日本海軍、地中海を往く 第15回 海軍主計中尉の小旅行記
文:nona
海の上では激務が続くものの、まとまった休みを世界各地で過ごすせるのが船乗りの特権。士官たちは観光団を作り、艦を離れ地中海各地の名所を巡っていました。
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エジプト・カイロ観光編[1-1]
1917年8月末、片岡中尉の乗る松と僚艦の柏は、日本へ帰還する明石をスエズ運河まで見送り、アレキサンドリアで休息をとっていました。このとき松と柏の士官20名は、見聞を広めるために2組の観光団を編成し、片岡中尉の組は21日朝に鉄道で首都カイロへ向かうことになりました。
アレキサンドリアで乗り込んだ客車のコンパートネントは広く、イスも頭の上までクッション付きの豪華なもの。しかも軍人は半額で切符を買えたようです。
ただ二重窓の隙間から小さな砂が入り、これが椅子に積もっていました。海軍の白い軍服が汚れては困ると、新聞を買って座布団にしたほどです。
皆であれこれやっていると、カーキ色の軍服を着たイギリス陸軍の中尉が客車に現れ、相席の挨拶をすると、砂埃をはらいもせず、どっしり腰を下ろしたといいます。陸軍の軍服は砂で汚れても目立ちませんから、実用的で重宝なものだと片岡中尉を感心させています。
ただこの陸軍中尉、どうやら第二特務艦隊の活動を全く知らないようで、片岡中尉がこれまでの活動を伝えると、とても驚いたとか。
松の士官達にとっては自身の活動が、思いのほか知られていなかったことは残念ではありましたが、かくいう松の士官達も陸戦の状況はほとんど知らなかったといいますから、これはお互い様というもの。
この後一行はカイロで下車。ホテルで昼食をとりますが、ここもカーキ色の軍人ばかりで物々しい雰囲気でした。
そして午後からは手配した通訳の案内でギザ台地へ。金字塔(ピラミッド)が見えたところで、一行は駱駝に乗りかえています。
駱駝には馬子がついていましたが、乗馬の経験がないため緊張気味の片岡中尉「もし振り落とされたら、落馬ならぬ落駝になる」と軽口で不安を吹き飛ばします。
平和の海より死の海へ (片岡覚太郎著 1921年5月25日)口絵より
片岡中尉(左)と第十一駆逐隊の横地司令(右)
そして駱駝に乗ったまま記念撮影し、さらにピラミッドとスフィンクスを見物。
巨大なピラミッドに畏れ入る一行ですが、もう一方のスフィンクスは当時は未だ半身が砂に埋もれたまま状態で、胴体がどうなっているかは不明でした。
また西洋歴史書の挿絵に描かれるスフィンクスとのイメージと実物が異なるものであったようで片岡中尉は「案外に穢くて、尊敬の念も起こらない」とスフィンクスを酷評しています。
ただじっと見つめてみると、しだいに神秘的で厳かな魅力を感じられたとか。
ギザ台地見学の後はナイル川のほとりの動物園に立ち寄り、夕方にカイロへ戻り、シタデル(城塞)を見学。カイロのシタデルは中世の英雄サラディンが築いたとされ、近世末期に登場したムハンマド・アリーによるマムルーク虐殺の現場でもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cairo-citadel-1800s.jpg
19世紀ごろに撮影されたのカイロのシタデルと、その内側のムハンマド・アリー・モスク。
この後、通訳の勧めでモスクを見学した片岡中尉はカイロに1泊し、翌日はナイル・デルタ堰とカイロ市内を見学。その日夜にアレキサンドリアへ戻ります。
一行の帰りを待ちわびていた艦長の好意で、艦内に風呂が沸かされていましたが、片岡中尉はなれない駱駝跨上のためか太股が張って仕方なかったとか。
フランス・パリ編[1-2]
カイロ見物の一ヶ月後の1917年10月8日。松と柏は整備のため、フランスのトゥーロン軍港にありました。機関長によると、柏は機械室に入った水のために1週間は整備が必要、ということで観光団が編制され、先遣遊撃隊として第十一駆逐隊の横地司令と片岡中尉の2名が先行することになりました。
ただフランス国内には駅を始めとして<Taisez vous ! Mefiez-vous ! Les oreilles ennemies vous ecoutent.>の標語がいたるところに貼られており、エジプト以上に物騒な印象がありました。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Les_oreilles_ennemies_1915.jpg
沈黙せよ、注意せよ、敵(スパイ)は耳を立てている
乗り込んだ夜行列車は速度は早いものの、振動が凄まじく、駆逐艦とは異なる動揺周期に苦労したようです。また夕方に食堂車が連結されたものの、食糧統制の一環としてミートレスデイということで、メインディシュは魚でした。
翌朝にパリに到着した横地司令と片岡中尉。日本語が通じず方角もわからないということで「田舎者が東京駅に降りたよりもっとひどい」と不安がります。おまけに今にも雨が降り出しそうな天気。
不安な面持ちで駅を出ると、そこにはフランス駐在武官の松村菊勇大佐が待っていました。
片岡中尉が以前に会ったときの松村大佐は、南洋先遣隊らしい日焼け姿。そんな彼もここでは洋装を着こなし洗練されたパリジャンになっていました。
松村大佐の案内で二人は自動車にのり、ノートルダム寺院、ルーブル宮殿、コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門を一気に見学し、正午前にはパリの日本大使館で松井大使と面会しています。
なお、エッフェル塔を眺める機会も何度かありましたが、当時は軍の無線電信に使用されており、残念ながら一切登れませんでした。[1-2]
https://fr.wikipedia.org/wiki/Tour_Eiffel
第一次世界大戦中にエッフェルに架設された空中線。無線傍受および電波妨害用に使用された。
その後ザンヴァリッド(廃兵院)を見学。同所にはドイツから鹵獲した各種兵器が展示されておりましたが、片岡中尉をもっとも心を惹きつけられたのが、ナポレオンの霊廟でした。
片岡中尉によると、見るものに並ならぬ力強い霊感を与えるたといい、もし墓のナポレオンが当時の歯がゆい戦況を知ったら、夜半にも石棺がぐらぐらと動くかもしれない、と想像させるほどでした。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Napol%C3%A9on_Ier#/media/File:Paris_-_D%C3%B4me_des_Invalides_-_Tombeau_de_Napol%C3%A9on_-_002.jpg
ナポレオンの棺
http://transpressnz.blogspot.jp/2012/07/capyured-german-plane-on-display-in.html
パリで展示されていたドイツ軍から鹵獲したタウベ機。
翌日には第二陣として松と柏の士官18名もパリに到着し、ヴェルサイユ宮殿を見学。1年半後には第一次世界大戦の終結の舞台となるヴェルサイユ条約が締結される歴史的な場所でもあります。
ただ1917年に訪れた松と柏の士官にとってはヴェルサイユ宮殿は単なる観光名所に過ぎません。若い士官たちは見学中にも土産の絵端書やら写真帳を買おうとするもので、列は中々前に進まなかったといいます。さながら修学旅行です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:William_Orpen_-_The_Signing_of_Peace_in_the_Hall_of_Mirrors,_Versailles.jpg?uselang=fr
ヴェルサイユ条約締結の様子
なお、この日横地司令へ日本へ転属の辞令が伝えられています。このため片岡中尉と二人で、夜の列車で一足早くトゥーロンへ戻り、引き継ぎ等の事務を始めることになりました。
乗車する直前には松村大佐が二人を自宅へ招き、すき焼を振る舞ったといいます。片岡中尉はミートレスデイの憂さ晴らしと肉を食べこんだようですが、このせいで帰りの列車で喉が渇いて仕方ありません。
しかし列車には水飲み場も洗面台もなく、片岡中尉はこれを「牛の祟り」としています。
すると夜半に停車した駅で、深夜というのに老婆がリンゴを売り歩いていたものですから、値段も聞かずに1ダース買い込んで、喉を潤した片岡中尉。
翌朝には食堂車で朝食をとるものの、ここでもフランスパンの代用品として、黒パンが並んでいました。ただ一緒に供されたコーヒーは本物。とても香り高いものだったとか。
この列車はマルセイユを経由し、14時にはトゥーロンに到着しました。
ところが片岡中尉の机の上はいつのまにか電報の山。息をつく暇もなく仕事に追われることになりました。休み明けの仕事机と言うのは、どうも無慈悲に見えて嫌なものです。
次回は久々の海上護衛戦のお話。1918年に入り、ついに地中海でも護送船団が編制。第二特務艦隊も単独で大船団を護衛することになりました。
参考資料と出典
日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著,阿川弘之序文,C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P201-218
[1-2]P233-246
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コメント
稀代の名優六代目尾上菊五郎が欧州公演の途上、ナポレオンの墓を訪れたとき、
「ナポレオン、ナポレオンって言うから来てみたが、何でぇ、耶蘇じゃねぇか!」と言ったそうな。
皆さんには興味のないエピソードかもしれませんが、私の好きな佳話です。
海軍軍人にとって世界各地の見聞を広めることは「役得」でもあり、寧ろ期待された「任務」だったのでしょう。
海外旅行なんて夢のまた夢だった時代に、末端の水兵すらも海外の寄港地へ上陸できるなんざ、何事にも代え難い魅力だったんでしょうな。
海軍の技手クラス(軍属ですな)でも海外研修に派遣されて、「ウゥストケンジントンと言ってもダメ。上杉謙信で通用する」「朝飯のクロワッサンが旨うて旨うて」なんて当たり前のように話していたとか。
近代海軍は巨大な一個の文明組織だったと言えます。
そういえばこの時期のエッフェル塔には対空機銃も設置されていて、写真も何かで見た記憶が。
あと、ドイツ軍の「パリ砲」によるパリ砲撃はもうちょっと後だったかな。
こちらもフランス寄っていますが、中東とアフリカは仏英の勢力下なので当然の流れですかね。
フランスで思い出したのが、誰かどの時代かは失念しましたが、
石鹸を頼んだらフランス語なので通じない・・・
色々と言った後にブチ切れて「シャボンだ!馬鹿野郎」と言ったら、
偶然で通じて「ウィ ムッシュー」と持ってきたとか。
石鹸の語源シャボンについては、フランス語ポルトガル語スペイン語の他に、
イタリアの港町サボナが起源とか諸説あるようですね。
電車の中に水分補給の術がないってことは、リンゴ売りの婆ちゃんは今で言うホームの自販機や併設の売店ポジションだったんだろうか。当時は長距離移動の軍人さんは多かったろうし
1917年夏の中東戦線と言えばちょうど『アラビアのロレンス』ことトーマス・エドワード・ロレンス大尉が砂漠を越えて陸からの攻撃でアカバを占領してその勇名をとどろかしたころだから、しういった話をしてたんだろうな~ とか妄想。
食料事情は良くはないとは言え、ドイツは「カブラの冬」と呼ばれる深刻な食糧難で翌年のドイツ革命に繋がる社会不安が蓄積されていた時期なので、そういった意味では恵まれていると言えなくも無い。
拿捕兵器の展示と言えば、戦中の日本のみならずちょっと前のコソボ空爆のF-117、最近のドンバス紛争とよくやられていますな~
非常にわかりやすい戦果誇示なんで、余裕の無い国がよくやっているイメージw
銃後の士気を高めつつ、戦争が身近なものであると言うある種の覚悟を持たせるという意味で、拿捕兵器の展示は有効なのかも知れませんね
乗車券の割引につきまして調べてまいりました。
エジプト・カイロ旅行の資料は発見できなかったものの
1919年の「倫敦(ロンドン)見学関係書類綴」では
運賃の割引額について「戦前の運金(運賃)にして半額」としています。
ただ軍服を着ているだけで半額なのか、
あるいは旅行許可証や身分証の提示を求められたのかは
定ではありませんでした。
なお本記事のパリとカイロ観光は士官のみでしたが
上記のロンドン観光では兵員も参加しています。
ただ第二特務艦隊総員約2500名の大所帯ですから
各艦の乗員ごとに1日おきに1ヶ月近くかけて旅行させたようです。
わざわざ調べて頂いてありがとうございます。
2500名の観光計画、大変さは修学旅行どころじゃないですね。
軍隊なら集団行動は得意でしょうけど。
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