日本海軍、地中海を往く 番外編 潜水艦戦「Uボート・クリーク」
文:nona
今回は「番外編」として、第一次世界大戦開戦の1914年から無制限潜水艦作戦が開始される17年2月までの潜水艦戦の経過を解説いたします。
https://en.wikipedia.org/wiki/SM_U-1_(Germany)
ドイツ海軍初の潜水艦U-1。水中排水量283トン。水上速力10.8ノット、水中速力8.8ノット。搭載可能な魚雷数は3本のみ。
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第一次世界大戦が始まる8年前である1906年8月、ドイツ海軍初の実用潜水艦、U-1が進水しました。[1-1][2-1]
後に潜水艦大国となるドイツですが、意外なことに潜水艦の価値を低く見ており、潜水艦の就役は列強の中でも比較的遅いものでした。U-1の設計もスペイン人技師のクェレペが1902年にクルップ・ゲルマニア造船所で試作し、ロシアに販売された潜水艦から流用したものに過ぎません。[2-1]
当時のドイツ海軍は仮装敵であるイギリス海軍に対し、強力な大海艦隊「ホッホーゼーフロッテ」の建造で対抗することを志向する一方、受け身の防御兵器であるとされた潜水艦に価値を見いだせなかったのです。[1-1]
ちなみにイギリスも潜水艦を「貧者の兵器」と呼び、ドイツ以上に潜水艦採用に消極的でした。逆に列強で一番潜水艦熱があったのがホランド型潜水艦やレーク型潜水艦で知られるアメリカで、次いで地中海に面するフランスやイタリアでした。[2-1]
しかし、1912年のドイツ海軍大演習に参加した潜水艦が予想外の好成績を得ると、海軍は方針を転換。1919年までに58隻の潜水艦建造を計画します。[1-1]
この途中で第一次世界大戦時が勃発し、開戦直後の保有潜水艦は20隻たらずでしたが、[1-1]建造計画が拡張され、1918年の終戦までに343隻が[2-1]建造されました。
ところが実戦投入直後の潜水艦作戦は失敗が重なり、1914年8月にU-15が英国巡洋艦バーミンガムの体当たりで撃破され、さらにU-13も消息不明。戦果もないまま2隻の潜水艦を喪失する事態となりました。[1-1]
もっとも1914年9月に状況は一変、U-21が英国巡洋艦パスファインダーを撃沈し、さらにU-9が単艦で巡洋艦アプキール、クレッシー、ホーグの3隻を1時間のうちに撃沈する快挙を成し遂げます。[1-1][2-2]
他方、民間船舶に対し潜水艦は非常に紳士的な振る舞いを見せました。
10月20日にイギリス汽船グリトラを発見したU-17は、同船を事前警告の後に拿捕し、船員に避難の猶予を与えたうえ、救命艇をノルウェー沿岸まで曳航するという、現代では考えられない行動をとっていました。[1-1]
しかし、10月26日にベルギーからの避難民が乗るフランス汽船アミラルガンテュームを発見したU-17、同船を兵員輸送船と勘違いして雷撃。幸い沈没には至らなかったものの、乗員乗客40名が死亡する事態となりました。[1-1]
この後ドイツ海軍は困難な民間船の保護を諦め、むしろ積極的に攻撃すべきという方針を打ち出し、1915年2月にイギリス船交通攻撃計画を布告します。これはイギリス沿岸を取り巻く海域を交戦水域に指定し、イギリス(とその同盟国)の汽船を無警告で撃沈する、というものでした。[1-1]
イギリスは資源と食糧の多くを海外からの輸入に頼っていましたから、輸送船を沈め物資を欠乏させることで、同国を打ち負かすことがでる、という戦略です。
https://en.wikipedia.org/wiki/U-boat_Campaign_(World_War_I)
1915年2月のイギリス船交通攻撃計画の交戦水域。
前述のように交戦水域はイギリス全沿岸でしたが、ドーバー海峡の警戒の厳しさから、イギリス西岸まで北海からの大回りを強いられるため、イギリス沿岸に常時展開できる潜水艦は1915年の平均は7隻に留まりました。[1-1]
しかし僅かな数でも大きな戦果を得られるのが潜水艦。2月から9月までに53万2116総トン、365隻の艦船を沈めています。潜水艦1隻あたりの平均戦果は約9隻でした。[1-1]
ところが、1917年5月7日に撃沈されたイギリスの定期客船ルシタニア号を撃沈したことで、状況が一変します1201名[1-1]の犠牲者(1198名とも[2-3])の中に、128名のアメリカ人が含まれていたことで、アメリカ国内の対独感情の悪化を招いたのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Doomed_Lusitania.jpg
イギリス沿岸で沈没するルシタニア号
ドイツはアメリカの参戦を極度に恐れ、以降は定期客船はイギリス船でも攻撃しない、と確約。しかし後に2隻の定期船を誤撃沈したため、アメリカの怒りは収まりません。結局9月に交通攻撃計画の停止を余儀なくされています。
16年3月には「客船は攻撃しない」という交戦規定で交通攻撃計画が再開されるものの、1916年4月のフェリー撃沈で再びアメリカ人が犠牲になり、またしても作戦の中止を余儀なくされました。[1-1]
代わって潜水艦の標的は軍艦に集中され、1916年5月30日に始まるジュットランド(スカラゲック)海戦の前哨戦に派遣されています。[1-1]
このときの潜水艦群の役目は、囮のドイツ巡洋戦艦群がおびき出してきたイギリスのグランドフリートを待ち伏せし、その数を減らすことでした。[1-1] 当時イギリス側の艦艇は149隻(戦艦28、巡洋戦艦9)、対するドイツは99隻(戦艦16、巡洋戦艦5)と、ドイツとしては砲撃戦までにイギリス艦を減らしておきたかったのです。[2-4]
ところが潜水艦群、捜索列上を通過するグランドフリートを発見できず、待ち伏せに失敗。その後の戦局に何ら影響を及ぼすことはなかったのです。[1-1]
また8月にも同様の作戦が試みられ、今回は2隻のイギリス軽巡洋艦を撃沈したものの、作戦自体は戦略的に失敗。[1-1]ドイツ海軍水上艦は港に引きこもらざるを得ず、終戦まで活躍の機会はありませんでした。
さらに同時期のベルダン・ソンムの戦いでドイツ陸軍は多大な犠牲者を出し、東部戦線でオーストリア軍はロシア軍に押され、ルーマニアは連合国側で参戦、ドイツ内政も悪化の一途を辿っていました。
この不利な状況を打破するためにと、ドイツ海軍内では潜水艦作戦の再開を望む声が再び強くなり、ついに1916年9月、イギリス船交通攻撃を再開が決定されます。[1-1]
当初は拿捕協定に基づいた作戦をおこなうものの、頃合いを見計らって協定を無視し、1917年2月1日に「無制限潜水艦作戦」を発動。連合国船は軍民船級問わず無警告で撃沈することになりました。[1-1]
https://en.wikipedia.org/wiki/Sinking_of_the_RMS_Lusitania
1917年2月に始まる無制限潜水艦作戦の適用範囲。中立国に最低限の配慮として、大西洋と地中海、スペイン北岸にセーフティラインが設けられていた。
ドイツとしては一応はアメリカに配慮し、安全航路を提案したものの、結局1917年4月6日の参戦を回避できず、一番敵にしてはならない相手との戦争を強いられたのです。[1-1]
一方でドイツ海軍は無制限潜水艦作戦の開始以降の3カ月で、連合国船194万5243トンを撃沈に成功します。[1-1]資源や食糧の多くを輸入に頼っているイギリスにとっては死活問題で、撃沈ペースが維持された場合、アメリカが本格参戦するよりも先に、イギリスが干上がってしまう可能性すらありました。
しかし、そう安々とやられはしないのがイギリスです。同国はドイツの暗号解読を試み、護送船団を編制し、日本やアンザック諸国へ応援を請うなど、あの手この手で危機を乗り切ろうと奔走。そうした成果の一つが、対潜兵器の発展でもありました。
次回はイギリスが考案した第一次世界大戦の対潜兵器を解説いたします。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sims_losses.jpg
1917年2月から終戦までの連合国船(赤斜線はイギリス船)の沈没船の合計トン数。
参考資料と出典
Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史
(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[1-1]P4~10
死闘の海 第一次世界大戦海戦史
(三野正洋,古清水政夫 2004年7月12日)
[2-1]P39~40
[2-2]P138~142
[2-3]P154
[2-4]P113~126
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コメント
2回しか行われなかったけど。
まぁ無制限潜水艦攻撃なんて当時の常識では考えもしなかっただろうし、戦時国際法的にもやばいもんがあるので仕方ないか?
それに潜水艦による決戦前の主力艦隊襲撃は日米が戦間期に「艦隊型潜水艦」の整備を行うなど力を入れて来た分野であるが、現実はあんまりパッとせずに終わっているからな~
なかなか新兵器の評価と言うのは難しいね
しかし潜水艦の戦いも最初はまだ騎士道精神が見られたけど、過酷な戦場はそういった美徳を冷酷にも押し流していくんですな~
現代の潜水艦部隊も有事の時はどうなるか、色々と恐ろしいものがありますわい。
ドイッチュラント級潜水艦ですね~
往路では大使館向け暗号表の他、大量の染料を積んでいた、という話しらしいのですがす。資金調達の商材だったのか、別の目的があったのか。
日本も戦利品として設計資料を入手するようなので、
後々記事にする...かもしれません。
誤字様
イギリスもドイツも1900年代に潜水艦に消極的だったのは歴史の皮肉ですね。
ただイギリスの場合も、いつの時期かは不明ながら潜水艦に価値を見出し、
開戦時には76隻を保有していました。活躍の機会は独海軍ほどなかったようですが
これは記事本文に書くべきだったかもしれません。
あと初期の紳士的対応とかみると後期の無差別が悲しくなります
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