日本海軍、地中海を往く 番外編2 対潜兵器の先駆け

文:nona

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https://en.wikipedia.org/wiki/U-boat_Campaign_(World_War_I)#/media/File:William_Allen_Rogers_-_Only_the_Navy_Can_Stop_This_(WWI_U.S._Navy_recruitment_poster).jpg

ドイツ海軍を風刺し、自海軍の重要性を強調するイギリスの宣伝広告。

 ドイツ海軍の潜水艦作戦に対し、これほどまでの被害を受けると予想していなかった連合国の対策は後手に回っていました。潜水艦に目をつけるのが早かったドイツのほうが、水中戦では圧倒的に優位を保てたのです。

 当時は対潜専門の艦艇は存在せず、駆逐艦以下、武装ヨット、スループ、武装漁船のトローラー(はえ縄漁船)やドリフター(流し網漁船)など、多雑な小型艦艇が対潜作戦に充てられていました。[1-1]

 こうした護衛船舶に加え、イギリスでは英国海軍乗組商船「Qシップ」も運用しています。Qシップはわざと潜水艦の標的となるように振る舞い、潜水艦側が魚雷を節約するために浮上、砲撃に移ろうとするタイミングで海軍旗を掲げ、隠していた艦砲で交戦する、という戦法を用いました。[1-1]

 大戦中に200隻ほどの民間船がQシップに改装されていますが、自己犠牲の戦法を用いたため、11隻の潜水艦と引き換えに27隻もの損失を被っています。[1-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/File:HMS_Tamarisk.jpg
イギリスのQシップ「タマリスク」

 こうした護衛艦船の攻撃方法は当初は砲か自身の体当たりのみで、深く潜った潜水艦は攻撃できません。そのため専用の対潜兵装の開発が求められ、最初に実用化されたのが爆破掃海でした。[1-1]

 爆破掃海とは、32kgの炸薬が9個ついた爆導索を曳航し、潜水艦に触れた瞬間に、艦の乗員がスイッチを押して電気発火させる、というごく単純な装置。ただし戦果は1915年3月のU-9撃沈のみでした。[1-1]

 次いで実用化されたのが爆破パラベーン。掃海具の一つであるパラベーンにTNT爆薬36kgを仕込んだもので、駆逐艦が25ノットの速度でえい航できる利点がありました。もっとも戦果は1916年のUC-19と1918年のUB-69の2隻のみ。[1-1]

 さらにトローラーやドリフター用に100m×10mのえい航対潜網も使用されています。網には潜水艦を絡み取った際に発火筒が点火し知らせてくれる、という装置まで搭載されました。しかし戦果は1隻だけ。[1-1]

 フィクションでは索具が水中戦で大活躍しますが、現実で用いるには無理のある方法だったのです。

 そして1915年末になってようやく爆雷(デプスチャージ)が実用化されます。[1-1]

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http://msmhsmaritimehistory.weebly.com/depth-charges.html
第一次世界大戦で使用されたD型爆雷。第二特務艦隊で使用された。

 複数のサイズが試された結果、300ポンド136kgのD型が標準となり、さらに低速艦が投弾直後に爆発に巻き込まれないよう、120ポンド54kgの減装型も開発され、さらにアメリカで高速艦向けの600ポンド272kgの型も開発されました。[1-1]

 初期の爆雷には投弾時にブイと紐が繰り出され、紐が一定の長さまで延ばされる(=機雷が所定の深度に達する)と起爆する構造になっていましたが、すぐに調定が容易な水圧感知式に変わります。[1-1]

 投下は基本的に推測によるため命中精度は低く、また致命傷を与えるには4~5mの距離で起爆させる必要がありました。

爆雷で確実に撃沈できた潜水艦は26隻でしたが、それでも兵器と比べればずっと実用的でした。[1-1]

 このほか連合国では機雷源と防潜網による敵潜の通過阻止も試みられ、1916年のドーヴァー海峡機雷源や、1917年の地中海のオトラント堰、1918年の北海防備堰にイギリス128000個、アメリカ56000個の対潜機雷が敷設。上記の場所以外にも多数の機雷が重要な港湾に敷設されました。[1-1]

 機雷による戦果は34隻が確認されていますが、37隻のドイツの行方不明艦の損失原因の多くが触雷であった可能性も示唆されています。[1-1]

 もっとも機雷敷設には莫大な労力を費やす訳ですが、大戦後半から参戦したアメリカの機雷に関する熱意は相当なもので、佐藤司令によると地中海に派遣されたアメリカ指揮官も機雷戦を重視し、鼻息も荒いものだったようです。[2-1]

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http://www.navweaps.com/Weapons/WAMGER_Mines.php
イギリス海軍が使用したタイプ1機雷

 一方、潜水艦を探す手段についてはもっぱら目視に依るところが多く、当時の単純なハイドロフォン(水中調音機、又はパッシブソナー)では、自艦の騒音や、周囲の魚類が発する音を除去できず、肝心の潜水艦の音を探知できない欠点がありました。

 ハイドロフォンの功績のひとつとして1917年のUC-21撃沈が挙げられる一方、[1-1]第二特務艦隊の駆逐艦では、多様な補機が発するの騒音の問題を解決できず、後にハイドロフォンを撤去していいます。[2-1]

 一方、現代のSOSUSのように海中へ敷設するハイドロフォンも沿岸で使用され、地上のハイドロフォンステーションが付近の艦船へ事前に警告を発信していました。[3-1]

 第二特務艦隊の視察によると、半年間の訓練をうけたイギリス人下士官がオペレーターとして、水上艦か魚類か潜水艦かを聞き分けていた、報告されています。[3-1]

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「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080079700(防衛省防衛研究所)」
マルタ島北端のコミノ水道に敷設されたハイドロフォン。

 またイギリスは第二特務艦隊に対潜兵器の扱い方見学回や講話を開催し、士官23名によるイギリス駆逐艦への研修派遣、時には「大佐以上の階級にあるものでなければ見せない」とした秘密図書まで日本に開示しています。[2-2]

 これらの多大な苦労の中資料は日本語に翻訳されたことで、第二特務艦隊は次々と対潜と護衛船の技能を習得し、実戦に備えたのです。[2-2]


6
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080078400、大正7年7月 第2特務艦隊 各種報告 其5 地6(防衛省防衛研究所)」
イギリス海軍の秘密図書を翻訳した「爆雷攻撃の原理」の一部。訳者の近藤栄次郎大尉は後に赤城、加賀艦長や上海海軍特別陸戦隊司令を歴任した。

次回は、第二特務艦隊で発生した最大の危機を解説いたします。


参考資料と出典

Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史
(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[1-1]P8~10

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス 桜田久編,1997年11月11日)
[2-1]P33~36
[2-2]P21

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10080079700(防衛省防衛研究所)」
モルタ島コミノ水道「ハイドロフォン、ステーション」視察記事
[3-1]P16

死闘の海 第一次世界大戦海戦史
(三野正洋,古清水政夫 2004年7月12日)
[4-1]P200

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