日本海軍、地中海を往く 第8回 松と榊の初交戦

文:nona

 トランシルヴァニアと共にマルセイユを出港した翌日の5月4日、この日の空は曇り模様、さらに北からの強風とジグザグ航法によって、松と榊の艦橋は常に飛沫にさらされていました。[1-1]

 部隊の付近には、帆船が1隻ほど見られた以外特に周囲に変化はなく、[1-2]雨具を着ていた片岡中尉も、波の先が霧のようにふりかかり塩辛いに耐え切れず、とうとう後部哨戒長を一休み。士官室の長椅子で横になっていました。(後部哨戒長の職は、正式な役職ではなく、ただのあだ名のようです)[1-1]

 そして中尉がうとうとしていると、突然上甲板で戦闘ラッパが鳴り響き、緊張した号令がかかります。[2-1]同時に機関が増速を始め、振動も一層強まりました。片岡中尉は飛び起きて上甲板に上がると、女性達の乗ったボートが一艘、水沫に中を漂っているのを目撃します。[1-1]

 このときトランシルヴァニアは、サヴォナ沖に差し掛かった時に1発の魚雷を受けていたのです。時刻は午前10時20分。魚雷を放ったのは、ドイツ海軍の潜水艦U-63。[2-1]

1
https://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Schultze
U-63当時の艦長、オットー・シュルツ(1884~1966)


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 しかしトランシルヴァニアもわずかに傾斜したのみで、傍からは異常は見られませんでした。片岡中尉は海上を漂うボートを見て、トランシルヴァニア以外の、近くにある他の遭難船から脱出してきたのだ、と勘違いしたほどです。[1-1]

 ここで松は10時35分にトランシルヴァニア左舷後部に回り込み、海面に降ろされたボートを避けつつ、接舷を試みました。このとき松の空中線が、トランシルヴァニアから降ろされるボートに切断されたものの、電信員が応急修理し、どうにか旗艦明石との連絡態勢を保ち続けています。[1-1]

 接舷後は、縄梯子によって避難者の移乗が開始され、片岡中尉も非難してきたイギリス兵の移動整理に従事しています。[1-1]

 一方の榊は、移乗作業中2隻を援護しつつ索敵、潜水艦からの追い打ちに備えました。[1-1]なお松に乗艦していた横地司令の報告では「ペリスコープ(潜望鏡)」を発見したとして、艦砲30発を発射していますが、命中弾はありませんでした。[2-1]

2
http://pages14-18.mesdiscussions.net/pages1418/Forum-Pages-d-Histoire-aviation-marine/marine-1914-1918/navires-identifier-sujet_2045_1.htm
当大型船から小型駆逐艦に移乗する様子(イメージ)

 すると避難者が「トーピード(魚雷)!」と絶叫。指さす先には松めがけて突進する1本の航跡がありました。距離は300mほどでしたが、舫はトランシルヴァニアに繋がれ、松の推進器は一時停止状態。回避しようがありません。誰もが魚雷が命中するものと絶望しました。[1-1]

 しかし、魚雷は奇跡的に松の艦首を10mほどすり抜け、最悪の事態は免れました。ところが、魚雷はトランシルヴァニア左舷中部に命中し、不幸にも降下作業中のボートに乗る40人が爆発に巻き込まれ、跳ね飛ばされた2名の遺体が松の甲板に打ち付けられたのです。[1-1]

 さらに至近爆発で松の見張り員1名と砲員2名が負傷し、艦底のリベットが2本抜け1区画が浸水していました。[1-1]

 身をもって恐怖を体験した片岡中尉は潜水艦からの闇討ちに非情さ、冷酷さに憤り感じずにはいられませんでしたが、[1-1] 潜水艦に乗る彼らにしてみれば、勇気を振り絞っての再攻撃。佐藤司令は「ドイツ人の勇敢な行動には感服する」としています。[3-1]

 とにかく二射目を受けたことでトランシルヴァニアは急速に傾き始め、沈没も時間の問題となりました。避難者も急いで松へ飛び降りようとして、足を負傷する者も続出。また先の水没と1000名近い救助者の重量増で松自身の喫水も相当深くなりました。[2-1]

 この危険状況でも松は救助作業を継続し、艦が避難者で一杯になると榊と役割を交代し、榊の援護に回りました。[1-1]

 この後イタリアの駆逐艦やトローラーが応援に駆けつけてくれたため、避難者を他船に移乗させて、引き続きトランシルヴァニアの傍らに残り、漂流者の救助に従事しました。[1-1]

 ところが、時間が経過するにつれ漂流者の体力は低下、投げた網もつかめないほど衰弱していき、救助は一層困難になり始めます。そうした漂流者の中に、小さなイカダにしがみ付く、一人のイギリスの海軍少尉がありました。[1-1]

 彼は精根尽き果て、ただ死を待つかのように見えたほどでしたが、松で救助されたイギリスの一等水兵が、自身の命を顧みず海に飛び込みます。そして彼は、漂流する上官を救助し、二人とも松で引き上げられました。[1-1]

 この水兵は大きな喝采をうけたものの、本人は「ただ当然の義務を果たしたまで」というものですから、感動屋の後部哨戒長(片岡中尉)、感極まって涙を流していたようです。[1-1]

 この水兵以外のトランシルヴァニアの船員や、避難者の行動も理想的なもので、最初に女性を、次に兵員、最後に船員が脱出するという秩序だった離船作業を忠実に実行していました。[3-1]

 そして11時35分、トランシルヴァニアは船首方向に大きく傾きついに沈没。乗船していた3266名のうち、約3000名が救助され、うち800名が松、1000名が榊によるものでした。[3-1]

 一方、犠牲となった200名の多くは、沈没直前まで船に残ったトランシルヴァニアの船員達。船長も沈没の際におきた振動で海面に跳ね飛ばされ、一度は救助されたものの、翌日に亡くなっています。[1-1]

 トランシルヴァニアの沈没後、松と榊は漂流者の捜索を続けたものの、18時30分にやむなく捜索が打ち切り。松と榊は状況報告や犠牲者葬儀の打ち合わせのため、近くのサヴォナへ入港しています。[1-1]

 片岡中尉は戦闘の詳報を電信すべく街の郵便局へ向かったものの、街中に救助されたずぶ濡れの兵士たちがあふれ、郵便局には、郷里に無事を報告する者、金の無心を認めるものなどが集まっていました。しかし、日本海軍の士官である片岡中尉を見るやいなや、四方からの称賛の声と、握手を求める手に驚かされることに。[1-1]

 またイギリス本国でも松と榊の活躍が称賛され、2隻がマルタに戻るまでに、在ロンドン大使館を経由し第二特務艦隊へ多くの電報が届いており、佐藤司令も訓示で松と榊の乗員の救助活動を称え、[1-1] 海軍出身者のジョージ5世から送られた勲章を、松に乗艦して指揮をとった横地司令ら27名に特別に与えています。[2-1][3-1]


3
http://forum.woodenboat.com/showthread.php?115090-Great-Moustaches-of-History
第一次世界大戦時のイギリス国王(皇帝)ジョージ5世。

 そしてイギリス下院議会ではロバートセシル卿が日本の活動を議会に報告すると、とたんに拍手喝際をうけ「バンザイ」の声が議会内に響いたといいますが、これは前代未聞のことでした。[2-1]

 松と榊は力及ばず、護衛していたトランシルヴァニアをまんまと沈められてしまったのですが、自身も巻き添えを受ける危険を冒しながら、必死の救助活動を続けたことで、一躍イギリスのヒーローとなったのです。[2-1]

 次回は、松と榊の護衛作戦と同時期に実施されていた日英仏伊の4か国会議と、その会議で議論された当時の対潜作戦を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記-若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P117~136

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[2-1]P50~61

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス 桜田久編,1997年11月11日)
[3-1]P29~30

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