日本海軍、地中海を往く 第3回 飛魚とスコール

文:nona

 出港直後の時化を乗り越えた第十一駆逐隊、1917年2月22日の朝に最初の寄港地である、イギリス領香港へ入港します。当時から香港には多くの西洋建築があり、片岡中尉も「本場を見てこないものには、これでも西洋へ行ったような気分」[1-1]と記しています。

 第十一駆逐隊は香港に2泊し、燃料、清水、若干の食糧の積み込みと乗員の陸上散歩を実施。片岡中尉も初日の夕方に観光に繰り出し、今でも香港名物として知られる二階付の路面電車香港トラムで街を巡り、ケーブルカー(ピークトラム)でビクトリアピークからの眺望を楽しんでいます。[1-1]

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https://www.hktramways.com/en/our-story/
1910~20年代の香港トラム


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 観光の後には「東京ホテル」で入湯し、日本式の夕食をとった他、翌日の夜には、三井の招待で「清風楼」にて駆逐隊の士官と共に、純日本式の宴会をうけています。[1-1]当時のイギリスの鉄道技術には驚きですが、日本人の海外進出の速さにもまた驚きではあります。

 ただ入港時の「両替」の煩雑さを面倒だったようで、以降の航海でも片岡中尉の手を度々煩わせています。片岡中尉は「世界の通貨を統一して万国共通の制度にしたら面倒もない」と願うものの「英國人が、真っ先に苦情を持ち出すに違いない」[1-1]と半ばあきらめていた様子。実際、21世紀になってイギリスが欧州連合に加盟した際も、頑なに自国通貨ポンドを守っていました。

 2月24日に香港を後にした第十一駆逐隊、次の寄港地はシンガポールでした。練習艦隊でも中国までしか行く機会がなかった片岡中尉にとって、初めての南洋です。3月1日に第十、第十一駆逐隊が相次いでシンガポールに入港し、キングストンドックにあった第二特務艦隊旗艦の明石が出渠、6日に矢矧に便乗していた艦隊司令部要員も到着すると、佐藤司令は翌7日に各艦の士官に訓示を行います。[1-2]

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https://romanceofthegrandtour.com/tag/the-romance-of-the-grand-tour/
1900年代のシンガポール

 司令は「旭旗を欧州海面に翻して征戦に従事する如きは日本民族開闢以来の快挙」と鼓舞するものの、「その成績如何は帝国の榮辱に至大」と続けます。[2-1]国の誇りと責任の重さも忘れてはならない、という訳です。

 そして1917年3月13日、第二特務艦隊は旗艦明石と梅、楠、桂、楓、松、榊、杉、柏の9隻で出港。見送る第一特務艦隊の面々に登舷礼式し、マラッカ海峡を単陣で通過、その日の内にインド洋へ入りました。[1-2]

 なお、インド洋に「怪船」が現れた、という風評がシンガポールで流れていましたから、第二特務艦隊はシンガポールのイギリス司令長官からの依頼もあり、昼間は各艦散開し「怪船」の捜索にあたっています。[1-2]

 この「怪船」の正体はドイツ海軍の仮装巡洋艦(Merchant raider)でした。彼らはドイツ本国を出港後、スカンジナビア半島、アイスランド沖を回りながら大西洋を出て、インド洋や太平洋まで進出していたのです。さらに連合国船を拿捕撃沈し、港の沖合に機雷を敷設するなど、さながら海賊のように暴れまわりました。[3-1][4-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Wolf_(1913
)
1917年ごろに活動したドイツ仮装巡洋艦ヴォルフの航路

 この仮装巡洋艦でも特に活躍した艦が「ヴォルフ」。同艦は全長135m、全幅17.1m、総トン数5809トンの徴用貨物船です。武装は15センチ砲7門、魚雷発射管4門、機雷465個、さらにFF.33という複座水上機も1機搭載していました。こうした仮装巡洋艦の跳梁により、日本船も4隻が被害に遭い、うち2隻は仮装巡洋艦ヴォルフによって沈められています。[4-1]

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https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Wolf_(1913
)
ドイツ海軍仮装巡洋艦ヴォルフと、その搭載機

 ただし幸か不幸か、第二特務艦隊が仮装巡洋艦と戦う機会は訪れませんでした。

 ただ片岡中尉の記録によると、3月14日に不審船の臨検を実施したようです。これは駆逐艦松の北10海里で反航した船に対するもので、立入検査のため柔道有段者のK大尉らが、長剣を携え乗り込んでいきました。結局、その船は「チースター」なるイギリスの貨物船とのことで、異常なしと認められると30分で解放しています。[1-3]

 こうして一日が何事もなく過ぎ去ろうとした矢先、夜になって偶然「松」に飛魚の群れが飛来します。舷側に突き刺さらんとする激しさに、片岡中尉は「わが艦は飛び魚の集中攻撃をうけた」とお道化て書いています。[1-3]後の時代にフランスが対艦ミサイルに「エグゾセ」と名付けるのも然もありなん、といったところでしょうか。

 さらに上甲板でも多数の飛魚が跳ね回っていたようで、生魚に飢えた乗員達の手によって、肉や内蔵はもちろん、普段食べないような眼や鼻の先まで食べられてしまいました。[1-3]

 片岡中尉も「(死に場所が)世界の大戦場に赴こうとする日本男子の胃の腑であったということは、彼らにとっては無常の光栄。」「(もし)化けて来るならK大尉のところへ先にいけ。」「あれは僕より、ずっとたくさん失敬していたはず。」「彼は柔道の段があるから相手に不足はないだろう」と記録しており、飛魚のおかげか片岡節もいつにもまして冴え渡ります。[1-3]

 また、この一件と前後しますが、3月13日の午後には、南洋恒例の「スコール浴び方」がなされ、片岡中尉も上甲板に集まった羅漢にまじり、雨をシャワー代わりに体を洗っています。その原始的な爽快感に「スコール浴び方」の虜にされた松の乗員達ですが、結局の進路上にスコールが現れたのは、コロンボまでの航海では一度だけ。これには片岡中尉も遺憾の意を示しています。[1-3]


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http://www.accidentalcruiser.com/features/images/IMG_1336Squall.jpg
海上で発生したスコール

 シンガポールを出港して1週間後の3月18日、単調な景色に片岡氏の網膜が疲労を訴えかけてきたころ、第二特務艦隊は予定通りセイロン島コロンボに入港します。ここはセイロン島唯一の外港で、当時としては珍しい防波堤で囲まれた人工港。ところが、モンスーンによる嵐となれば、波が防波堤を超えて港は荒れ放題、という様子が当時の水路誌に記されていたようです。[1-4]

 なおこんな港街にも一人だけ日本人がありました。日出貿易商会の臼井清造氏という方で、本業ではないもの、第二特務艦隊の糧食供給に奔走してくれたようです。[1-4]

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http://www.ft.lk/2012/12/15/when-lights-and-fans-were-a-luxury/
1900~1910年代のコロンボの街並み。

 また市内に旅行者相手に名産の宝石を売る店も多くあったようです。片岡中尉によると、現地人老店主が営むある店では、お墨付きとして日本人客からサイン入りの名刺を得ることを商習慣としており、片言の日本語を交えながら伊集院大将(伊集院信管の人?❓)や島村大将(1917年時の軍令部長)、故人と思しき人の古色蒼然とした名刺まで、喜々として見せてきたといいます。[1-4]

 この後に片岡中尉らは休憩がてらに、ラビニアのホテルの海岸の見える庭で「レモナーデ」を飲んでいます。「レモナーデ」とは恐らくはレモネードあるいはラムネのことでしょうが、炎天下のコロンボで飲むものですから格別に感じたのでしょうか、「目黒の秋刀魚ではないがレモナーデはコロンボに限る」[1-4]という感想を残しています。

 次回はスエズ運河までの船旅を解説いたします。



参考資料と出典

日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
(片岡覚太郎著,阿川弘之序文,C.W.ニコル編 2001年6月20日)
[1-1]P35~39
[1-2]P39~43
[1-2]P43~50
[1-4]P51~P57

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス,桜田久編,1997年11月11日)
[2-1]P17~19

株式会社タカハシスタンプ商会
日独戦争と俘虜郵便の時代
[3-1]http://www.takahashistamp.com/2note68.htm

ドイツ海軍仮装巡洋艦ヴォルフについてhttps://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Wolf_(1913)
[4-1]

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
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