日本海軍、地中海を往く 第11回 薄暮の決戦

文:nona

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「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080606900、大正6年 第2特務艦隊 告示綴(防衛省防衛研究所)」 
第十駆逐隊 梅 楠 戦闘詳報

 榊の被弾翌日の1917年6月12日夕方、第十駆逐隊の梅と楠は1500名の将兵が乗るイギリスの兵員輸送船アラゴンを護衛し、ポートサイドからマルタへ戻る途上にありました。


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https://en.wikipedia.org/wiki/HMT_Aragon
輸送船アラゴン

 すると19時5分、マルタ島南東約230kmの地点で、アラゴンに潜水艦発見の信号旗が昇ります。[2-1]

 1917年6月の該当海域の日の入りは20時すぎとのことで、未だ目視が効く明るさがありました。[3-1]互いの距離はまだ6000から7,000mあり、潜水艦側は迂闊にも司令塔まで海面に出していたようです。[2-1]

 潜水艦の発見をアラゴンに先を越されたのはちょっと情けない気もしますが、小さな駆逐艦よりも、背の高いアラゴンが早期発見には有利だったのかもしれません。

 ともかくアラゴンからの報告をうけた楠、煤煙幕を張ってアラゴンを隠蔽。その後潜水艦へ砲撃を加えます。一方の梅も砲撃しつつ22ノットで潜水艦へ接近。[2-1]

 自身を発見されたことを悟った潜水艦は海中に身を隠すものの、梅は潜水艦の航跡を捉え、19時24分に爆雷を投下しました。[2-1]

 爆雷は潜水艦の至近で爆発し、周囲に潜水艦のものと思しき黒い油膜が浮かびます。梅はさらなる一撃を加えようと回頭しますが、その時には潜水艦の航跡は途絶えていました。[2-1]

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「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080606900、大正6年 第2特務艦隊 告示綴(防衛省防衛研究所)」 
梅、楠、アラゴンおよび潜水艦の行動

 梅は帰還後の戦闘詳報で「効果は確実」としたものの、撃沈までは確認できなかったようです。[2-1]

 ただ前日まで周辺海域で確認されていた潜水艦の発見情報がぴたりと止んだ、ということで第二特務艦隊は「察するに撃沈せしものと認む」と発表しています。[1-1]

 6月12日の戦闘では前日の榊の一件もありましたから、あえて過大に戦果を示す必要があったのかもしれません。

 なお、第二特務艦隊の全36回の交戦記録のうち、初期の戦闘では「撃沈」や「沈没」とはっきり書いていたものの、後には「効果確実なり」「成功したものと認む」など、撃沈の可否を曖昧にしています。[3-1]実際、戦後の調査でも撃沈確実とされる潜水艦はありませんでした。

 佐藤司令も帰国後の講話では「潜水艦の攻撃というものはその成績は明瞭にわからない」「確信をもってその成果を言うわけにはいきません。」と撃沈判定の難しさを語っています。[4-1]

 梅と楠が潜水艦と戦っていた頃、松と榊が退避していたスダ湾では、イギリス工作船ダルキース艦長のマクローリー大佐の計らいで、火葬用の燃料と遺骨箱が手配され、粛々と戦死者が荼毘にふされていました。[5-1]

 ただ犠牲者多数のためか、火葬の明かりは夜になっても消えませんでした。[5-1]

 14日にはめくれ返っていた前部魚雷発射管が暴発の危機にあるということで、有志が信管の除去を敢行しています。[5-1]

 6月16日には松へマルタ帰港命令がくだされました。艦隊司令部への状況報告をのためでもあります。同時に戦死者の遺骨と遺髪をマルタへ運ばれ、明石で安置されました。[5-1]

 回収しきれなかった遺灰の一部はスダのイギリス軍墓地に合葬され、墓標の代わりに榊のマストが使用されています。[5-1]

 榊は2週間ほどでスダに戻りますが、榊の艦橋が工作船ダルキースによって艦橋の残骸が切り取られ、奇麗な姿になっていました。犠牲になった戦友達も、元気なまま榊に乗っているのでは、と空想に耽ったほどです。[5-1]

 また11日以来の多忙さのためか、戦友の死も実感がわかなかったそうです。[5-1]

 しかし、片岡中尉、榊の墓標に再び手を合わせた際、ふと現実に戻り、とうとう涙を堪えることができず、墓標を濡らしてしまいます。[5-1]

 一方、病院に収容された負傷者は皆が快方に向かっており久々に談笑。また帰りがけに、寂しくないようにと蓄音機や新聞雑誌を残しています。[5-1]

 榊の今後については、いろいろ考えられた結果、アテネ近郊のピレウス港バシリヤード工場による本格的な修理が決定され、6月30日に5隻のイギリス船と松による護衛曳航で、無事バシリヤード工廠に送り届けられました。[5-1]

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日本海軍地中海遠征秘録P79
ピレウスのバシリヤードで修理を受ける榊。潰れた艦橋は修理困難のためか撤去された。

 片岡中尉の見立てによると修理期間は3,4ヶ月、長くても半年ほど。[5-1]

 ところが、修理期間は伸びに伸び、結局出渠までに10ヶ月を要してしまいました。[5-1] 元々5ヶ月で急造された駆逐艦の修理に、そこまで時間がかかるとは奇妙にも思えますが、外国ならではの苦労があったのかもしれません。

 7月3日には松の乗員に久々の上陸が許されます。片岡中尉も横地司令の1団に同行して、アテネ見物に出かけました。アクロポリスの丘やオリンピア遺跡を見学したことは、良い気分転換になったようです。[5-1]

 ただ栄華を極めたアテネが、政情の混乱に苦しみ、外国の軍隊によって平穏を保っている様子を見て、片岡中尉「今日国政奮わず、気息奄久(絶え絶えの息が止まろうとしている)としているところは、早熟早老の典型のようである」と記しています。

 「国政奮わず、気息奄久」というのは現代のギリシャを見ているような気がしなくもありませんが。

 ともかく、梅と楠が敵潜水艦をやり返し、榊の今後も決定されたことで、第二特務艦隊は当初の勢いを取り戻しつつありました。次回は第二特務艦隊の新戦力9隻を中心に解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[1-1]P85~86
[1-2]P39~40,P69

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080606900、大正6年 第2特務艦隊 告示綴(防衛省防衛研究所)」
[2-1]6月12日梅楠戦闘詳報

www.motohasi.net 日本と世界の日の出日の入り時間
[3-1]http://www.motohasi.net/SunriseSunset/

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス,桜田久編,1997年11月11日)
[3-1]P101~107
[4-1]P36

日本海軍地中海遠征記-若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[5-1]P155~174

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