日本海軍、地中海を往く 第4回 サイダーを葬る

文:nona

 3月20日にコロンボを出港した第二特務艦隊、3月21日の春季皇霊祭(春分の日)から「ジグザグ」航法の練習が始まるものの、まだまだ緊張感は薄く、片岡中尉も転舵の様子を見て「酒も飲まないで千鳥足」[1-1]と記しています。

 さらに22日には速力を12ノットに引き上げ、暫時18ノットまで増速訓練を実施しますが、この時に燃料を石炭から重油へ変えたことで、幸運にも上甲板が石炭の煤煙から免れることになりました。さらに24日からは英国式手旗信号の練習やライフジャケットの支給など、地中海を目前にして各種訓練も進められました。[1-1]

 一方、22日に松の酒保(艦内売店)にあったサイダーが遂に売り切れてしまいました。片岡中尉いわく「熱帯航行で水分を多量に要することは言うまでもない。飯を喰う、サイダー1本。当直から降りる、シトロン1本。話しに花が咲く。また1本。」と松の乗員はフタを開けていた様子。[1-1]

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第二特務艦隊の調達記録にある有馬サイダーの復刻版「てっぽう水」


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 さらに片岡中尉「新しい精力を呼び起こさしめるものは沸々と泡の沸き立つサイダーの力である。平々凡々、咽喉を過ぎて虚しく胃袋の重量を増に過ぎない湯茶では到底その代用には相成らぬ」と豪語しています。[1-1]

 なお第二特務艦隊の酒保では、サイダーはもちろん煙草や菓子に日用雑貨、アサヒビールや白鶴など酒も扱われており(「酒保」なので当たり前ですが)ましたが、これらはすべて民間の船便でスエズ運河のポートサイドまで定期輸送され、マルタ島の倉庫で在庫管理されることになっていました。[2-1]サイダーなき侘しい航海も、しばしの辛抱です。

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1917年に第二特務艦隊の酒保で取り扱われていた嗜好品。[2-1]

 ただし梱包やあて名書きのミスにより、酒保物品の大量喪失[2-1]の憂き目に遭うのですが、これは後程解説いたします。

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1917年8月までに行方不明となった品々の報告書。[2-2]

 海上での訓練を続けながら西進した第二特務艦隊、3月27日の朝、うねりで動揺するなか、アラビア半島のアデン港へ入港しました。港には数隻のイギリス艦や重油船の他、日章旗を掲げるトローラー(トロール漁船)の姿もありました。[1-1]片岡中尉は欧州に売られるのだろう、と推測しています。

 イギリス軍ではトローラーを掃海、沿岸警備に使用していますから、このトローラーもヨーロッパで軍用艦へと変貌するのかもしれません。[1-1]

 なお片岡中尉、アデンを砂漠のオアシスのような街、と想像していたものの、その実物を見て「色もなく影もなく、その殺風景で無愛嬌な様子に心に描いた立派な幻影は、物の見事に粉砕された」[1-1]と失望、結局陸へ上がることはありませんでした。

 出港時にも「厭な所から解放された」とまで感じたそうで、日本の自然がいかに恵まれているかまで痛感させられたのです。[1-1]

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1910年ごろスエズ運河。ポートサイド側から。

 なお、アデン入港時、第二特務艦隊へ電報にてある知らせが入ります。

 それは1917年のロシア2月革命(グレゴリオ暦では3月)によって、ロマノフ王朝が倒された、という内容でした。連合国にとっても大打撃となることは確実でしたから、松の艦内も、その話題でもちきりとなっていました。[1-1]

 3月29日にアデンを出港した第二特務艦隊、その日の晩に紅海へ入ります。[1-1]

 すると強い南風と同時に波も高くなり、松は久々に激しい動揺に見舞われます。艦内の固定されていない物品は生き物のように動き、引き出しの中身も勝手に飛び出そうとしていました。片岡中尉も、先のロシア革命を引き合いに「ペトログラードの騒動もかくや」[1-2]と思うほど。

 さらに明石では波で操舵装置が壊れ、深夜に1時間も漂泊する被害をうけていました。幸い地中海へ入る前に起きた故障で、大事に至る前に修理ができたこともまた幸運でしたが、これからの航海で、敵潜のみならず自然の脅威にも気を遣う必要があることを、第二特務艦隊は痛感させられました。[1-2]

 一方で、乗員達は波浪による動揺はもう慣れたもの。明石の乗員は操舵装置が修理されるまで人力で応急操舵を取り続けていたといいますし、大きな被害のなかった松では、「揺れて帰って飯が進む」と言わんばかりに、翌朝の朝食を平らげていました。片岡中尉も誇らしげに「これでこそ海の児だ。海の児は海に勝たねばならぬ。海に買って初めて敵を海に破ることができる」と記しています。[1-2]

 また波が落ち着いた後の紅海航路では、イルカの群と同航や、飛行船のような胡蝶や飛蝗(バッタ)の大群、甲板で翼を休める鶉(ウズラ)、夜の間に海図室に入り込んでいた梟(フクロウ)など、松はちょっとした動物王国となっていました。[1-2]

 乗員たちの訓練もさらに続き、4月2日には前日にこしらえた擬潜望鏡を海に浮かべ、これを標的とした射撃訓練も実施されました。第二特務艦隊の各艦は爆雷が未実装で、対潜攻撃の手段といえば単装砲か体当たりしかありません。この不利を補うため、通常は駆逐艦に配属されない砲術士官が乗り込み、砲撃精度の向上に努めていました。それでも標的にはなかなか当たらなかったようですが。[1-2][3-1]

 4月3日の朝、第二特務艦隊はスエズ運河に外港に到着。ここで水先案内人であるルーズベルト似の大男を乗艦させると、松が一番乗りでスエズ運河へ入りました。運河の入り口には河用砲艦があり、さらに岸にも鉄条網に武装した衛兵。[1-2]

 いよいよ戦争気分を濃厚に感じた片岡中尉ですが、大戦の初期にはオスマン軍がスエズ運河を攻撃する騒ぎもありましたから、物々しい警備も致し方ありませんでした。[1-2]

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1910年ごろスエズ運河。ポートサイド側から。

 さらに運河を進むと、今度は艦上で遥拝式が始まります。遥拝式とは4月3日の神武天皇祭に行われていた行事で、第二特務艦隊は総員で東を向き、日本へ敬礼することになっていました。ところが、一斉の敬礼に驚いたのは東岸の外国人衛兵。面食って慌てて捧げ銃をし直したしたといいますから、おかしな話です。[1-2]

 第二特務艦隊は13時30分にスエズ運河の中間にあるイスメリア港に到着し、佐藤司令とエジプト海区司令官ウエミス中将と会見のため1晩停泊することになりました。[1-2]

 今回は片岡中尉も松の厨宰と共に上陸し、牛肉や野菜を仕入れています。イスメリアにはナイルから引かれた水のおかげで、きれいな庭木の洒落た別荘もあり、日本の「須磨舞子」あるいは「鎌倉逗子」のようであった、といいます。[1-2]

 同港ではロシア革命の続報も得られました。その内容は皇帝の退位から1週間ほどでソビエト政府が結成され、世界各国がこれを承認する、というもの。これは第二特務艦隊でも注視していたものの、片岡中尉によると陸の人はそれ以上に神経をとがらせており、やはり海の人が呑気であったことを自覚させられたそうです。[1-2]

 翌4月4日、第二特務艦隊はスエズ運河の地中海側にある港町、ポートサイドに到着します。ポートサイドから最終目的地のマルタ島まで距離は1000海里、第二特務艦隊の足なら3日ほどです。しかし乗員の緊張はどんどん高まっていました。ポートサイドを少しでも離れれば、そこは潜水艦が跳梁跋扈する地中海。今までで最も危険な航海となることは、想像に難しくありませんでした。[1-2]

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ポートサイドの港

 次回はポートサイドにおける第二特務艦隊の出港準備と、「地中海警戒航行要領」を解説いたします。


参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著,阿川弘之序文,C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P58~63
[1-2]P64~76

アジア歴史資料センター
(JACAR)Ref.C10081075500、大正6年 第2特務艦隊 糧食酒保物品整理報告(防衛省防衛研究所)
[2-2](JACAR)Ref.C10081068400、大正6年2月迄 第2特務艦隊 衣糧需品関係綴 酒保物品輸送状態に関する件 (防衛省防衛研究所)

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス,桜田久編,1997年11月11日)
[3-1]P5~6

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