日本海軍、地中海を往く 第13回 駆逐艦生活は人を殺す

文:nona

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日本海軍地中海遠征秘録P63
第二特務艦隊の桃型駆逐艦柳。

 1917年秋、第二特務艦隊は連合国の兵員輸送船の護衛に従事していましたが、それまでの活動を含め、概ね高い評価を得ていました。

 彼らの活動についてイギリス地中艦隊司令のディッケンス中将は、「数が少ない」と不満を漏らしつつも「艦隊を即応体制に維持し、部下は常に任務に満足に遂行している」と本国へ報告。[1-1]

 マルタ基地司令(マルタ海軍工廠長)のバラード少将も「イタリアとフランスは対立からしばしば摩擦が生じるが、佐藤司令は常に要望に答えてくれ、何の問題もない。フランスの稼働率はイギリスに比べて低く、イタリアはフランスよりもさらに低いが、日本海軍は別。」と讃えています。[1-1]

 イタリアとフランスも、第二特務艦隊はイギリスの船しか護衛してくれないことを不満に思っていたものの、戦いぶりは認めていたようで、フランスでは第二特務艦隊の歌まで作られたほどでした。
[1-1]

 この第二特務艦隊の高評価は、ディッケンス中将やバラード少将が言うように、指揮下の駆逐艦の高い出動率にありました。

 第二特務艦隊の1ヶ月あたりの駆逐艦の出動率は72%。イギリスの60%、イタリア&フランスの45%とくらべても高い数値です。[1-1](算出方法については不明)

 これは第二特務艦隊が地中海各地の工廠を利用できたということもありますが、それでも出動率でイギリスを上回ったのは、やはり日本人の勤勉さの現れだったのかもしれません。

 ただ高い出動率の代償として、乗員への負担は並ならぬものでした。

 その例として、梅と楠の乗員の1ヶ月間の入渠前後で乗員の体重を比べた所、士官で一貫百匁目(4.125kg)、下士官兵で九百何十匁目(3.375kg強)の体重変化があったことが記録されています。[2-1]

 これは陸で太ったのではなく、海で痩せたとこを示すもの。乗員は文字通り「身を削って」任務に従事したのです。


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2
日本海軍地中海遠征秘録P71
駆逐艦松の艦首。

 その例として、1917年8月12日、イギリスの快速仮装巡洋艦「オスマニエ」を、海が荒れる中18ノットの速力で護衛した松は36~37度の動揺が30時間も続きました。[3-1]

 たまたま乗船していた便乗者は船酔いで動くこともできず、彼を見舞った片岡中尉は「駆逐艦生活は人を殺すものと思われかねない」と回想したほどです。[3-1]

 しかし速度を緩めれば大型の「オスマニエ」は悠々と先に行ってしまいますし、ジグザグ航法を緩めれば潜水艦の標的になりかねません。上甲板が波で洗われようとも、艦橋へ滝のように海水が吹付けようとも、必死でついていかねばなかったのです。

 また波浪が実際に「人を殺す」こともありました。

 その犠牲となったの楓の佐野茂七郎二等兵曹。1917年5月22日の任務中に波浪にさらわれ行方不明。第二特務艦隊最初の犠牲者となったのです。

 この事故にとどまらず、全駆逐艦が搭載艇の流出を経験し、[4-1]時にはボートダビットの片方が折れ、宙吊りの短艇が暴れまわることもありました。[5-1]

 波浪は艤装や船体へもダメージを与えています。9月に増援として派遣された桃型駆逐艦は大きな船首楼を持り、凌波性では樺型を上回ったものの、船体の強度に問題があり[5-2]1隻残らず艦底を痛めたといいます。[2-1]

 特に4番艦の柳は1918年初頭に波浪で海図室前壁が圧壊。この一件で「船体を薄弱にし之によって重量を減らし単に高速力を得んとする如き方針は将来決して踏襲すべきものにあらざる(以下略)」と報告が日本へ送られたほどです。[6-1]

 桃型駆逐艦は対策として、マルタ工廠で船底への二重板の装着など各所を補強。日本で建造中の楢型駆逐艦も排水量15トン分の補強がなされました。[5-2]

 ただこの教訓は第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約による艦艇の排水量制限から、やむなく反故にされたようです。[5-3]

 悲しいことに第二特務艦隊の戦訓は、海軍全体にさして影響を及ぼさなかったのです。


3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9B%AA_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
吹雪型駆逐艦の初雪。速力、武装、凌波性、復元性に秀でるものの船体強度は最低限。1935年の台風中の演習で艦首を切断喪失した。

 (話が逸れましたが)船が修理されるように、乗員の休養もまた欠かせないもの。

 その一例として1917年7月25日、第十一駆逐隊の松柏杉が3隻でマルタ島バレット港のフレンチクリーク第五船渠に入渠した際、乗員も1週間を陸で過ごせたのです。[3-2]

 こんな時には「呑む」「打つ」「買う」に走る者もあるかもしれませんが、片岡中尉ら士官達はバレッタにある2つ社交場に通ったようです。

 一つはイギリス将校用のユニオンクラブ、もう一つがマルタ地元名士達が集まるカジノマルチーズ(マルチーズはマルタの~という意味)。第二特務艦隊の士官は双方の名誉会員となっていました。[3-2]


4
http://www.maltaunionclub.com/bridge/bridge/bridgeinfo.html
現在のユニオンクラブのカードルーム。

5
http://www.thecasinomaltese.com/club.htm
現在のカジノマルチーズ。

 クラシカルなユニオンクラブと、モダンなカジノマルチーズ。士官によって好みは異なるものの、片岡中尉は堅苦しいユニオンクラブよりも、開放的なカジノマルチーズを好んだようです。[3-2]

 一方でユニオンクラブは出張者のための宿やレストランが併設され、さらに都合のいいことに湯もありました。風呂好きの日本人がここに通わないはずがありません。[3-2]

 ただ燃料と水の不足のため、湯が出ない日もあれば、水さえ出ずに店じまいとなる日もありました。[3-2]

 ただ若い士官達は何としても風呂に入りたかったようで、片岡中尉が同僚と二人でユニオンクラブを訪れた際には、二人で一つのバスタブに同時に入ることもありました。[3-2] まるで駆逐艦が3隻で一つの船渠に入るように。

 片岡中尉にとっては悪くない思い出だったようですが、絵面は想像したくないですね。

 なお、風呂以外にもう一つ、日本海軍将兵の士気の維持に欠かせないものがありますが、こちらは次回の記事で解説いたします。


参考資料と出典

第一次世界大戦と日本海軍―外交と軍事との連接
(平間洋一 1998年4月20日)
[1-1]P218-219

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス,桜田久編,1997年11月11日)
[2-1]P34-35

日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著,阿川弘之序文,C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[3-1]P177
[3-2]P183-184

日本海軍地中海遠征紀(紀脩一郎 1979年6月15日)
[4-1]P63

新装版 駆逐艦
(堀元美 1987年6月25日)
[5-1]P136
[5-2]P131
[5-3]P163

JACAR(アジア歴史資料センター)
[6-1]「Ref.C10128336900、大正3年~9年 大正戦役 戦時書類 巻133 第2特務艦隊3(防衛省防衛研究所)」

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