支那駐屯砲兵聯隊記
第1回 部隊創立の経緯と編制について
文:たわわ星人
wikipedia:三八式十五糎榴弾砲。支那駐屯砲兵聯隊第二大隊は自動貨車で牽引した。
1.はじめに
昭和十一年五月、北支の山海関で山砲一個大隊(二個中隊)、機械化重砲一個大隊(二個中隊)の二個大隊編制という少し変わった砲兵聯隊が編成されました。部隊の名称は支那駐屯砲兵聯隊。
昭和十二年七月に勃発した支那事変に最初期から参加し、帝国陸軍の主力重砲である九六式十五糎榴弾砲をはじめて配備、運用した部隊として知られています。
昭和十三年六月に山砲兵第二十七聯隊に改称となり、武漢作戦に参加。その後、満州に移駐し、昭和十九年の一号作戦(大陸打通作戦)に参加して南昌で終戦を迎えました。
本連載は支那駐屯砲兵聯隊の創立から九六式十五糎榴弾砲の初陣である正定城攻略まで部隊の行動を追っていきます。
第一回は支那駐屯砲兵聯隊編成までの経緯について解説します。
素人の拙い文章で読みにくいところがあるかもしれませんが、ご容赦願います。また、複数の資料を使用してなるべく裏をとりながら記述しますが、当時の関係者の記憶違いを検証できずに事実とは異なる記述をしてしまうことがあるかと思います。誤りについては訂正をいたしますのでコメント欄でご指摘いただければ幸いです。
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2.天津駐屯山砲兵第一中隊
北清事変(義和団事件)後の明治三四年、日本は他の列強とともに清国から駐兵を認められ、清国駐屯軍(後に支那駐屯軍)を編成して常駐しました。
今まで支那駐屯軍には、臨時で野砲中隊や山砲が配属されることがありましたが、昭和七年から毎年山砲部隊が天津に派遣されることになりました。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120026700 満洲事変作戦指導関係綴 6月1日
上記の資料により昭和七年から山砲一中隊の派遣が始まったことがわかる。
派遣元は第十二師団独立山砲兵第三聯隊(久留米)で毎年六月交代により一個中隊が派遣されました。昭和七年は第一中隊、昭和八年は第三中隊、昭和九年は第四中隊、昭和十年は第二中隊でした。
なお、派遣元の部隊について『昭和十二年~十三年 支那事変初期 北支における十五榴部隊を中心とする砲兵戦史資料』『第27師団のあゆみ』『山砲兵第二十七聯隊誌』等複数の資料で誤った記述がみられるので注意が必要です。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004047400 支那駐屯軍山砲兵2年兵交代に関する件
独立山砲兵第三聯隊から派遣されていることがわかる。
派遣された部隊は「天津駐屯山砲兵第一中隊」として支那駐屯軍司令部、歩兵大隊、工兵小隊、通信隊と同じ天津市の海光寺にある兵営に駐屯しました。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02032028600 6 天津事件に就て
天津日本租界の南端にある海光寺に支那駐屯軍司令部がある。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003060700 北支部隊交代船舶輸送の件
昭和10年6月交代の部隊の輸送記録。将校7、下士官兵141、馬匹54とある。
この中隊が支那駐屯砲兵聯隊第一大隊第一中隊となった。
昭和11年3月の時点で天津駐屯山砲兵第一中隊は、固有の山砲4門のほか、十五榴2門、十二榴2門、臼砲4門を保有していました。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004194600 支那駐屯軍兵力配置並北支駐屯列国軍兵力配置要図送付の件
昭和11年3月の北支における兵力配置図。他の列強の兵力配置も調査されている。
この天津山砲兵第一中隊(独立山砲兵第三聯隊第二中隊)が支那駐屯砲兵聯隊の基幹中隊となります。
3.支那駐屯砲兵聯隊へ
昭和十一年五月、北支方面の情勢悪化により支那駐屯軍の増強が行われました。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002709000 支那駐屯軍となるべき諸部隊の北支派遣及現北支派遣部隊の1部帰還に関する命令伝達済の件
『山砲兵第二十七聯隊誌』では「支那駐屯砲兵聯隊が創立されたのは昭和十一年五月十五日である。五月一日附軍令陸甲第五号の発令によって、河北省山海関において創立された。その基幹中隊となったのが、昭和十年の六月から天津に派遣されていた天津駐屯山砲兵第一中隊である(久留米独立三)」としています。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002711500 支那駐屯軍全部隊集結完了の件
編制は以下のとおりです。
聯隊本部(連隊長 鈴木率道 大佐)
第一大隊(九四式山砲)
第一中隊(第十二師団独立山砲兵第三聯隊)
第二中隊(第十師団野砲兵第十聯隊)
第二大隊(機械化三八式十五糎榴弾砲)
第三中隊(第三師団野戦重砲兵第二聯隊)
第四中隊(第三師団野戦重砲兵第三聯隊)
駐屯先は天津駐屯山砲兵第一中隊がある海光寺ではなく、天津の東方四キロ離れた東機局に新兵舎を設置することとなりました。
編成下令後、各中隊は新兵舎が完成までの間、別々の場所に駐屯となり、
第一中隊は、天津の海光寺兵営から山海関田子中学校校舎に移動。
第二中隊は、五月九日に姫路駅を出発、宇品港で一泊後に明海丸で出港。門司港を経由して五月十五日河北省秦皇島に上陸。貨車輸送で山海関に向かい、山海関東門外満洲国東羅城の設営地へ。野砲から山砲へ転換を行ったため、新兵舎への移駐まで山砲の基礎訓練を行っていました。
第三、第四中隊は五月八日出発し三島駅へ。東京から列車で来た聯隊本部と合流し、九日広島着。翌十日に宇品港で宇品丸に乗船し、午後四時出港。五月十五日秦皇島に上陸、列車で山海関に向かい仮駐屯しました。初期兵器の支給なく、機械化三八式十五榴改編となるも幹部以下自動車部隊の経験者がいないため野戦重砲兵第七、八聯隊から転属してきた操縦経験者を中心に訓練を行いました。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003132100 支那駐屯軍諸隊派遣船舶輸送の件
各中隊は八月末までに東機局の黒煉瓦造りの新兵舎に移駐が完了しました。
4.理想の砲兵部隊
支那駐屯砲兵聯隊は、山砲一大隊、機械化重砲一大隊という特異な編制となっています。また、通常の砲兵大隊は三中隊から成っていますが、支那駐屯砲兵聯隊は二中隊で編成されており、且つすべて現役兵で構成されていました。
当初、第二大隊は九〇式野砲の自動車部隊を予定されていましたが、後述する重砲が必要との考えから三八式十五糎榴弾砲に改編されました。
砲兵の編制について、野砲と山砲どちらで編成するかという問題は明治の頃から存在していました。
特に明治十七年に来日したドイツ陸軍のメッケル参謀少佐と当時参謀本部第一局長であった小川又次大佐の論争は特に激しいものでした。
当時は野砲二大隊、山砲一大隊の混成聯隊での編成でしたが、全部隊を山砲にすべしとのメッケル少佐に対し、小川大佐は真向から反対しました。論戦は決せず、後に大山巌元帥の裁決で野砲山砲混成の現編制のままとなりましたが、明治三十三年には単一砲種の聯隊に改められています。
昭和の初期にも同様の議論が起きています。
昭和十一年十二月から支那駐屯砲兵聯隊第三中隊長となった大橋武夫氏は「われわれは中国大陸では野砲は役に立たないと主張していたのである。なぜならば、予想戦場の中国にある城壁や部落の土塀の堅固なものは野砲では砲弾威力が足りなくて破壊できず、前線の歩兵は苦労し、敵からは軽蔑されていた。また、満洲などでは道路が悪く、ちょっと雨が降ると泥濘化して車輛が運動できなくなり、野砲は戦斗に間にあわないことが多く、日露戦争ではこの点で地団駄踏まされることがしばしばであった。われわれはこの教訓にもとづき野砲は中途半端であり、城壁を破壊する威力のある十五榴と、どんな地形でも歩兵についていける分解搬送可能な山砲の混成にすべきであると主張したのである。」と回想しており、依然として野砲山砲の議論があったことがわかります。
結果として大橋氏の意見は受け入れられ「われわれの意見はなかなか納れられなかったが、幸いにして参謀本部にも桑木崇明大佐や鈴木率道大佐(作戦課長)などが山砲、十五榴編成に賛成してくれ、とくに支那駐屯砲兵聯隊の初代聯隊長が鈴木率道大佐だったために、この革新編成が実現」となったようです。
『第27師団のあゆみ』に聯隊の誇りとして五つの事項が掲載されていますが、その5は「山砲と十五榴の混成という理想的編成であり、しかもその火砲は最新鋭である。」とされています。
次回は盧溝橋事件後の行動を解説します。
参考文献
『砲兵沿革史』 偕行社
『日本砲兵史』 原書房
『山砲兵第二十七聯隊誌』
『第27師団のあゆみ』
アジア歴史資料センター
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コメント
政治的側面が強いか
日本政府はほったらかしで現地軍の交渉や謀略(当時の意味多め)に委ねてたけど
十五糎榴弾砲二個大隊で野戦重砲兵連隊を成しますが、師団砲兵として山砲、3個師団で軍となり、軍砲兵として野戦重砲兵連隊×2個からなる野戦重砲兵旅団という砲兵の布陣が有効だったと思います。
サラッと書かれた一文の裏とりをするのに複数資料を隅々まで読み返すとか稀に良くあるのがツライところ(白目
野砲山砲の議論は昨今の戦車不要論や機動戦闘車導入の議論と似た所を感じるな〜
強力だが重くて扱いの難しい兵器と色々と軽量で動かしやすい兵器のどちらかが良いのか? というのは軍隊が常に抱える続ける問題なのでしょうね・・・
日露戦争時の砲兵について、陸軍士官学校砲兵科(四九期)を卒業し、戦後は自衛隊で富士学校特科副部長などを歴任した金子常規さんの著書『兵器と戦術の世界史』によれば、日露戦争前の日本軍は火力優越を重視しており「勝敗は火戦によって決し、突撃は敵兵既に退却したる後(中略)行われるにすぎない」(明治三二年歩兵操典)として軽量の三一式野(山)砲を主力砲とし、砲弾や重砲の不足に悩まされながらも戦争全期間に消耗した小銃弾が約一億発に対して砲弾が約百万発、砲弾による負傷者は露軍14%、日本軍8.5%と日本軍砲兵は相手に勝ると言える活躍を見せたようです。
この戦争で欧州の観戦武官は砲兵を高く評価したのですが、日本軍首脳部は苦労してお高い大砲を揃えた割には戦果が少ない点に不満を感じ、安上がりに多数の部隊を備えて歩兵中心・白兵主義、さらには白兵万能・火力無視な日本的陸軍が誕生した としています。
メッケル参謀と小川大佐の論争や大橋氏の主張もこういった背景を考えればなかなか面白いものがありますな〜
大正の軍人冷遇に山縣有朋式連絡網と政府首脳は後手後手になっちゃったし。
山縣みたいな統率力がある人がいなかったのは痛いよ。
というか参謀本部が関東軍を抑え対中関係を穏便にと目論んだのが天津軍
…穏便といっても傀儡政権つくりとか北京への侵食などやっていたりだけども
山砲と野砲に関しては、野戦で決戦の欧州、日清戦争で散々城塞都市攻略をやった日本側の相違かなあとの雑感だなあ
清国側はすぐ引きこもってばっかりの守勢で
日露戦争の黒木第一軍は、鴨緑江を渡河したり九連城を抜いたり大活躍だけど、常にロシア軍を上回る火力を集中していたからね。秋山支隊も騎兵隊なのに機関銃と小銃の火力に頼った戦いで成功しているし、乃木三軍に至っては火力が足りないとなると、本国から要塞砲をヒッペ剥がして旅順に持って行ってる。
西南戦争でも官軍の銃弾消費量は西郷軍を圧倒しているよね。
胸、大ナルガ故ニ貴カラズ、敏ナルヲ以テ貴シト為ス
誤字氏は以前、日露戦争では日本軍の砲兵力は劣勢だったなどとおっしゃっておりましたが?w
長期戦に耐えられない国力、戦争国債の獲得の為に勝ちを積み重ねるしかなかった、時間がたてばシベリア鉄道経由してのロシア兵力増大もあって急戦を繰り返したが、砲兵力が劣ってたってこたあないわな
白兵主義ってのは時系列的に、近代化目指した宇垣軍縮の頓挫、師団数増加、満州建国による負担増、日中情勢の悪化に戦争やらで軍の規模拡大、戦費に部隊維持費が嵩み、軍近代化の費用か捻出できなくなった結果論だと思われ
ものが無いから精神論や白兵主義を掲げるしかなかった顛末じゃないの
最初に白兵主義を掲げた訳ではないなあ
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