがわかります。
 また『差当り』練習任務という言葉が使われていますが、これは用法について最終的な確定をみたわけではなく、依然流動的な部分があることを示しています。先の上奏文の内容と合わせると、「扶桑」「山城」の航空戦艦化の構想はまだ完全に中止されてないような気がします。

 
一方前線のパラオでは、「武蔵」艦上の連合艦隊司令部が『Z作戦』計画を改定していました。
 『Z作戦』は山本長官の戦死後、古賀長官の就任に伴い策定された連合艦隊の迎撃計画でしたが、策定当時と比べマーシャル/ギルバート諸島の失陥、トラック壊滅、ラバウル放棄に第一機動艦隊の発足と大幅な改定が必要でした。
 その3月8日付の作戦指導腹案に「扶桑」に関する次のような記述があります。

『二 兵力の移動集中
(イ)(省略)
(ロ)(中略)第一機動艦隊兵力は「タウイタウイ」又は「パラオ」に待機せしむ。「扶桑」は「リンガ」方面に残留せしむ。
(ハ)Z作戦用意又は発動に際しては「リンガ」方面配備全兵力(扶桑を除く)を太平洋方面に転進せしむ。』


 
編制改定により単艦扱いの「扶桑」が名指しで出てきますが、大事なのはそこじゃありません。
 「扶桑」は第一機動艦隊全力出動の場合でもリンガ泊地に残留。つまり『Z作戦』兵力に始めからカウントされていないという衝撃の事実です。

 
この時期の「扶桑」は「長門」「武蔵」と共に3隻きりの実働戦艦であり、連合艦隊にとって貴重な実戦即応兵力ではありましたが、来期シーズン・・・ではなく今後の作戦計画では既に構想に含まれていませんでした。事実上の戦力外通告に等しく、かなり思い切った措置のように思えます。

 
ただし3月10日付の連合艦隊兵力部署によれば、「扶桑」は「長門」と同じく第一機動艦隊司令長官指揮の「機動部隊」に属し、「敵艦隊航空兵力撃滅」を一の主要任務としています。つまり戦力として何かしら期待はされているという状態でした。
 まるで育成選手時代の中村紀洋のような扱いですが、この辺りまだ軍令部、連合艦隊とも「扶桑」の用法を固め切れてはいないようです。

○ごちそうは「扶桑」ですか?-米機動部隊誘引大作戦-

 
そんなこんなでリンガ残留となるはずの「扶桑」ですが、5月11日「大和」「長門」「金剛」「榛名」ら第二艦隊主力とともに堂々リンガ泊地を出航し、14日タウィタウィに進出します。
 なんでやねんという感じですが、それもそのはず、「Z作戦」計画自体がこの時すでに過去のものになってしまっていたからでした。

 
3月30日、米機動部隊はパラオを空襲。この空襲はマッカーサーの要請に基づき、4月予定のホーランディア進攻作戦が側面からの脅威(パラオの日本艦隊。「武蔵」と重巡5、駆逐艦7など中程度の艦隊しかなかったが、米軍特にマッカーサーの司令部はその脅威を過大評価していた)に晒されないよう、事前に掃討する目的で行われたものですが、これに動揺した連合艦隊司令部が飛行機で移動中遭難、古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職するという大ハプニングが発生しました。
 俗にいう「海軍乙事件」ですが、この際福留繁・連合艦隊参謀長が一時捕虜になり、『Z作戦』計画書の漏えいが疑われました。結局『Z作戦』計画は破棄され、それに代わるものとして『あ号作戦』計画が立案され以後連合艦隊の行動の根底となります。

 
新たな『あ号作戦』計画の中に、「扶桑」を名指しした部分があります(機密連合艦隊命令作第76号別冊第一「あ号作戦要領」。5月3日発令分)。
 それは、「我決戦配備整いたる時期」に「機動部隊」が行うべき行動として
『(イ)作戦要領
(中略)特令して一部兵力(五戦隊、「扶桑」、駆逐艦2を標準とす)を「ウルシー」又は「パラオ」方面に進出待機せしむ』
というものです。

 
何とも中途半端な兵力ですが、その目的はすぐ後で明らかになります。
『(ハ)決戦海面に敵艦隊導入方策
(中略)特令により一部兵力を「ウルシー」又は「パラオ」方面に進出待機せしめ敵を誘出す』

 
つまり「扶桑」(と第五戦隊の「妙高」「羽黒」)は、米艦隊を『あ号作戦』で想定した決戦海面に誘い出すための囮役と指定されたのです。


 実は『あ号作戦』には立案時点から根本的な問題がありました。
トラック、パラオと相次ぐタンカーの大量喪失によって艦隊の燃料事情が逼迫しているため、決戦海面を第一機動艦隊の待機地点から遠くに設定できないのです。これは5月2日、天皇臨席のもと開催された大本営の御前研究で軍令部第一部長が身も蓋もない説明をしています。

 「決戦海面は為し得る限り我が機動艦隊待機地点に近く選定するものとす」

 しかし行動のイニシアチブはそうした制限のない米機動部隊にあり、それを騙し騙し身近な決戦海面に引き寄せて叩く、という非常に自己中心的な発想が『あ号作戦』の根底にありました。
 その引き寄せ、つまり決戦海面に敵艦隊を導入するための方策として考えられたのが、一時戦力構想から外されかけていた「扶桑」を撒き餌にするという案でした。
 排水量35,000トンの巨大な釣り針、それが「扶桑」に期待された新たな役割だったのです。

 
ただしこの方策は、米軍の航空機による偵察・潜水艦による監視から企図を秘匿することが困難であり、「一部兵力」による誘出もその兵力が過小でした。
 作戦を担当する第一機動艦隊先任参謀・大前敏一大佐も「余り期待していなかった」と戦後に回想するなど、はじめからその実現性については疑問を持たれていたようです。
 また戦史叢書『マリアナ沖海戦』では、中立公正な立場を貫く公刊戦史には珍しく、「ある程度の期待を持っていたかもしれないが」と前置きしたうえで、「虫の良すぎる方策と言わざるを得ない」と酷評を加えています。
 東京のこうした思惑を阪匡身艦長以下「扶桑」乗組員が果たして知っていたのか、知らされたとしてそれをどのように感じたのか、今となってはそれを知る術はありません。

○司令部の一存-第一機動艦隊司令部議事録-

 
「扶桑」を囮として使用する意図については間もなく機動部隊に伝わったようです。
 第一機動艦隊側で「扶桑」及び、「扶桑」を指していると思われる個所を抜粋しました。

1.第一機動艦隊戦策(19年3月25日発効)
「第二章第五節第一項第一目
五(中略)一部兵力を以て牽制陽動を行わしめ敵を誘出し或いは其の攻撃方向を一側に固定せしめ其の隙に乗ずる如く接敵す」

2.機動部隊「あ」号作戦計画(日時不明)
「(イ)(中略)令に依り牽制部隊を「ウルシー」又は「パラオ」方面に進出せしめ友軍と協力敵を決戦海面に導入するに努む」
3.「あ」号作戦要領(第一機動艦隊参謀長5月11日発電)
「一 牽制部隊 五戦隊司令官 五戦隊、扶桑、駆逐艦二」
4.第一機動艦隊司令長官訓示(5月19日)
「二 大局上必要の場合一部を犠牲に供す」

 
4.については「扶桑」を名指ししたものではありませんが、各種の作戦要領及び全体の状況を勘案して、「扶桑」を含む牽制部隊を念頭にした発言だと私は解釈しています。

 
第一機動艦隊司令長官は牽制部隊の編成と行動について直接命令を下す立場でしたから、「扶桑」の命運はその一存にかかっています。パラオ環礁で艦載機に袋叩きにされ擱座するか転覆するか、もしくは三角地帯で猛威を振るう潜水艦に沈められるか、はたまた中小艦艇に囲まれ電探射撃で蜂の巣にされるか、いずれにせよ牽制作戦が発動されれば「扶桑」の命はありません。

 
ただし牽制部隊の編成と行動開始の時期には第一機動艦隊司令部にも迷いがあったようです。
 機動部隊「あ」号作戦計画はその状況に応じ、第一から第五までの軍隊区分(作戦行動中の艦艇のグループ分け)を設定していますが、上記の「牽制部隊」はいずれの編成表にも見当たりません。

 
実際にマリアナ沖海戦で使用されたのは、第一戦法(昼間強襲攻撃)に基づく第一軍隊区分をベースとしたものですが、第一軍隊区分には作戦計画の紙面上、乙部隊に「扶桑」が含まれています。

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 つまり「扶桑」は同じ乙部隊の「長門」「最上」と共に第二航空戦隊(「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」)の護衛と指定されているのです。
 本来であれば、「長門」も第一戦隊の僚艦「大和」「武蔵」と同じ前衛部隊になるのが筋ですが、あえて単艦で乙部隊に回されたのは、その速度性能が乙部隊の改造空母に近いことが理由だと考えられます。
 また、「長門」「扶桑」の細かい速力差は特に考慮された形跡がなく、第一機動艦隊司令部では2隻の速度性能はともに認容の範囲内と考えていたようです。
 第一軍隊区分は「5月15日以後特令なくして第一軍隊区分とす」という第一機動艦隊の基本配備であり、それに「扶桑」が乙部隊枠で入っている。ということは逆説的に、マリアナ沖海戦に「長門」が参加し「扶桑」が不参加となったことは、速度の面が理由でないことを示しています(この点は後にもう一度考察します)。

 
また、第二軍隊区分は第二戦法(機動部隊が2ないし3群に分離する包囲態勢)の際に使用しますが、その場合でも「扶桑」の乙部隊配備に変更はありません。

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 続く第三軍隊区分は第四戦法(追撃戦又は飛行機隊の陸上基地運用中)、第四軍隊区分は第六戦法(水上艦艇による決戦)を想定した配備ですが、いずれも接近戦が予想され、火力が重要な場面です。
 この場合「扶桑」は「遊撃部隊」に配備され、「長門」と共に第二艦隊主力と行動します。この時期にあってもなお、「扶桑」の火力が状況いかんでは必要とされていたことが窺えます。

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 最後の第五軍隊区分ですが、これは非常に変則的な運用です。作戦計画に明示はありませんが、第一機動艦隊戦策の第五戦法に対応した配備だと考えられます。

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 第五戦法は一言でいえば牽制陽動作戦です。陽動を担任するのは乙部隊で、「挺身攻撃又は牽制機動」を行い「敵機動兵力の誘出攻撃」を実施します。この場合のみ、「扶桑」は乙部隊の「長門」と別れ、「大鳳」ら第一航空戦隊と同じ甲部隊に配備される計画でした。
 この場合、速度性能の大きく異なる「扶桑」を第一航空戦隊とどのように行動させるつもりであったのか知りたいところですが、牽制陽動役を第二航空戦隊が務め、「扶桑」がその隙を衝く、という『あ号作戦』作戦要領とは真逆の構想が目を引きます。

 
この点、第五戦法を含む第一機動艦隊戦策(3月25日)が「あ」号作戦要領(5月11日)より先にありますので、元々牽制陽動作戦の構想が先にあり、当初第一機動艦隊司令部は牽制陽動役を第二航空戦隊で考えていたところ、連合艦隊司令部が『あ号作戦』を立案した際に「扶桑」に差し替えた、という方が日付的には正しい順番でしょう。
 相当にトリッキーな作戦ですが、このプランは後でもう一度、それらしき話が出てきます。

 
何はともあれ、「扶桑」は牽制部隊と乙部隊、両方に名前が載る奇妙な状態で「あ」号作戦の発動(5月20日)を迎えました。
 ただ、本来であれば艦隊の集結完了をもって、直ちに「我決戦配備整いたる時期」に開始すべき牽制部隊のパラオ方面進出は、この後ビアク島に連合軍が上陸し、『渾作戦』が発令される29日まで実行に移されず、事実上第一機動艦隊司令部が保留する形になっています。あるいは第一機動艦隊の小沢長官自身も、内心では牽制作戦の効果に疑問を持っていたのかもしれません。

 
この奇妙な膠着状態を打破して始まったのが、冒頭のビアク島攻防戦でした。
 次回は、「扶桑」の『渾作戦』派遣とマリアナ沖海戦の不参加について述べる予定です。


【参考文献】
木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社 1983年
朝雲新聞社『戦史叢書』関係各巻
本文画像は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030040000、昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報 (防衛省防衛研究所)」に所収の「軍艦千歳戦闘詳報」の一部

<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』

URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx