日本海軍、地中海を往く 第16回 無制限潜水艦作戦の破綻と連合国軍の3月危機
文:nona
1917年2月のドイツによる無制限潜水艦作戦の布告から1年が経過した1918年の春。一時は連合国を圧倒する撃沈戦果を得て、跳梁を縦にしたドイツの潜水艦でしたが、戦果は1917年の4月をピークとして、以降は戦果の減少に転じます。
これは1917年の春、連合国軍の輸送船護衛体制が大転換を迎えたためでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sims_losses.jpg
連合国船の被害数(トン数)の増減を示すグラフ
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この時期には日本やアメリカからの援軍もありましたが、特に輸送船を保護をねらった護送船団が大きな成果をあげています。
当時の軍艦には潜水艦を圧倒できる兵器を備えていませんでした。しかし潜水艦を牽制することで輸送船を護ることが可能でしたから、護衛した輸送船の生存率を格段に上昇させることができたのです。
1917年に護衛付きで航海できた船は16404隻にのりますが、その最中に沈んだ船舶はわずか147隻。[1-1]護衛を受けられた輸送船の生存率は99%以上でした。
しかし、1隻の輸送船ごとに護衛をつけていては、護衛艦が足りなくなってしまいます。そこで複数の輸送船が船団を組み、まとめて護衛うけることで、多くの船舶が安全に航海できるようになったのです。[2-1]
この護送船団は1917年1月からイギリス・フランス海峡航路、次いでイギリス・ジブラルタル航路にて始まっています。[3-1]
ただし、護送船団の本格的な実施にあたって、船団を組む過程の時間のロスや、輸送船同士の速力の差の問題、不慣れな集団航行による衝突事故の危険も懸念されました。
イギリス海軍内でも護送船団に否定的な意見もありましたが、イギリス首相のロイド・ジョージが護送船団の価値を認め、海軍を説得。[1-1]1917年5月より大西洋航路でも護送船団が開始されます。[3-1] 一回あたりの参加艦船の総数は20~40隻に及ぶこともありました。[2-1]
なお、地中海では1917年8月のマルタ会議以降に、運送船隊による護送が行われています。[4-1]
護送船団によって被害数に歯止めをかけたイギリスでしたが、同国は情報戦の分野においてもドイツをリードしていました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Room_40
イギリス海軍省「40号室」によって解読されたドイツの極秘外交文書「ツィンメルマン電報」
第一次世界大戦の劈頭、イギリスはドイツの海底通信ケーブルをすべて切断し、中立国の通信網を使わざるを得なくなったドイツの通信を傍受し続けました。[3-2]
さらに1914年秋にはドイツ海軍の暗号帳および機密文書を入手します。1914年8月26日に、フィンランド沖で挫傷自沈したドイツ巡洋艦マグデブルグの下士官の遺体から発見されたものでした。[3-2]遺体を回収したのはロシアでしたが、2ヶ月後にイギリスに資料のコピーを引き渡す措置をとったのです。
この資料は、開設準備中のイギリス海軍省の暗号解読部門「40号室」がこの上ないスタートを切る好材料となりました。[3-2]
暗号解読の好例としては、1915年1月のドッガーバンク海戦が知られています。(ただし、現場のイギリス艦隊は現場の連絡ミスにより、十分な戦果を得られませんでした)。[5-1]
暗号解読の成果があまりに顕著すぎたようで、後にドイツは暗号鍵を変更。しかし、40号室はまたもこれを破っています。[3-2]
そして、ドイツの潜水艦による通商破壊が再び活発になった1916年秋、「40号室」も潜水艦暗号の解読に注力。[3-2]
得られた情報は潜水艦による待ち伏せの回避や、交戦後の戦果確認に活用されました。
さらに潜水艦を探す手段として、航空機も実戦に投入されています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Felixstowe_F.2
哨戒に用いられたフェリックストー F.2飛行艇。
当初はイギリス海軍航空隊の航空機が哨戒にあたり、1917年4月以降は、陸海軍の航空隊を統合したイギリス空軍が、この任務を引き継いでいます。1918年後半においては一日あたり、陸上機189機、水上機と飛行艇300機、飛行船75機が哨戒に投入されました。[1-1]
現代の対潜作戦において、航空機は欠かせないものとなっていますが、当時は索敵・攻撃共に手段が限られたようで、顕著な戦果は記録されていません。
https://en.wikipedia.org/wiki/SSZ_class_airship
1916年に導入されたシースカウトゼロ級飛行船。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:SSZ_37_over_ship_WWI_IWM_Q_48005.jpg
シースカウトゼロは乗員3名をゴンドラに載せ、時には17時間滞空した。
http://www.nzhistory.net.nz/media/photo/aerial-bomb-aiming-1916
16ポンド爆弾を投下するシースカウトゼロの乗員。
これらの護送船団、暗号解読、航空機は、どれも潜水艦の直接撃沈を狙うものではありませんが、潜水艦から攻撃の機会を奪うことで、通商の保護という戦略的な目標の達成に貢献しています。それによってドイツ潜水艦の、「最初の」黄金期は終わろうとしていました。
しかしドイツは大戦そのものの勝利を諦めてはいまでんでした。
1918年3月3日、ドイツがソビエト・ロシア政府との講和にこぎつけたことで、ドイツは連合国に対し一時的な優勢を得たのです。
講和によってロシアとの戦いは終わり、ドイツはほぼ無抵抗でウクライナの穀倉地帯を獲得。ロシアの援助を失ったルーマニア王国は3月に降伏しました。
この後、ドイツ陸軍は東部戦線の戦力を西部戦線へ振り向け、1918年3月21日にフランスへ大攻勢をしかけます。4月までにドイツは80の予備師団を含む、200個の師団を西部戦線へ送り込みました。[6-1]
この攻勢ではありとあらゆる新兵器が投入されましたが、特にパリ砲、はカイザー・ヴィルヘルム砲とも呼ばれる長距離砲は、前線まで100kmほどの距離しかないパリを恐怖に陥れました。
この長距離砲の射距離は120km、CEPは前後3.2km、左右1.2km。砲身命数は60発ですが、この間にもエロージョンで口径が210mmから240mmまで拡がってしまい、異なる口径の砲弾が使用されています。とにかく無茶苦茶な兵器でした。[7-1]
https://en.wikipedia.org/wiki/File:210_mm_Railway_Gun.jpg
パリを砲撃したドイツの長距離砲。
ただパリ市民にとっては実際の戦果以上に心理的な衝撃を与えた様子。リヨンは避難民で溢れ、南フランスの海水浴場(の宿)は季節外れにもかかわらず大勢の人で混雑しました。また凱旋門には土のうが積まれ、ナポレオン廟は特別に防御された、といいます。[8-1]
さらに最前線でも連合国軍は大打撃をうけ、イギリス陸軍は4月までに30万名が死傷し、10師団が一時解体の危機にありました。
戦力の立て直しが急務となったイギリス陸軍は、イギリス本土、イタリア、ギリシャ、パレスチナの戦線にある部隊を引き抜き、フランスへの移送を試みます。[6-1]
そのために地中海へ7隻の兵員輸送船を送り込み、[8-1] これの護衛を第二特務艦隊に以来します。
第二特務艦隊は、かつて大仕事を引き受けることになりました。
次回は1918年4月に始まる第二特務艦隊の船団護衛を解説いたします。
参考資料と出典
船の歴史文化図鑑 (ブライアン・レイヴァリ著、増田義郎、武井摩利訳 2007年9月15日)
[1-1]P292
海軍護衛艦(コンボイ)物語 (雨倉孝之 2009年2月5日)
[2-1]P42-43
Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[3-1]P7、[3-2]P9
日本海軍地中海遠征秘録(桜田久編 1997年11月11日)
[4-1]P26、[4-2]P110
死闘の海―第一次世界大戦海戦史(三野正洋、古清水政夫 2004年7月12日)
[5-1]P96-102
第一次世界大戦 下(リデル・ハート著、上村達夫訳 2001年1月10日)
[6-1]P112-127
銃火器の科学(かのよしのり ISBN 978-4-7973-6964-9 2014年7月25日)
[7-1]P46-47
平和の海より死の海へ(片岡覺太郎 1921年5月25日)
[8-1]P369
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コメント
今見ると橋かと思うくらい。
それにしても一時的にとはいえ、1世紀後の現代に陸上配備の対潜哨戒機戦力に大穴があいている状態というのはどうかと。
フィクションなんかではCIAの方が優秀でイギリス情報部が後塵を拝し、CIAから警告を受けて初めてわかるなんてよくあるパターンだが
実際のところ調べてみたり新情報が出たのをみたりすると全然逆のケースが多いという
CIAは設立からして、イギリスの真似して厨二病の陰謀論にとりつかれたスパイごっこやりたかったて印象だ
傘立てか何かに差し込むモーションに見えてしょうがない
英国面とネタにされることも多いが、限られた戦力を有効に活用して常に勝利の側にいたその戦略や外交力は現代日本も学ぶべきだと思う。
ドイツ軍の1918年春季攻勢はドイツ軍が破竹の大進撃を見せたが、失敗すると後が無いドイツと何が何でも耐え切れば米軍が到着して戦況を好転させられる連合軍で明暗が分かれ、第一次世界大戦の結末を決定付けた戦いのひとつ。
この重要な戦いに日本海軍の第二特務艦隊が貢献していたってなら、それは本当にすごいことだぜ
日本史でのWW1の扱われ方は小さすぎる。
思想信条など関係なく、世界史上の大きな事件にかかわっていた事実を
もっと教えるべきでは。
ヨーロッパ人にとっては下手したらWW2より大きな事件なんだから。
NONAさん管理人さんともどもご苦労とは思いますが頑張ってくださいね
※8さん
大井さんの言だと、たしかWW1の地中海派遣艦隊の戦訓が一応ちゃんと纏められた
レポートもあったんだけど、普通の若手海軍士官さんが艦隊他に配属されると
勤務に追いまくられて(自分も含め)とてもそんなもの読む余裕なんてなかった、とかもあった記憶・・・
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