日本海軍、地中海を往く 第10回 駆逐艦榊<さかき>

文:nona

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「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080607400、大正6年 第2特務艦隊 告示綴(防衛省防衛研究所)」 
雷撃をかわすため、回避行動をとり続けた松の航跡。

 1917年6月11日、はバルカン半島への兵員輸送船護衛の帰路にあった第十一駆逐隊の駆逐艦松と榊の2隻は、ギリシャ王国・エーゲ海のミロス島へ入港しました。かの「ミロのヴィーナス」の故地でもあります。[1-1]

 ギリシャは未だ中立国でしたが、ヴェニゼロス元首相を中心とする親連合国派と、同盟国寄り国王のコンスタンティノス1世が対立し政治危機に陥っていました。

 そこでフランスを中心とした連合国、コンスタンティノス1世に圧力をかけるため、ギリシャへ派兵を実施していました。

 しかし同盟国支援派も負けじと、秘密裏にドイツやオーストリアに潜水艦基地や情報の提供していたのです。[1-2]


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https://en.wikipedia.org/wiki/Eleftherios_Venizelos
アテネに進駐したフランス軍

 そのため松と榊の往路では、毎日のように潜水艦発見のALLO(潜水艦を発見した艦船や監視所が発した警告符号。ALLOの4字に続いて潜水艦の座標や進路が通告される)され、航路変更や夜間航行などの手段を講じていました。[2-1]

 予断を許さないギリシャ情勢でしたが、ミロス島は静寂そのもの。松の加島艦長と片岡中尉「せっかく寄港したのだから」と補給業務中に暇を見つけ、街で日向ぼっこをしていた老翁に絵端書(絵葉書)の店を尋ねます。絵端書の蒐集は遠征中の健全な楽しみの一つでした。[2-2]

 ところが店主が取り出すのはイタリアの古絵端書ばかり。需要がないのかミロス島の絵端書は一つもありません。[2-2]

 がっくり肩を落とす片岡中尉ですが、申し訳なく思った店主、売り物ではない1枚の写真端書を取り出します。写っていたのは京都の街を背景に撮影された日本の女性でした。[2-2]

 撮影されたのは時代はかなり古いものでしたが、端書が世界を半周してミロス島に落ち着き、しかも再び日本人がこれを手にする、なんという巡り合わせでしょうか。片岡中尉も「世の中も広いようで、案外狭いものだなあ」と一言残しています。[2-2]

 この後すぐ加島艦長と片岡中尉は松に帰艦、出港準備にとりかかります。このとき榊艦上にあった上原艦長と竹垣機関長が

「なにかよいお土産があったか」と微笑みかけてきました。[2-2]

 しかし、片岡中尉が生き生きとした2人を見られたのは、これが最期。この数時間後に起きる惨事を予想できる人は誰もいませんでした。

 6月1日午前10時半、松と榊はミロスを出港。西南30°に舵をとり、セリゴ水道を目指します。[3-1]

 ALLOが多数発令されていましたから、2隻は距離600mを保ち潜水艦警戒の単横陣を組み、速度は18ノット、ジグザグ走行を維持しました。[3-1]

 さいわい午前正午の航海では潜水艦の影は発見させず、海は平穏そのもの。また護衛する船がない分気楽さがあったのか、後部哨戒長こと片岡中尉、眠気を催し艦内でシエスタを初めていました。[2-2]

 すると13時32分、榊の見張り員が左舷艦首側3000mに不審な影が一瞬見えた、と榊が警戒を強化。[1-1]まもなくして、左舷真横に潜望鏡が現れます。

 この潜水艦はオーストリア籍のU-27。ドイツのUBⅡ型潜水艇と同系で、全長36,91m、水中排水量301t、艦首に4門の魚雷発射管を備えていました。[4-1]

 当時の指揮官はフェーンランド艦長(Robert Teufl von Fernland) です。[4-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/SM_U-27_(Austria-Hungary)#/media/File:SM_U-27_(Austria-Hungary).jpg
潜水艦U-27

 ところが、このときの両者の距離はたったの180m。榊の一番砲は大急ぎで旋回し、このU-27を砲撃。潜望鏡至近に水柱が立ち昇ります。ところがU-27の魚雷が榊のすぐそばに迫り、榊は回避する間もなく被弾しました。[3-1]

 魚雷は榊の左舷艦橋下に命中、前部火薬庫は誘爆。艦首は切断されて海中へ沈み、さらに艦橋は皮一枚繋がったまま後部へひっくり返ります。付近にいた乗員は艦長を含め、ほぼ全員が即死したものと思われました。[1-1]

 ただ「地中海警戒航行要領」で示された扉の防水密封の徹底のおかげか、あるいは艦首と機関室間の重油タンク区画が緩衝材となったためか、機関は健在でした。[5-1]

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日本海軍地中海遠征秘録P79より
大破した榊の艦橋部

 そして榊は13時35分に機関を一旦停止、ゆっくりと後進を始めます。[3-1]理由は不明ですが、損傷した艦首への負荷を避けるためでしょうか。

 また同時刻に三番砲の砲撃が再開されます。[3-1]潜望鏡を撃ち続けることで、追い打ちを阻止しつつ、僚艦の松へ潜水艦の位置を伝えようとしたのです。

 これを指揮していたのが艦尾の吉田庸光大尉。大尉は生き残った乗員を励まし、機関と砲を指揮。[3-1]無事であった有賀中軍医も負傷者の手当に尽力しました。[1-1]

 一方、榊の被弾を知った松は戦闘旗を掲げ合戦を開始。榊の周囲を不規則に周回しつつ、潜水艦へ砲撃を加えます。[1-1]

 13時40分には海面に航跡らしきものを発見したとして、松が爆雷を投下。[1-1] これが第二特務艦隊初(おそらくは日本初)の爆雷の実戦使用でした。この爆雷は命中せず、戦闘詳報は「効果に就いては確信し難き」とするものの、その衝撃は凄まじく、榊の傷への影響を心配するほどでした。[2-2]

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日本海軍地中海遠征秘録P79
爆雷起爆の瞬間。写真は大正7年6月30日マルタ沖における駆逐艦杉柳、戦闘中の杉の爆雷攻撃のもの。

 このように潜水艦と戦うことで榊を守り続ける松ですが、4月に通達された「敵の撃滅を一とし、救助を二とする」[2-3]の訓令や、トランシルヴァニア救助中に攻撃をうけた経験から、負傷者の救助作業は夜まで待つことにしました。[2-1]

 さらなる被害を避けるための措置ですが、松の横地司令や加島艦長にとっては苦渋の決断であったはずです。

 榊の被弾から約50分後の14時20分。SOSを受信したイギリスの駆逐艦リップルが現場海域に現れます。同艦とは正午に海上ですれ違っていましたが、同盟国艦の危機を知って大急ぎで戻ってきてくれたのです。[1-1]

 するとリップル、危険を冒してでも榊を助けようと、榊の手前で推進器を停止。ボートを降ろして榊の負傷者を救助しつつ、さらに榊の曳航準備を始めたのです。[2-2]

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https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Ribble_(1904)
駆逐艦リッブル

 さらにリップルに続いて、駆逐艦ゼッド、巡洋艦パートリッジ2世、掃海船ガゼル、フランス水雷艇AC号、が救援に現れました。そこで4隻と松が臨陣形を組み、中心で榊を6ノットで引っ張るリップルをエスコート。クレタ島のスダ湾に逃げ込みます。[2-2]

 ここで榊の負傷者は病院に搬送され、大破した榊は工作船ダルキースによる応急修理がなされます。[2-2]

 松の乗員は榊の艦内整理を手伝いますが、艦内は戦死者の遺体で溢れ、血濡れの凄惨な状態でした。上原艦長ら艦橋要員の遺体は海に投げ飛ばされたか、爆発で四散したか、とうとう発見されませんでした。[2-2]

 また、一度は救助された竹垣機関長も爆発の衝撃で体を強く打ったことが災いし、容態が急変し亡くなってしまいました。[2-2]

 榊の最終的な死傷者数は戦死59名、重症9名、軽症6名を数えています。[3-1]

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日本海軍地中海遠征秘録P79より
駆逐艦松(左)と大破した榊(右)

 一方、榊が撃沈をまぬがれたのは、吉田大尉ら生存者が艦を捨てずに戦い続けたこと、そして危険を承知で救助曳航を買って出たリップルのおかげでした。

 後に吉田大尉、巡洋艦鈴谷初代艦長および戦艦扶桑艦長、第1水雷戦隊司令を歴任したようです。[7-1]

 またリップルの艦長や乗員達も第十一駆逐隊から感謝と敬意を集めますが、榊の曳航を終えると「任務に戻る」と、早々にスダ湾を離れています。そこで横地司令、手紙でリップル艦長に感謝を伝えることになりました。[2-2]

 この手紙を受け取ったリップル艦長も横地司令へ返事を送り、その文末には「明る日に貴官らの艦隊が潜水艦を撃沈したことを祝福し、松と榊の未来の幸運を祈る。」と記しています。[2-2]

 リップル艦長がいう「潜水艦を撃沈」とは6月12日の梅と楠の戦いを称えるもの。第二特務艦隊総員は榊の仇討ち誓っていましたが、そのチャンスは思いの外早く訪れたのです。

 次回は梅と楠による戦いの行方と、榊のその後を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[1-1]P74~P79
[1-2]P39~40,P69

日本海軍地中海遠征記-若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[2-1]P165~66
[2-2]P149~159
[2-3]P86

「アジア歴史資料センター Ref.C10080607400 大正6年 第2特務艦隊 告示綴 (防衛省防衛研究所)」
[3-1] 6月11日松、榊戦闘詳報

en.wikipedia SM_U-27
[4-1]https://en.wikipedia.org/wiki/SM_U-27_(Austria-Hungary)

駆逐艦その技術的回顧 新装版
(堀元美 1987年6月25日)
[5-1]P137

「アジア歴史資料センターRef.C10080587100、大正5年~8年 駆逐艦 榊 機関部 戦時日誌(防衛省防衛研究所)」
標題:駆逐艦榊機関部戦時日誌大正6年6月~7月
[6-1]P6~8

参拾壱 頁(みそひとのぺえじ)
[7-1]科・期別索引 海兵31期 http://homepage2.nifty.com/nishidah/px36.htm

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