日本海軍、地中海を往く 第9回 議論倒れの連合国海軍指揮官会議

文:nona

 榊と松が輸送船トランシルヴァニア護衛に従事していた1917年5月の初週、第二特務艦隊の佐藤司令と岸井主席参謀は連合国海軍指揮官会議に出席するため、第十駆逐隊第二小隊の梅と楠を率いコルフ島へ向かっていました。[1-1]

1
http://www.grekomania.com/places/kerkyra

現在のコルフ島。ギリシャ読みでケルキラ島とも呼ばれる。


マルタの碑―日本海軍地中海を制す (祥伝社文庫)
秋月 達郎
祥伝社
売り上げランキング: 352,675

 同島は中立国ギリシャの西岸にある連合国の拠点の一つで、オーストリア・ハンガリー帝国海軍の水上艦隊を封じるべく、フランスの主力艦隊が展開していました。[2-1]

 会議参加者はイギリス、フランス、イタリア海軍司令官ら45名と第二特務艦隊の2名で、議題は潜水艦対策。これまでの潜水艦対策は国ごとに方針が異なり、相互の連絡も不十分。そこで会議の場を設け、連合国間の協力を図ろうとしたのです。[2-1]

 しかし佐藤司令、会議の様子を「議論すこぶる多く、議論倒れに終わった感があった」[2-1]と評します。この会議で8月下旬に海上護衛委員会(マルタ委員会)の開設[2-1]が決まるものの、具体的な対潜・海上護衛作戦については議論が紛糾し、ほとんど決定されなかったのです。

 その一例として「海面の巡邏警戒は何ら意味をなさないから、全力を挙げて船舶の護送に当たる方がよい」と唱える物があると「船舶を直衛していくことははなはだ消極的でかつ不徹底すぎる。アドリアチック海の封鎖する方がよい」と反論がなされています。[2-1]

 また「運送船や商船をいちいち直衛していては護送船舶が足りなくなるから、運送戦隊(護送船団方式)を組織しよう」[2-1]とイギリスが提案すると、

 フランスが「商船は速力も不同であるから、隊伍を組織するに適しない。のみならず船隊を編成するために待ち合わせを護送船団方式は待ち合わせたりする時間を費やすことが多く、ますます輸送力を減ずるから、とうてい不可能である。」[2-1]と反論。

 さらに「常に同じ航路を取れば潜水艦に発見され待ち伏せされるから、航路をヂスパース(分散)させよう」とのイギリスの提案に対しては、[2-1]

 フランスが「自分からヂスパースするのは、敵のために被捜索列を作るようなものであるから不可能である。それよりも一つの航路の保証を徹底的にやって、同じ航路を真っすぐに行ったほうがよい」と、またも反対を表明します。[2-1]

 後に判明することですが、フランス側の主張には誤りが多く、佐藤司令も「すこぶる価値のないこと」と後に回想したほどです。[2-1]

 一方、先見の明が見られたイギリス側も意思統一が不徹底であり、[2-1]フランスを説き伏せられなかったのです。

 例えばイギリスが提案していた護送船団は、1917年1月の英仏峡横断航路、4月のジブラルタル~イギリス間航路、5月の大西洋横断航路で実施され、短期間のうちに効果が表れた方法です。しかし、イギリス自身も輸送効率の低下を懸念し、実施を躊躇していたほどでした。[3-1]

2
https://en.wikipedia.org/wiki/File:WWI_convoy_approaching_Brest.jpg
第一次世界大戦における護送船団

 なお、激しい議論の割にイギリスとフランスの仲は良かったようですが、イタリアは例外。両国から軽蔑疎外され、いじめられる傾向にあった、といいます。[2-1]

 というのもイタリア海軍は主力艦の出動を渋るため、やる気のないように思われたのです。[2-1]

(余談ではありますが、イタリアは主力艦こそ消極的でしたが、魚雷に跨りで敵戦艦に肉薄し爆破させる「一人一艦戦法」をはじめとして、少数部隊が大戦果を得ることも、ままありました。全くの無気力、という訳ではないのです。[4-1]

 上記の纏まりのない連合国海軍指揮官会議でしたが、この期間中に佐藤司令はイギリス人議長のサースベー中将と2人だけの晩餐に招かれ、会談のチャンスを得ています。

 ここでサースべー中将「今回の会議も議論ばかりで何ら要領を得ない」「しかもフランス、イタリアには凌波性に富んだ駆逐艦が少ないから、潜水艦戦に貢献するところははなはだ少ないことを遺憾とする」「これを補うものはどうしても日本人とイギリス人でなければ」と、その場にいない2国の不満を論いつつ、日本を煽て、独自の協力を申し込んでいます。[2-1]

 さらにサースベー中将「本国の艦隊の人々は地中海方面に派遣されたことを喜んでいるかどうか?」と佐藤司令に尋ね、「非常に喜んでいる。同僚の羨望の的だ」という回答を得ます。[2-1]

 これを交渉のチャンスとみたサースベー中将「それならさらに多数の駆逐艦をこちらに派遣することはできないか」と増援を催促。しかし佐藤司令は「適当な駆逐艦が日本には沢山はない」と断ります。[2-1]

 しかしサースベー中将「こちらから駆逐艦を出したら、日本はいくらでも人を乗せてくれるだろうか」と人員を催促。佐藤司令は自身では判断できないと、直接日本に要請が送られたものの、その際には、駆逐艦22隻もの派遣要請に膨れ上がっていました。[2-1]

 さすがに22隻は無理な相談ですが、トランシルヴァニアの救助で日本海軍がイギリスから多大な称賛を得たこともあり、海軍内では増派を容認しつつありました。

 その後、加藤海軍大臣と島村軍令部長の協議で増派が決定され、大正天皇への上奏したのち内閣へ通達。6月1日に佐世保鎮守府へ、駆逐隊出動の命令が下されます。[1-2]

 また佐藤司令もマルタ帰投後に、イギリス海軍主席将校からなされた、武装トローラー(底引き網漁船)の引き受け要請を承認しています。これは旗艦明石の操艦要員が4月以降ほとんど仕事がなかったため、人手に余裕があった為でもありました。[2-1]

 艦艇の増派については、イギリスの話術に乗せられてしまった気がしなくもありませんが、かくして第二特務艦隊はにぎやかになっていきました。

 次回からは第二特務艦隊活動の背景を解説する「番外編」として、第一次世界大戦の潜水艦と水上艦の戦いを解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1979年6月15日)
[1-1]P48
[1-2]P83

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス 桜田久編,1997年11月11日)
[2-1]P26~29

Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史
(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[3-1]P7

死闘の海 第一次世界大戦海戦史
(三野正洋,古清水政夫 2004年7月12日)
[4-1]P170~174

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
片岡 覚太郎
河出書房新社
売り上げランキング: 509,373