日本海軍、地中海を往く 第5回 警戒を厳にすべきこと

文:nona

 1917年4月4日朝6時、スエズ運河を通過した第二特務艦隊は、運河の北の河口にあるポートサイドへ入港します。ポートサイドはスエズ運河の開通に合わせて遠浅の海岸に作られた人口の港。スエズ運河を通過する船舶はもちろん、スエズマックスを超える大型船の中継貿易港としても、大戦中にもかかわらず大いに賑わっていました。[1-1]

 また日本人も多く進出し、「南部商会」のように食糧やその他の補給を請け負ってくれる商社や[2-1]日本の品を扱う商店もありました。[1-1]

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http://www.searlecanada.org/misc/photographers.html

ポートサイドの街並み。年代は不明。


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 ただし、需要のわりに港が狭く、入出港の回転を早めるため、港湾局は入港24時間後から1船舶㌧数あたり2㌠の停泊料を請求してきたとか。[1-1] 規則とはいえ同盟国の軍艦からも徴収するのもどうにかならないものか、とは思いますが。

 また街には外国人向けの綺麗なホテルやクラブがある一方で、スラム街や身なりの悪い現地民など、片岡中尉にとって快くない物も多かった様子。さらに夜間の「灯光隠蔽」が、街を余計に不穏な気分にさせていました。[1-1]

 そんな中で片岡中尉の一行、ある晩酔っぱらい達の外国人に出くわしたのですが、奇妙なことに「お早う」「今晩は」といった日本語で呼びかけてきた、といいます。実は彼らロシア戦艦ペレスヴィエトの乗員で、日本にも少なからず縁のある人々でした。[1-1]

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https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Peres_v.jpg
戦艦ペレスヴィエト

 戦艦ペレスヴィエトは1901年に就役した前弩級戦艦。日露戦争では1904年8月の黄海海戦に参加したものの、ここで受けた損傷を修理するため旅順港にいたところ、今度は旅順港が日本軍に包囲されたため、湾内に閉じ込められたまま12月の砲撃で沈没着底。旅順陥落後は日本の手で浮揚され、戦利艦「相模」となりました。[4-1]

 しかし後に日本とロシアは関係改善にいたり、さらに世界大戦でロシアが海軍力の状況を必要としたため、日本は当時の価格700万円での「相模」の売却を決定します。このとき艦名も元のペレスヴィエトに改称されました。ただ、引き渡し直後に座礁事故を起こしており、修理のためいったん日本の舞鶴に戻されています。このときに乗員たちは日本語を覚えたのでしょう。[4-1]

 そして修理を終えたペレスヴィエト、生まれ故郷の欧州で戦うべく、西への航海を開始。日本の第二特務艦隊よ4カ月早い、1917年12月にポートサイドへ到達します。[4-1]

 ところが、1月4日にポートサイドを出港すると、わずか10海里ほど進んだ地点で、ドイツ海軍潜水艦U-73の撒いた機雷に接雷、沈没し、同時に乗員252名も戦死してしまいます。残る7割の乗員は、イギリスの随伴駆逐艦やフランスのトローラーに救助されますが、ロシア革命本国でおきた革命と、その混乱のため帰国の目途が立たなくなっていました。

 まさに彼らは「迷える子羊」[1-1]の状態にありましたが、片岡中尉が見た乗員達は、酒に酔うことで不安から逃れようとしていたのでしょう。

 しかし、第二特務艦隊までペレスヴィエトのように沈むわけにはいきません。艦隊司令部は来る4月10日の出港に備え、「地中海警戒航行要領」[3-1]という通達を各艦へ送っています。「極秘」とされる類のものではありますが、現代では全文インターネットで閲覧が可能です。

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出展[3-1]より
1917年4月1日の地中海警戒航行要領。後に数回改定された。

(一)昼間は信号旗を合図に「ジグザグ」航法、夜間は直線航法、速力は昼夜ともに14ノット半。

 ただし旗艦の明石にとって「14ノット半」はぎりぎりのもので、片岡中尉も「老人が後鉢巻に尻端折った形」と明石の足を心配していた様子。[1-1]

(二)出港後は合戦準備を備え、扉、防水蓋、舷窓の密閉に注意。砲撃の邪魔にならないように筏と(いかだ)端舟(ボート)の降下準備をしておく。勝手に浮き上がる物は固縛。灯火が漏れないよう隠蔽を施す。前艦橋と無線電池室の間に高声電話を置く。

 万が一への備えとはいえ、脱出の準備があることについては、片岡中尉「一命もとより君(天皇)に捧げたとは云いながら、死ぬばかりが忠義ではない」と記しています。[1-1]

(三)前甲板の機砲には昼夜砲員を置き、これを指導砲とする。その他の砲も砲撃準備を整え、要員は砲の付近で休息すること。

 各艦は爆雷が未実装のため、潜望鏡を目印とした砲撃で、潜水艦を撃退する必要がありました。そのために各駆逐艦には臨時に砲術士官が乗艦し、射撃の指揮をとっています。

(四)昼は2直、夜は4直で哨戒。マスト、前艦橋、艦橋に双眼鏡を持たせた下士卒を配し、各々の見張り区域を指定させておくこと。

 爆雷と同じくソナーもありませんから、目視以外に潜水艦を見つける方法はありませんでした。

(五)釣床は使用せず、各員持ち場付近の床で寝起きすること。救命袗(ライフブイ)は肌身離さず着用。

 さらに佐藤司令も7つの信条を訓令しており、こちらは第二特務艦隊の全活動期間における作戦行動の規範となりました。[1-1]

一、警戒を厳にすべきこと。

二、共同任務の遂行に全力を注ぐべきこと。

三、攻撃精神を旺盛ならしむべきこと。

四、敵潜水艇衝撃(体当たり)の注意、衝撃には全力を用いること、擬潜望鏡を付したる機雷に注意すること。

五、戦闘中の注意、敵の撃滅を一とし、救助を二とする。

六,船舶臨検に関する注意、敵の計略に陥らざること。

七、対敵行動中通信連絡に関する注意

 さらに出港の時期を悟られないよう、港での防諜も徹底されました。この一環として荷物の積み込みをわざと数回に分け、さらに代金支払いを事前に予告しない、といった方法が用いられています。[1-1] ポートサイドは様々な人種、国籍の人間がいるため間諜も活動しやすく、第十一駆逐隊が佐世保を出港した時のように出港情報が漏れていては、命がいくつあっても足りません。

 こうして秘密裡に出港準備をしていた第二特務艦隊でしたが、4月8日にポートサイドの司令官から、急きょ護衛任務の依頼をうけること。その内容は、翌日9日にエジプトのアレキサンドリアからマルタ島まで、「サキソン」という汽船を護衛してほしい、というもの。第二特務艦隊はこれを承認し、第十一駆逐隊の杉と松に出港の準備を行わせました。[1-1]

 ところがアレキサンドリアへ出張していた佐藤指令らが第二特務艦隊の司令部に戻ると、急きょ第十駆逐隊の梅と楠の派遣に変更され(理由は不明)、この2隻は夜遅くまで大急ぎの出港準備がなされました。そして翌朝に各員が見送る中、梅と楠はアレキサンドリアまでの沿岸を航行し、昼頃に商船サキソンと合流すると、一足先にマルタ島へ出発しています。[1-1]

 そして翌日4月10日朝、第二特務艦隊の残る7隻も秘密裡にポートサイドを出港。距離約1000海里、日数3日の危険な航海の始まりです。

 次回は厳戒態勢で地中海を渡る、第二特務艦隊の模様を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記ー若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著、阿川弘之序文、C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P76~90

日本海軍地中海遠征記録
(紀脩一郎 1974年6月15日)
[2-1]P29~31

「ACAR(アジア歴史資料センター)
[3-1]Ref.C10081224500、大正6年 極秘綴(防衛省防衛研究所)」

戦艦ぺレスヴィエトについて
[4-1]http://www.wunderwafe.ru/Magazine/MK/1998_01/index.htm

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