日本海軍、地中海を往く 第7回 欧州大陸の大地を踏む

文:nona

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Bibliothèque nationale de France Photographies de presse de l’Agence Rol ‒ Réf. 49.545, 49.547 et 49.548
Marseille – Torpilleurs japonais dans le Vieux-Port (1917)
マルセイユに入港した第二特務艦隊の駆逐艦

 出港が遅れ、救助には間に合わず、帰路では時化に巻き込まれ、翌日には迷子の憂き目にあった松と榊。4月17日の帰還後に、時化で損傷した個所の修理にボイラーの整備、遅れていた爆雷の装備を済ませる傍ら、状態の乗員達に久々の休暇が許されています。[1-1]

 さらに4月19日にはマルタ総督夫妻の招きで「アットホーム」会なる士官の親睦会が開催され、片岡中尉もこれに参加しています。[2-1]ちなみに、この日は雨天であったようですが、マルタの雨が珍しいものであると片岡中尉が気づくのは、後々になってからのことでした。[1-1]

 「アットホーム」会では総督とその夫人の他、楽団やイギリスの士官たち、さらに赤十字を付けた従軍看護婦たちも招待されていましたが、言葉の壁か、マナーとエチケットの壁か、両者互いに打ち解けられず、「アットホーム」とは程遠い雰囲気であったそうです。[1-1]

 アイスや菓子やらをつまでいた片岡中尉も、申し訳なく思う一方で、早く終わらないだろうか、と時計の針を見つめていた程です。[1-1]


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 4月22日には明石艦上で相撲大会が開催され、日本からの郵便も初めて届けられています。[1-1]特に帯妻者の手紙は大いにヒヤかされたようですが、[2-1]一方では故郷を思い出して、ホームシックになる人もあったかもしれません。

 もっとも日本人だけで集まり引き籠っては仕事にならないと、修理と改装を終えた松と榊は26日、イギリスの輸送船「トランシルヴァニア」に随伴し、南フランスのマルセイユ(馬耳塞)までの航海を開始しました。[1-1][2-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/File:RMS_Transylvania_I.jpg
輸送船トランシルヴァニア。14348総トン、全長167.1m、速力17.5ノット、輸送可能な兵員3000名

 このときの陣形は、松がトランシルヴァニア(ト号)の左舷より斜め前方1000mに出て、榊が右舷斜め前方に占位するもの。夜は逆に斜め後方800mから後続することになりました。[2-1] 当時の連合軍では標準的な陣形でしたが、弱点があることは認識されていいなかったようです。(こちらは後の回で解説いたします)


昼の陣形 

↑ ↑

松      榊

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  ト

  号


夜の陣形 

ト 

号   

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↑/  \↑

松 榊


 この3隻は航海の途中、イタリア半島とシチリア島の境のメッシーナ海峡に入ります。岸にはメッシーナの街があり、景観はとても美しかったようです。[1-1]

 ただし1908年には同地で大地震と津波によって、建物は崩壊するか津波で更地となり、海面は26インチも下がった、という被害が知られていました。[1-1]地震・津波大国の日本にとって人ごとではありません。

 しかし、メッシーナの町は交通の要所で、気候もよいところですから、また発展できるとして、片岡中尉は町の復興に期待を込めています。[1-1]

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http://www.guidasicilia.it/ita/main/rubriche/index.jsp?IDRubrica=1532
1908年に被災したメッシーナ市街

 その後3隻はイタリア半島を右手に北上し、コルシカ島とエルバ島の間に到達します。片岡中尉はナポレオンの故事を思い出し、彼の憎らしいまでの活躍をたたえ、両島に恭しく敬礼をしたのですが、僚艦の榊の艦上でも、同じく敬礼をする人があったとか。[1-1]

 ここからの航海は海域は潜水艦の出没警報が多いため、夜のうちに急ぎで通過し、4月29日の朝7時30分、3隻とも無事にマルセイユへ入港しています。[2-1]

 また松と榊のためにと、フランス大使館駐在武官の寺島健海軍少佐と梅谷大尉、航空機研究に来た河野大尉(日本海軍で初飛行をした )がマルセイユに出張しており、入港後の諸手続きや通訳を助けていました。[2-1]

 ただし、電報を送る必要できた際、何事にも経験ということで、片岡中尉ら4名の士官で街に出て、郵便局を探すことになりました。4人は片言のフランス語で道を尋ね、運賃もあやふやなまま路面電車に乗り、ついに郵便局へ到着します。ところが、局員はなぜか電報を承ってくれません。[1-1]

 窓口の傍いたフランス兵も事情を説明しようとするものの、片岡中尉らは切れ切れに単語が聞き取れるだけで、不得要領にありました。しかし張られた掲示文から「外国電報にはフランスの現地参謀長の検閲署名がいる」という戦時のルールを読み取れたことで、ようやく事情を把握でき、とちあえず出直すことになりました。[1-1]

 なお片岡中尉は「日本の外語教育のおかげで耳よりも目が肥えた」と、日本の外国語教育の難点を指摘しています。[1-1]現代でもそれほど変わりませんけどね。


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https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Marseille_in_the_1910s#/media/File:ZZ_59_-_MARSEILLE_-_Rue_Noailles.jpg
マルセイユのカヌビエール通り。1917年12月撮影。

 こうした業務や視察での上陸の他、休暇としての半舷上陸も許され、「日本海軍歓迎」と掲げられたマルセイユの歓楽郷で英気を養うことになりました。[2-1]

 さらに士官達は三井商事のマルセイユ出張所長の浜崎氏から招待で、シャンパンと日本食のもてなしを受け、[2-1] 松でも駐在武官達のために、小さな晩餐会を催しています。[2-1]

 片岡中尉らは自動車にてマルセイユ見物し、さらに茶の時間にフランスの通訳兵と待ち合わせるため、高級そうな菓子店で休憩することに。そこで片岡中尉は店内を見て「食糧問題もありパリから遷都しようという時世に、髭をはやした大人連中が、子供の領分に侵入して菓子を頬張り茶を啜っている。」[1-1]と不思議がります。

 しかし通訳の説明をうけたのか、片岡中尉は彼らが「菓子を食べ得る余裕ある地位にいることを広告するために」食べていたことに気づきます。[1-1] フランスでは革命以来、国の標語の一つに「平等」を掲げ続け、さらに当時は国家存亡の危機。そんな時でも虚栄心を張ろうというのですから、理解に苦しむ話です。

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Bibliothèque nationale de France Photographies de presse de l’Agence Rol ‒ Réf. 49.545, 49.547 et 49.548
マルセイユに入港中の日本の駆逐艦

 このように初の欧州大陸で様々な体験を得た松と榊の乗員達でしたが、5月2日付けの訓令で、翌日にトランシルヴァニアをメッシーナまで護衛し、その後マルタへ戻るよう指令を受けています。

 そして5月2日の午後4時、トランシルヴァニアに乗船した3000名の兵士は各々ハンカチを振り、帽子を振り、口笛を鳴らし、港大いに盛り上がるなか、トランシルヴァニアと松、榊の3隻マルセイユを離れます。[1-1]「ブラボー・ジャパン」というエールまで聞こえました。[2-1]

 ところがこの翌日、トランシルヴァニアは潜水艦に襲われるのですが、これを予想する者は誰一人としてありませんでした。

 次回はトランシルバニアをめぐる救助作戦の模様を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記-若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P103~120

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[2-1]P47~52

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
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