日本海軍、地中海を往く 第6回 迷子になった2隻

文:nona

 1917年4月10日、秘密裡にスエズ運河ポートサイドを出港した第二特務艦隊。目的地であるマルタ島までの3日間の航海で、昼は明石を中心に輪陣を組みジグザグ航法、ドイツ潜水艦の襲来に備えていました。[1-1]

 特に夕暮れと夜明けの薄明は最も警戒すべき時間帯でしたから、これまでの航海のように綺麗な日の出や夕日を仰ぎ、感傷に浸る余裕は誰にもありませんでした。[1-1]

 夜になると襲撃の危険性こそ低下するものの、危険な無灯航行を強いるわけですから、やはり見張りが欠かせません。眠る際もハンモックを使えず床に臥し、着の身着のまま睡眠をとることに。[1-1]

 このような24時間の緊張で身も心も削られる航海を続けた第二特務艦隊、4月13日午前11時に、ようやくマルタ島バレッタ外港へ到着します。同じ港には1日早くマルタへ向かった梅と楠の姿も港内にありました。[1-1]

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http://mimcol.com.mt/portfolio/grand-harbour-regeneration-projects-ongoing/

現代のマルタ島バレッタ港


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 この航海の成功は第二特務艦隊の面々はもちろん、日本の関係者も大いに安堵したたことでしょう。特に660t程の小さな樺型駆逐艦が8隻全て、落伍なく目的地に到着したことは、当事者達にとっても驚異的なことでした。

 ただし、今までの任務は「マルタに着くこと」でしたが、これからの任務は「敵の潜水艦から同盟国の船を護ること」。到着からほどなくして樺型駆逐艦にはイギリス海軍の支援の下、新兵器「デプスチャージ(後に爆雷と訳される)」の搭載改修と、ボイラーの整備が実施されます。[1-2]

 さらに連合国内での識別を容易にするため、各艦の舷側と艦尾にアルファベット1字が書き込まれます。片岡中尉いわく「ハイカラな見た目」になったとか。[1-1]

2
http://www.navypedia.org/ships/japan/jap_dd_kaba.htm
マルタでの改装後に撮影された松(元サイトでは「Kaba」とも紹介している)

3
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10128345500、大正3年~9年 大正戦役 戦時書類 巻138 第2特務艦隊8(防衛省防衛研究所)」

 一方、各艦に元から積んでいた弾薬類は陸揚げされ、各機砲70発と魚雷の即応弾を残し、予備弾はすべて撤去されています。掃海用具も一緒に撤去されました。[1-2]

 こうした改装工事の傍ら、イギリスの要請で常時2隻が応急出動艦に指定され、4時間以内に出動できる状態を維持し続けました。この任務を仰せつかったのが、第十一駆逐隊第一小隊の松(片岡中尉の乗艦)と榊。2隻は爆雷の搭載改修も後回しに、応急出動に備えました。[1-2]

 ただし待機1日目の4月14日は何事もなく過ぎ、15日も日中の要請はありませんでした。このような状態でしたから艦長は「クラス」会で外出、他数名の士官も招待をうけ茶会に出席したようです。そして第十一駆逐隊の横地司令と片岡中尉ら数名の居残り組は月並みの雑談[1-2](猥談)をすることに。[2-1]

 ところが15日の晩、突然に艦隊参謀の藤沢大尉が松に来艦し、緊急の出港命令を下します。[2-1]すぐにボイラーに点火されますが、機関の運転までに時間を要するため、この間に外出者の帰艦を待つことになりました。

 横地隊司令は詳細を確認しに一時離艦。このときに、イギリスの運送船「カメロニア」がマルタ島の東130海里の地点で敵潜からの雷撃を受け沈みつつあり、乗船した兵士3300名が救援を待っている、ということが明らかに。[1-2]

4
https://en.wikipedia.org/wiki/SS_Cameronia_(1911)
運送船カメロニア。10968総トン、全長157m。

 この後、20時にイギリス駆逐艦2隻が先行してバレッタを出港したものの、松と榊も準備が滞りなく進められ、20時30分までに出港できる見込みでした。[2-1]

 ところが水先案内人がいくら催促しても現れないため、2隻は20時30分が過ぎても出港できません。第二特務艦隊はイギリスとの取り決めにより、出入港時に必ず水先案内人の乗艦を定められていました。[1-2]

 人命を左右する一大事にまで、守るべきものなのかと、士官達の心は穏やかではありませんでしたが、23時になってイギリス海軍の汽艇が水先案内として先導することで、ようやく松と榊の出港こなりました。その後は速力20ノットで遭難地点へひた走りです。[1-2]

 しかし、目的の海域に着いた時には夜は明けており、救助作業は終わった後。カメロニアの姿も、先にマルタを出港した2隻のイギリス駆逐艦の姿もありません。かわりに浮遊する残骸や無人の救命艇や筏、SOSを聞いて集まった数隻のトローラーが見えたばかりで、生きた漂流者も、遺体も発見できませんでした。[1-2]

 しかも不幸は続くもの。松と榊の2隻は帰路で激しい時化に見舞われることになったのです。[1-2]

 特に背の低い艦橋は猛烈な波浪にさらされ、片岡中尉は「藤村操が身を投げた華厳の滝」の如く危険な状態であった、と回想しています。18ノットあった速力も波浪のために15ノットに下がり、さらに12ノットまで落とさざるを得ず、日中にマルタへ戻ることは不可能になりました。[1-2]

 誰もが明日こそは港という希望を頼りに、動揺のために寝苦しい夜を過ごしたのですが、17日の朝になっても、どこにもマルタの島影が見えません。それどころか現在位置がわからなくなり、旗艦明石からの呼びかけに対して、自位置を伝えられませんでした。[1-2]

 乗員達は不安な気持ちで西への航海を続けますが、皆が心細い気持ちになっていたころ、ついに見張りがマルタ島を発見。日没直前の午後4時45分にバレッタへ帰港しました。[1-2]

 出港のつまづきで「けち」がついたのか、第二特務艦隊初の応急出動は塩辛い結果となりました。しかし失敗は成功の母とも言うように、今回の出来事が第二特務艦隊に多くの教訓をもたらし、後々に著しい効果を発揮することになった、と片岡中尉は記しています。[1-2]

 第二特務艦隊の戦いはまだ始まったばかり。まずは経験と実績を積むことが先、という訳です。

 また、当初から予定されていた輸送船の護送も開始され、4月19日に第十一駆逐隊の杉と柏の2隻が、イギリス病院船バルべデビア護衛のため、クレタ島スダ湾に向け出港していきました。[2-1]

 次回は松と榊による輸送船トランシルバニア護衛の模様を解説いたします。

5
http://www.agius.com/malta/harbour.htm
バレッタ港。1916年ごろ


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記-若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P87~90
[1-2]P94~102

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[2-1]P42~47

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
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