日本海軍、地中海を往く 第14回 葱の香りで日本に帰る
文:nona
派遣期間が長期に及び、将兵の士気と体力の維持が問題となった第二特務艦隊ですが、そう簡単に休むわけには行きません。そこで第二特務艦隊、任務中の唯一の楽しみともいえる食事には、並ならぬ心血を注いだ様子。
第二特務艦隊では日本から食糧を地中海へ送るようポートサイドやマルセイユの商社に手配し、さらにマルタに倉庫を借りて備蓄していました。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10081075500 大正6年 糧食酒保物品整理報告(防衛省防衛研究所)」
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1917年8月の糧食酒保物品整理報告に記載されている主な品目は特上白米、ヤマサ醤油、椎茸、鳴門わかめ、浅草海苔など調味料に乾物。金曜日の食卓に欠かせないカレー粉もしっかり補給されています。
特に主食の米は某主計が「なんといっても日本人には米がなくては駄目だ」唱えたほど。[1-1](ちなみに食糧の調達と献立の決定は片岡中尉の仕事のようです)
さらに水煮たけのこ、牛大和煮、白魚、福神漬など日持ちしないものは缶詰として運ばれてきました。[2-1]
さらに酒保物品も日本から運ばれたたばこ、菓子、炭酸飲料、酒類、日用品が販売されました。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10081075500 大正6年 糧食酒保物品整理報告(防衛省防衛研究所)」
サイダーやシトロンなど炭酸飲料はもちろんのこと、ですが酒も愛飲され、特に入港先で飲まれていました。
ただ、一番の酒豪であったのは客人として松に乗船した駐イギリス駐在武官の飯田延太郎大佐。飯田大佐は1917年10月に帰国のため松に便乗したのですが、その晩の飲みっぷりは皆を驚かせるもの。[3-1]
相席で酩酊した航海長が従兵に「(飯田大佐があまりに呑むものだから)本艦の喫水が深くなったと思うから見てこい」と本気なのか冗談なのかよくわからない命令を下したほどです。[3-1]
さらに砲雷長が「いや、いかんでいい」と従兵を止めつつも「喫水は変わらぬが、艦のツリムは確かに変わったぞ」と航海長のボケに便乗、続けて佐々木機関長が「それなら大佐が上陸したら、本艦のツリムはどうなる」と続きます。[3-1]
そこで主計長(片岡中尉?)「(艦尾衣糧蔵の酒が空になったので)艦尾が浮くさ」と、みなの笑いを誘っています。[3-1]
そんな笑いの種になった飯田大佐ですが、延太郎をもじって「呑み太郎」や酒豪で知られるトルコのケマルになんで「エンタルパシャ」という渾名がついたとか。
こんな飯田大佐ですが、帰国後に戦艦長門の初代艦長に任命されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%BB%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E
酒豪で知られる飯田信太郎
このようにこうした日本からとどいた食材と嗜好品は、将兵の健康と士気の維持に貢献したものの、やはり12000kmの兵站線の維持には少なからず苦労があった様子。
初期には容器の破損で内容物を腐らせてしまったり、荷物が行方知れすになることもありました。1917年8月には岸井参謀から食糧節約が指示されたほどです。[4-1]
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10081075500大正6年 糧食酒保物品整理報告 (防衛省防衛研究所)」
物品梱包の不十分さを訴える報告書
配送事故多発の原因としては、梱包の不足や宛名書きのミス、盗難等が挙げられていますが、缶詰も外国製に比べ脆いことが指摘されています。[4-1]
当時の缶詰の蓋はハンダで留められたものですから、工作精度が伴っていない頃には、密封が不十分でよく中身が腐っていたのです。[2-1]
なお、生鮮品だけは流石に日本から運ぶことは不可能で、現地調達に頼っています。ただ戦時中ということもあり食糧の購入には制約がありました。
マルタ島の場合、じゃがいも等を除く生野菜や、獣肉類に購入制限が課されていました。[4-2]
一方、マルセイユの市場は比較的食材が充実。戦時中ということで周2日の「ミートレスデイ」、菓子店の定休制、代用食としての黒パン(ライ麦パン)の販売など食糧統制がなされていましたが、野菜と魚介は不足なく購入できました。[4-3]
片岡中尉も主計官としてのオフィシャルな報告書で「生魚肉は新鮮にして最も邦人の嗜好に通ず。殊に牡蠣料理の如き高価なるも一珍味たるを失わず。野菜も新鮮にして品質優良なり。」と絶賛しています。[4-3]
ただ片岡中尉、牡蠣の生食は苦手なのか、遠征記には「酒豪連の舌鼓をうつ貝の生食いには、甘党の僕些か閉口した。」と記しています。[1-2]
馬耳塞在泊中の所掌事務に関する報告(片岡中尉の直筆)
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10081063400、大正6年2月迄 第2特務艦隊 衣糧需品関係綴(防衛省防衛研究所)」
また1917年末にはマルセイユでなんと「すき焼き」まで食べていたようです。
片岡中尉によると、「寒くなってから士官室は鋤焼が全盛である。疲れて入港しても、その夕、葱の香の高い鋤焼の鍋に対すると、風も、波も、骨まで徹った寒さも、快い炭火の勢いに消されてしまう。」[1-3]
「それに新鮮な魚が豊富で、贅沢な刺し身を常に刺し身に見ることのできる馬耳塞(マルセイユ)は、安息の港として、人々から常に入港を待ち設けられたものだ。」とのことで、マルセイユを讃えています。[1-3]
ところでフランスに葱などあるのか、という疑問ですが、どうやらフランスには「ポワロ」という長ネギがあり、やはり冬の味となっています。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Poireau
欧風すき焼きに欠かせないポワロ
さらに年が明けた1918年の正月にはついた餅を各艦の神棚に供進し、乗員は雑煮と冷酒で新春を祝いました。さらに舷門には門松、マストにはしめ縄も飾られています。[3-2]
異国の港にあろうとも、どんなに多忙でも、縁起事は決して欠かさないのが海の人らしいですね。[3-2]
しかし檜と樫は護衛任務中のため洋上で年を越すことになり、アレキサンドリアにあった桃と柳は港外の救助活動で正月気分ですらなかった、といいます。[3-2]
2日には松、杉、桂、楓も出港しなければなりませんでした。[3-2]
ヨーロッパ人達も1914年末のある戦場ではクリスマスに休戦した、という実話もありますが、今となっては昔のこと。戦争に定休日はありません。
ただ休みはまとめてとるのが軍人流ということで、長い休みの時には、内陸への汽車に乗り、任務を忘れ観光に往くこともしばしばでした。
次回はそんな旅行のお話です。
参考資料と出典
日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著,阿川弘之序文,C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P34
[1-2]P230
[1-3]P263-264
写真で見る海軍食糧史
(藤田昌雄 2007年3月12日)
[2-1]P59-71
日本海軍地中海遠征紀
(紀脩一郎 1979年6月15日)
[3-1]P124-125
[3-2]P142-143
「JACAR(アジア歴史資料センター)
[4-1]「Ref.C10081075500糧食酒保物品整理報告(防衛省防衛研究所)」
[4-2]「Ref.C10081062200食糧直売に関する件(防衛省防衛研究所)」
[4-3]「Ref.C10081063400馬耳塞在泊中の所掌事務に関する報告(防衛省防衛研究所)」
日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著,阿川弘之序文,C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[5-1]P230
[5-2]片岡P263-264
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コメント
士気の維持にはやっぱり食事だったw
>さらに酒保物品も日本から運ばれたたばこ、菓子、炭酸飲料、酒類、日用品が販売されました。
ライオンというのは石鹸?
牛首ミルクは検索したら森永が引っかかりましたが、よく分からない。
と分かる人にしか分からないネタでボケてみる(笑)。
そりゃまぁ日本はあくまで同盟国への援軍で、言ってしまえば他人事の戦争ですから…
酒保の払いはたぶん円(この時期だと銭か厘?)だろうし、現地で買い物するんなら当然現地通貨だろうし
円で支給して現地で両替ルートかな?家族持ちもいるだろうし満額現地で払うってことも無いと思うが
「ライオン」は歯ブラシか歯磨き粉だと思うけど、やたら数が多いので、やはり歯磨き粉だろうか
この時代だと、缶詰めより樽に入った食べ物の方が信頼性は高かったものと思われ…
フランスでネギにありつけるのは意外
そういえばすき焼きみたいに、食卓の上で自分で調理して食べるスタイルの料理はヨーロッパでは割と珍しいらしいので、この第2特務艦隊の皆さんが鍋を囲むを姿は、周りからはどんな風に見えたんだろう
夏目漱石も欧州留学の時に、福神漬けを食べて故郷を思い出したとかあるし本国からの
補給は重要ですね。
しかし、酒の席で試される帝国海軍式ユーモアのセンス、君は生きのこれるかw
給料は推定ですが、
例)月額20万円として仮払いや小遣いやの様に5万円分の現地通貨を渡して
日々の支払い等に使用して貰う。
日本に戻ったら前述の前渡し分を差し引いて支給、等では無いかと思います。
乗組員以外でも食材や消耗品等の調達で費用及び現地通貨は必須ですから、
会計担当が日本からの送金費用の引出しと両替を月に数回行っていると思います。
???「事故防止のため艦内の酒を飲み干す。」
昨日より「軍艦長門の生涯」を仕入れて
読みなおしています。
今回本文の飯田大佐の酒のエピソードは上巻P81のもので、
前々回記事の栴檀・橄欖のゴキブリのエピソードは
未読であった中巻P115に収録されたものでした。
この中巻では斎藤二朗大尉という橄欖の士官も紹介されています。
彼は酒も甘味もいける盗人上戸でしたが、
慰労会で汁粉をすすっていたときに、急に苦しみだして気絶。
食べ合わせが悪かったのか、喉にでもつまらせたのか、
脈まで止まり(あるいは脈が読めないほどに弱まり)あやうく死にかけています。
こんな人ではありますが、仕事は一流だったようで
後に長門艦長になられています。
ちなみに渾名は「不死身」ではなく「ダック」でした。
子供の頃から水泳を好んだことに由来するようです。
江戸時代に長崎から西欧に輸出されていた日本産の醤油は品質保持のためパスツールの
発見より早く、火入れして蝋で密封されて輸出されていた。フランス王室でも上質で高級な調味料として使われていた。
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