第72回 連載「フォークランド紛争小咄」パート28
紛争の終結と、その余波 前編
文:nona
1982年6月14日20時59分、白熱する降伏交渉の末、ついにメネンデス少将が降伏文書に調印。74日間続いたフォークランド紛争も、ひとまず終結を迎えました。
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/southamerica/falklandislands/9329262/Gen-Sir-Michael-Rose-remembers-the-Argentine-surrender-on-the-Falklands-I-said-to-them-No-funny-business.html
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1982年6月14日の朝、ついに突破された内郭防衛線の内側に4機のスカウトヘリコプターが侵入、SS-11対戦車ミサイルで、サパーヒルに放棄された榴弾砲陣地を攻撃しています。しかし地上部隊は最後の戦いに備えつつも、スタンレー市街までは踏み込まずにいました。[2-1]
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Scout_with_SS.11s.jpg
こうした状況の中で、フォークランド島民のブリーニー女医は、健康相談のラジオ放送のため街の放送所を訪れていました。彼女は島民の平静を保つため、アルゼンチン軍から特別に放送所の使用を許されていたのです。しかし、彼女はイギリス軍から発せられる投降を呼びかける無線が、6月6日から毎日10時に発信されていることにも気付いていました。[1-1]
この無線は揚陸艦フィアレスから発せられたもので、SASのローズ中佐と通訳のベル海兵隊大尉が担当者していました。ローズ中佐はオックスフォード大学出身のSAS指揮官で、1980年のイラン大使館人質事で交渉を担当した人物です。フォークランド紛争時は「レイド」という仮前も使用していました。[1-1][4-1][5-1]
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/politics/4594216.stm
マイケル・ローズ。写真は90年代にユーゴへ派遣された時のもの。彼は引退後の回想で自身の仕事を「愉快な仕事ではなかった」と語っている。
ローズ中佐を補佐したベル大尉は、国連職員の父を持ち、自身も幼少期をスペイン語圏のコロンビアで過ごした経験がありました。このため語学に堪能なだけではなく、中南米人の気質にも精通した人物だったようです。[1-1]
この無線は6月6日に一度だけ双方の交信に至ったものの、翌日からアルゼンチン軍は無線を黙殺。それでも二人は、アルゼンチン軍の名誉を尊重する、と降伏を促し続けていました。[1-1]
ただし、6月10日以降に口調は厳しいものへと変わり、14日10時のムーア少将が参加した無線の内容は、最後通牒じみた仰々しいものとなっていたのです。[1-1][3-1][5-1]
これを聞いたブリーニー氏は、アルゼンチン軍の通訳将校ヘッセイ大尉に許可を得て、ムーア少将らと交信するチャンスを得ます。彼女は12日にイギリス軍の誤射で島民3名が亡くなっていること、戦線の接近のため、島民達が避難所(中立指定を受けた教会など)に逃げられなくなっていることを伝えました。[1-1][3-1]
http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1241
イギリス艦の誤射をうけて破壊されたとされる、スタンレーの家屋。
これを聞いたムーア少将は戦いによらない方法で紛争を終わらせるため、ブリーニー氏にメネンデス少将を呼び出すように要請しています。その場のヘッセイ大尉は、上官からの指示がない、と回答を保留します。しかし大尉が直接メネンデス少将に伺いを立てると、少将は無線に応じる用意がある、と回答。[1-1][3-1]
13時にはメネンデス少将が放送所に現れ、ついにムーア少将とフォークランドの最高指揮官同士が交信が実現。降伏交渉への道が開かれました。メネンデス少将の行動は、ガルチェリ大統領からの抗戦命令に反するもの。少将は自己の責任において降伏することを決めていたのです。[1-1][2-1]
これをうけローズ中佐とベル大尉は、特使としてスタンレーに派遣されることになりました。二人の輸送にはガゼルヘリコプターが使用され、白旗代わりに畳んだ白いパラシュートを吊り下げられました。ムーア少将はフィアレスに残り、無線で2人に指示を出したようです。[1-1][2-1]
ガゼルに乗り込んだローズ中佐は通常の無線機に加え、SASの伝でアメリカの特殊部隊の「友人」から得た、TACAST(SATCOM)衛星電話も携帯していました。これはイギリス軍の指揮系をスルーし、SAS本部経由でサッチャー首相との通話もできる無線装置でした。[5-1]
ところがイギリス政府通信本部(GCHQ)の対米担当部は、「アメリカ国家安全保障局(NSA)に盗聴される可能性がある。」とTACASTの使用禁止を要求。そこでローズ中佐は、「これまでアメリカはイギリスを支援したのだから、彼らの関与も受け入れるべき」と訴え、衛星電話の携帯許可を得ています。[5-1]
2人は15時にスタンレーに着陸し、街の西にある政庁舎 (総督邸)でメネンデス少将らと交渉を行いました。政庁舎は4月2日のフォークランド侵攻でイギリス海兵隊が最後に立て籠もり、銃撃戦も発生した場所です。しかし、アルゼンチン軍に接収をうけ、室内に飾られていたエリザベス女王の肖像は、ガルチェリ大統領のもにすげ替えられていたようです。[2-1][5-1]
交渉にあたって、メネンデス少将はすぐスタンレーの降伏を認めたものの、西フォークランドに残る2個連隊の降伏を代表する立場にないと、全島の降伏は拒否。対してローズ中佐は強気の態度でメネンデス少将に全島降伏を迫り続けました。[4-1][5-1]
http://www.clarin.com/politica/menendez_malvinas_0_1433257084.html
フォークランドにおけるアルゼンチン軍最高指揮官のメネンデス陸軍少将
そして2時間ないし3時間ほどの白熱した交渉の末、メネンデス少将は態度を和らげ、全島降伏に同意します。ただしイギリス側はアルゼンチン側からの、いくつかの奇妙な要求に応じることになりました。[1-1][4-1]
その例の一つは降伏条文から「無条件降伏」の文言を外すこと。あくまで名目上のものでしたが、現場レベルでは歴史的にも珍しいことかもしれません。[1-1]
さらに二つ目は、アルゼンチン士官への「弾丸の装填されていない拳銃」の携帯許可。アルゼンチン軍の士官の中には徴集兵を虐げる者も多く、降伏後は逆に復讐に怯えることになったのです。そのためかつての部下にハッタリを利かせる必要があった、とのことです。情けない話ですが。[5-1]
さらにメネンデス少将は、最後の捕虜が送還されるまでフォークランドに残り、アルゼンチンの船で帰りたい、と要望。しかし、これは拒否されてしまい、少将も声を上げて泣いた、といいます。[1-1][5-1]
その後、メネンデス少将は気付け代わりに酒を飲み干し、立ち上がって二人に握手を求めました。これで交渉は終了しています。大役を果たしたローズ中佐とベル大尉は(紅茶ではなく)コーヒーをすすり、アルゼンチン側のヘッセイ大尉の言葉に耳を傾けています。ヘッセイ大尉は「今回の戦争は憎しみを伴わうものはなかった」と戦いを振り返り、本土へ帰還できることを喜んでいました。[1-1][5-1]
交渉から3時間後、ムーア少将もスタンレーに到着しました。片手には降伏文書、もう片手にはスコッチの瓶を手にしていたといいます。彼はメネンデス少将と会見し、降伏文書調印式を執り行いました。[1-1]
http://www.lagaceta.com.ar/nota/235990/mundo/moore-tenia-miedo-guerra-continuase-malvinas.html
ムーア少将(左)とメネンデス少将(右)
降伏文書は20時59分に非公開で調印され、アルゼンチン側649名、イギリス側の死者255名、そして島民3名が死んだ、74日のフォークランド紛争はここに終結しました。[6-1]
この知らせはすぐに世界中へ伝えられ、ガルチェリ大統領も翌日に「停戦」という形で紛争が終わったことを認めます。ただし領有を諦めることはなかったため、両国間の緊張はしばらく維持されました。[1-1]
http://home.bt.com/news/world-news/june-14-1982-falklands-war-comes-to-an-end-as-britain-accepts-argentinas-surrender-11363986434075
降伏文書を手に、笑みを浮かべるムーア少将。
6月15日には、イギリス地上部隊の一部が、スタンレー入りを果たしています。全部隊でなかったのは、隊員用のテントや食糧の不足が原因でした。特に第五旅団指揮下の部隊の多くが、フィッツロイやグースグリーンの宿営地へ戻っています。[2-1]
それでも、幸運な部隊はスタンレーで島民の歓迎を受けることになりました。彼らに同行していたスタンダード紙のヘイスチング記者は当時の感動を、以下のように記しています。[3-1]
「目の前に、人影も見えない道が一直線にのびていた。私は戦闘服をかなぐり捨て、アノラック姿で両手を大きく広げ、ポート・スタンリーの街に入った。島都で初めて会った民間人はカトリック教会の神父だった。彼は私にこういった”By God, you are welcome”(神の御名のもとに、ようこそ!)」[3-1]
http://www.britlink.org/wp-content/uploads/2015/02/c_company_3-para_in-port-stanley-e1424796797414.jpg
ついにスタンレー入りを果たした第三空挺大隊。
後編に続く
出典
[1-1]フォークランド戦争 鉄の女の誤算P240~248
[2-1]RAF Battles of the Falklands Conflictより The Surrender - A conflict ends - 14 June 1982
[3-1]狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 P183~186
[4-1]世界の特殊部隊作戦史1970‐2011 P106~107
[5-1]デイリー・テレグラフ紙 Gen Sir Michael Rose remembers the Argentine surrender on the Falklands: I said to them, 'No funny business'
[6-1]兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 P241
参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
フォークランド戦争 鉄の女の誤算(サンデー・タイムズ特報部 ISBN-562-01374-5 1983年10月20日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦 (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
平成25年度戦争史研究国際フォーラム報告書(防衛省防衛研究所 2015年11月18日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland
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コメント
降伏は多くの場合屈辱的ながら、戦争では必ずと言って良いほど決断しなくてはならない問題、本国と前線部隊との間で悩みながらも必要な交渉をやり遂げたメネンデス少将は立派だと思う。
個人的には勝つ事以上にどうやって憎しみを残さずに降伏するかが戦争において大事な気がする・・・
そしてアメリカ人の「友人」さんwww
ユウジョウって大事だね! 結局この無線機は使われたのかな? 使われたとしたらサッチャー首相とどんなお話をしたのかな?
しかし日本の専門家による調査は期待できないのであった
厚生省に眠ってる戦前戦中戦後の文書でさえ調査が進んでないしなあ…
宮内庁のは生きてる間に拝む事はまず無理か
終戦後の両軍の関係は敗者を辱めないものだったと思いたい
メネンデス少将はなぜ西フォークランドに残る2個連隊の降伏を代表する立場にないと主張したのだろう。在マルビナスのアルゼンチン軍司令官なのに。西フォークランドの部隊は隷下になかったんでしょうか。
部下の帰国を最後まで見送りたいという彼の希望ぐらい叶えてやっても良さそうだが。
英語版のWikiに記事があるよ。
あと、去年の9月に85歳で亡くなったと言う記述が。
誤字様
サッチャー氏の回顧録には肝心の無線機の記述がなく、
また現場に口を挟まないスタンスでもあって、
実際の使用の有無は不明です。
ただ同種の機器をSASが
アルゼンチン本土で極秘裏に使用していたので(雨で壊れましたが)
TACASTも使用されていた、と私は考えています。
2様
それは...謎...です。
ただSASはアメリカともかなり
平時から交換留学していたようです。
SASの隊員1名がフォークランド紛争前に
アメリカでスティンガーの訓練を受けていました。
その隊員はフォークランド上陸直前のヘリの墜落で事故死していますが。
3様
最近は紛争30週年となる2012年に資料の解禁がありました。
イギリス各紙やBBCが掲載していたようです。
その中には
「紛争中にアメリカから目眩まし用レーザーを提供され、大型艦に搭載されたが、結局使用しなかった」
という記事もありました。
私が記事にしてもいいのですが、何ぶん情報が少なく...
4様
本日掲載分の後編で少しだけ記述しております。
彼は大統領命令に背いて最後まで戦わなかったことを
軍政権に咎められ、晩年には「汚い戦争」絡みで出廷を命ぜられるなど
苦難があったようです。
5様
仕事明けに「一緒に一杯やろう」
くらいの気持ちだったのかもしれません。
先任伍長様
残る部隊になんとかしてほしかったのか、
あるいは時間稼ぎ目的かもしれません。
名無しのミリヲタ(40年もの)様
いろいろ苦労されたようでね。
それにしても海外版wikipediaの
フォークランドの関連人物のページは数多くありますよね。
その後の経歴が興味深いです
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