日本海軍、地中海を往く 第1回 日英同盟

文:nona

 今回の連載は第一次世界大戦中に地中海で活躍した日本海軍の「第二特務艦隊」がテーマです。マルタ島を母港とした第二特務艦隊は1917年2月から終戦までの期間、神出鬼没のドイツ潜水艦から連合国船舶を守るために出撃し、384回の護衛任務で809隻の艦船と70万人の兵員を見守り、さらも沈みゆく船から7075名を救助する活躍を成し遂げしました。

 残念なことに戦訓を次の大戦で生かしきれず、歴史に埋もれることになりましたが、彼らの日本出港から100年を迎えようとする今、再び第二特務艦隊の秘話を繙いて参ります。

1
日本海軍地中海遠征秘録P75より
マルタ島バレッタ港に展開する旗艦出雲と桃型駆逐艦。


マルタの碑―日本海軍地中海を制す (祥伝社文庫)
秋月 達郎
祥伝社
売り上げランキング: 352,675

 第二特務艦隊の編制がなされる3年前の1914年8月、この年に始まった第一次世界大戦で日本はドイツと戦うことになりますが、その理由といえば「同盟国イギリスを助けるため」というのが当時の一般的な認識でした。[5-1]

 しかし、この認識とは裏腹にイギリス外務省、8月3日に「日英同盟の適用範囲はインド洋まで、自動参戦義務もないため、日本の援助は期待していない」と日本政府に釘を刺していました。このころの日本とイギリスの関係は冷え込んでおり、日本にドイツのアジア太平洋地域の植民地を奪われるよりも、自力でドイツと戦うことを望んでいたのです。[1-1]

 が、いざ8月4日に戦争に突入すると、ドイツの東洋艦隊は行方をくらまし、香港に威海衛、アンザック諸国への海上交通路が脅かされるようになりました。すると、それまで日本を警戒していたチャーチル海相、一転して日本に協力を求めるようになり、イギリス外務省もやむなく日本に海上警備のための限定的な武力行使を要請します。[1-1]

 しかし日本の加藤高明外相、「限定的な武力行使といえどもドイツ艦と戦うことになれば、宣戦布告は避けられない」とイギリスの要請が「参戦要請」であると、わざと曲解。すかさず対ドイツ宣戦布告の閣議決定と天皇からの承認をとりつけ「もし、ここで止めれば深刻な政治危機の恐れがある」とイギリス本国に圧力を加え、日本の参戦を認めざるを得なくなります。[1-1]

2
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Takaaki_Kato_suit.jpg
加藤高明外相。後に総理大臣となり普通選挙法(と治安維持法)を制定する。

 それでも南洋諸島が日本の手に渡らないようにと、イギリス外務省は日本軍に戦域制限を課そうとするものの、「ドイツ艦がどの海域に現れるのかわからない以上、戦域制限を課すことは不可能」と理由をつけられ、結局は有名無実にさせられています。[1-1]

 そして日本は8月23日にドイツに宣戦を布告。陸海軍は共同で9月2日に山東半島に上陸し、青島要塞の攻略を開始、11月7日に僅かな被害で占領に成功しました。さらに10月3日から14日にかけて海軍がドイツ領のパラオ、トラック、サイパンに上陸し、これも占領しています。[1-2]

3
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Siege_of_Tsingtao,_soldiers_of_IJA_18th_division_took_over_german_trench_Kopie.jpg
島攻略作戦における日本軍。旅順作戦の戦訓から、歩兵の突撃の前に、火砲によって戦闘の決着をつけることを志向していた。ただし砲列の三十八式野砲、皮肉にもドイツで設計された砲だった。

 この後、日本は二十一カ条の要求をアメリカから非難されるものの、当のイギリスは欧州大戦に忙殺されて、表立っての非難はできず、やむなく日本からの援軍に頼る方針へ転換します。

 しかしイギリスが日本に陸軍2個師団と、海軍の巡洋戦艦の欧州派遣を持ち掛けると、加藤外相「日英同盟の適用範囲はインド洋まで」「日本軍の唯一の目的は国防に在り、主義上派兵は不可能」「国民の賛同を得ることほとんど見込みなし」と、一転して要請を断り続けました。[1-3]

 さらに親独派の陸軍がこれ以上ドイツと事を構えたくなかったこと、中国の件でアメリカの怒りを買ったことで、対米戦争の可能性から海軍が主力艦の温存が求めた、という公にはしずらい事情もありました。[1-3]

 代わりに日本は太平洋とインド洋の海上警備、軍需品の提供、戦時国債の引き受けといった形でイギリスと連合国を助けることになります。これは一定の評価をうけてはいたものの、日本が1914年にしたことを考えれば、欧州への派兵も当然の義務のはず。これが日英同盟に多きな影を落としていました。[2-1]

 この状況が一変するのが1916年。ユトランド沖海戦以降大々的な活動ができずにいたドイツ海軍。戦局巻き返しのため、1年ぶりに無警告の船舶交通攻撃計画を再開していました。これをうけ、さらなる被害を予測したイギリスと連合国のフランス。1916年12月18日に、日本に再びの応援を要請したのです。[1-4][3-1]

 このとき求められた戦力は仮装巡洋艦対策として南アフリカのケープタウンに巡洋艦2隻、さらに潜水艦対策として地中海のマルタ島に駆逐隊(2~4隻)を求める、というもの。[1-4]

 以前よりも要求を緩和したものの、とりあえず日本が積極的に働いていることを国内外にアピールした上で、日本をその気にさせて、さらなる援軍を引き出す、といったやり口がなされたようです。

 このイギリスの要請に対し、日本海軍内も艦艇派遣に前向きになりつつありました。かの秋山真之少将は、1916年の欧州視察以来、「帝国の地位向上の利がある」「兵術や技術研究に貢献できる」と海軍省内で派遣受諾を力説し、同じく賛成派の加藤友三郎海軍大臣はグリーン駐日大使に「従来の方針では地中海に派遣できないが、希望に添えるよう研究する」と応えています。[1-4]

4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:MIKASAPAINTING.jpg
東城鉦太郎による三笠艦橋の図。東郷司令を中心に左奥に加藤友三郎少将、右奥に秋山真之中佐が描かれている。

 しかし軍令部では中村良三中佐らが「一度でも受け入れると要求がエスカレートして、最後には金剛や比叡まで送らざるを得なくなる」「危険は国難の時にのみ冒すもので、研究を目的に戦うべきではない」と反対を表明していました。[1-4]

 海軍省と軍令部で意見は異なるものの、「戦局の変化で(イギリス以外の)連合国は一層の協力を求めている」という国際情勢に鑑み「今後の派遣要請は断ること」「駆逐艦の指揮権を取られないよう、軍艦1隻、駆逐隊2個からなる独立指揮権を持つ艦隊の編制」そして「イギリスによる日本の南洋群島の領有承認」を条件に、加藤大臣は欧州派遣の是非を閣議にかけることができました。[1-4]

 しかし当時の寺内内閣、以前に「勝つのはドイツだ」と予測していた、大島健一陸軍大臣のような親ドイツな人物も入閣していました。ちなみに彼の息子が第二次大戦時の大島浩駐独大使です。[4-1]

 ただ2月1日にドイツは船舶交通攻撃計画を無制限潜水艦作戦へと発展させ、連合国船はもちろん、連合国に与する中立国船も無警告での攻撃する、宣言。この凶行に陸軍出身の寺内正毅首相も「天人共に許さざる罪悪」とまで発言し、欧州派遣に賛成します。[3-1][4-1]

 そして1917年2月10日、ついに艦艇の欧州派遣が閣議決定され、日本海軍の欧州での戦いが始まることになりました。

 次回は第二特務艦隊の編制と日本出港のお話。


参考と出典

第一次世界大戦と日本海軍―外交と軍事との連接
(平間洋一 1998年4月20日)
[1-1]P3~37
[1-2]59~62
[1-3]211
[1-4]213~214

日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰
(平間洋一 2015年8月25日)
[2-1]108

Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史
(デヴィット・ミラー著、岩重多四郎訳 2001年9月1日)
[3-1]P7

第一次世界大戦と日本
(井上寿一 2014年6月12日)
[4-1]P57,80

日本海軍地中海遠征秘録
(産経新聞ニュースサービス,桜田久編,1997年11月11日)
[5-1]P20

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
片岡 覚太郎
河出書房新社
売り上げランキング: 411,609