日本陸軍が行った後期防衛戦闘について  
「日本陸軍、破滅の道をひた走る ペリリュー島の戦い1 両国の思惑」

文:YSW

 初めまして、YSWと申します。
 今回から日本陸軍の防御戦術についての読者投稿を連載させていただきます。このようなものは初めてのため至らぬ点や間違い、誤字もあるかと思いますがお気軽にコメント欄に書いてもらえると嬉しいです。

 さて、この連載では先ほど書いたように日本陸軍の戦術について連載してまいります。が、そもそもの話、日本陸軍の防御戦術は前期と後期で大きく違います。1944年、日本陸軍は戦術においてある転換点を迎えたからです。それは堀栄三の「敵軍戦法早わかり」の配布が大きくかかわります。

 この本の存在と、日本陸軍の戦術転換(教本が大きく変わった)により太平洋の島々は泥沼の戦場と化して行くことになります。今回は後期の防衛戦の中でも人気の高いペリリュー島の戦いを紹介していきます。

 アメリカ海兵隊を大いに悩ませた日本陸軍の戦術、少しでも興味を持っていただいたら幸いです。

 
今回は初回ということで、なぜこの島で激戦が繰り広げられることになったのか。またそもそもはどんな島なのか、を紹介します。

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パラオに迫る戦火

歴史

 第一次世界大戦までドイツの統治領であった中部太平洋一帯は戦勝国である日本の統治下におかれることになりました。パラオ諸島は南洋の中の西カロリン諸島の西端大小109の島からなっていました。
 主な島はペリリュー、アンガウル、コロール、パラオ本島(バベルダオブ)、マラカルからなり、最大の島がパラオ本島でした。コロールには南洋庁が置かれ、パラオは南洋庁の行政の中心部ともなっていました。[1-1]
 豊富な漁業資源とリン鉱石の惣菜から日本人居住者も多く、昭和18年にはパラオ住民3万3000人のうち74%が日本人となるほどでした。[2-1]

地形

 パラオ諸島は洋島であり、多くの島が崖や急傾斜をなしていましたがペリリュー島とアンガウル島は一般に平坦でした。有名な地下洞窟は、地下水の浸食作用によりできたもので、サンゴの死骸による石灰質岩は浸食作用を受けやすく書く所に鍾乳洞を作り、パラオ島のアイライにあるものは特に長大で有名です。
  ヤップ諸島は古期変質岩類系の結晶片岩からなっており諸島の中では例外な存在でありました。
 河川に見るべきものは無く、肥沃な土地は極めて少ないです。
 港湾はパラオ港とアンガウル港があり、パラオ港は内港20隻、外港60隻以上を投錨できる大規模なものでした。
 面白い設備では洞窟式燃料庫が3つ設置されています。[2-2]
 
飛行場も多く設置され、ペリリュー飛行場とヤップ第一飛行場は大型機の運用を可能とし、そのほかにもアミオンスおよびアラカベサン水上基地もあり南洋の防衛を大きく担っていました。

1
飛行場の一つであるガドプス飛行場。
(画像引用 戦史叢書 P104)

戦火への道

 開戦以来、陸軍は太平洋正面を持久正面とみていましたが戦争が激化するにつれて中部太平洋を重視し始め、昭和18年9月1日に行われた南鳥島への空襲を受け、太平洋諸島部の防衛強化を決定します。[1-2]
 戦局は悪化の一途をたどり陸軍はニューギニア東部からラバウル、ソロモンの線で持久戦を行い、マリアナからトラックの線まで撤収し守りを固めようとします。
 これに対し、2月29日、パラオに連合艦隊司令長官は3月8日に、昭和18年8月に策定したマーシャル決戦を基調とする遊撃作戦要領に改定を加え「連合艦隊は当分の間主作戦を太平洋の正面に指向し、同方面において敵艦隊攻略部隊が来航する場合は友軍と共同で集中兵力を上げてこれを要撃撃滅するとともに所要の要域を確保せんとす」と海軍はトラック島を水上艦隊の根拠地にし、敵艦隊の動きに呼応し攻撃を行う「Z作戦」を決定しました。[1-2][2-3]

 昭和18年9月には御前会議で絶対国防圏が設定され、ここで航空部隊を主とする反撃部隊を整備し痛撃を与えるという構想を考えていました。
 しかし陸海の対立(陸軍はさらに戦線を下げたいが、海軍はマーシャルを決戦海域に設定したいというもの)によりあいまいな形で国防圏は決定され、その結果米海軍機動部隊および航空支援を受けた米海兵隊に「Z作戦要撃帯」であったギルバート諸島から東カロリン諸島を一挙に突破されてしまいます。[1-2]


4
日本海軍の決戦海域のために広大な防衛線を敷かなければならなかった。Aは絶対国防圏陸軍案 Bは絶対国防圏海軍案。
(画像引用 歴史群像No96 P35)

 これによりパラオ諸島はいきなり最前線となってしまったのでした。
 パラオ諸島は天然の良港という事もあり、日本海軍はパラオに連合艦隊を移しますが、そもそも防備の整っていない状態であるため、激しい空襲にさらされることになります。


2
パラオ諸島に停泊中の艦船。
(画像引用 歴史群像No96 P36)

 その結果パラオから連合艦隊は撤退を余儀なくされます。しかし戦火が消えたわけではありません。ウルシ―、モロタイ、ミンダナオを結んだ三角地帯の防備を重視した日本軍はパラオ諸島の航空基地に着目し、重要施設としての役割を担わせたままにします。[1-2]
 しかし日本軍の考えをアメリカ軍は裏切りマリアナに侵攻し、海軍は「あ号作戦」を実施、マリアナ沖海戦を挑みます。結果、敗北したため陸軍が持久し、海軍部隊とそれに乗せられた海上機動部隊が救援に向かうという計画が根本的に崩れてしまいます。

3
回避行動を行う瑞鶴と護衛の駆逐艦2隻
(画像引用
http://www.poorwilliam.net/al-061916.html)

 この後、米軍がフィリピンに侵攻した際に発動される「捷一号作戦」の航空戦力の反撃の拠点となるはずでしたが、パラオ諸島の航空部隊は壊滅し、できることは米軍のパラオ上陸とその港湾設備と航空基地の使用妨害のみとなってしまったのです。[1-3]

米軍の思惑

 
マリアナ攻略中である昭和19年の半ば、米軍首脳部は本土進攻のルートを検討している最中でした。
 ニミッツ提督とマッカーサー大将はともにフィリピン経由のルートという事は一致したものの、海軍のキング作戦部長がフィリピンを迂回し台湾進攻を持ち出すなどで会議は混乱します。
 
この時期ちょうどスミスVSスミス(海兵隊ホランド・スミス中将が指揮下の陸軍第27師団長を解任した)で知られる米海軍対立が激化した時期でもあり、米軍内でもしこりを残したまま、ルーズベルト大統領が直接決断しフィリピン進攻を決定します。また進攻の際、フィリピン攻略のため前進基地としてパラオを手に入れたいとの声も上がり、それと同時にニミッツ提督もパラオ諸島からの航空攻撃を警戒したため、パラオ進攻が現実味を帯びてきます。

5
水陸両用戦の父と呼ばれたホーランド・スミス中将。師団長解任理由は攻撃精神と指導力の不足というものだった。
(画像引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9 )

 しかしハルゼー提督は機動部隊の攻撃によりパラオの航空戦力は壊滅したと考え、泊地として価値のあるウルシ―の攻略を主張します。この後もハルゼーは各攻略作戦の中止とレイテの直接攻撃を具申しますが、レイテ上陸は許可されたものの直接攻撃は許可されずペリリュー、アンガウルの上陸作戦は予定通り続行すると決定します。[1-4]
 米国の統合幕僚会議がニミッツ提督に命令を下したのはペリリュー島攻略の7か月前、昭和19年3月10日でした。
 ニミッツ提督はその後の5月29日、第三艦隊ハルゼー司令長官に「パラオ群島に四個師団を投じて占領せよ」と命じます。[3-1]
 こうして日米両国ともに作戦を中止できない状況に追い込まれ、泥沼の戦いへと突き進んでしまうことになるのでした。

6
玉砕の際に取り決めた電報。有名なサクラ サクラの記述がみられる。
(画像引用 サクラ サクラ ペリリュー洞窟戦 見返し)

 次回はパラオ諸島およびペリリュー島の初期防衛準備について解説します。


参考資料と出典

歴史群像 No.96 2009年8月
・P34
・P35
・P36
・P37
戦史叢書  中部太平洋陸軍作戦 第2 ペリリュー・アンガウル・硫黄島
(2-1) P44
(2-2) P46
(2-3) P26
サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦
(3-1) P24

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