第71回 連載「フォークランド紛争小咄」パート27
両軍の最終決戦 後編(タンブルダウン・ウィリアム山の闘い)
文:nona
2か月半続いたフォークランド紛争も終わりの時を迎えようとしていました。アルゼンチン軍に残された最後の防衛拠点であるタンブルダウン・ウィリアム山を攻略すれば、スタンレーはもうすぐそこでした。
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アルゼンチン軍に残された最後の拠点がタンブルダウン山およびウィリアム山の陣地でした。タンブルダウン山は標高229mで東西に2400メートルほどの長さがあり、スタンレーからはわずかに5kmほど。背後には榴弾砲陣地となっていたサパーヒルもありました。一帯スタンレーを直接管制できる位置にあり、いわば「203高地」のような戦略的な価値がありました。[1-1]
http://www.taringa.net/posts/info/19221239/Historia-de-Heroes-Oscar-Silva---Malvinas.html
ツーシスターズ山付近から見たタンブルダウン山
当然アルゼンチン軍もこのエリア重要性を理解しており、フォークランドのアルゼンチン地上部隊のうち、最精鋭の海兵隊第5大隊とツーシスターズ・ハリエット両山から撤退してきた陸軍兵の合計703名が同地を守っていました。[1-1]
海兵隊員の多くは陸軍と同じく徴兵隊員ではありますが、年間を通じて兵士を入隊させるシステムによって常に兵卒の練度は安定し、さらにこの時の兵士は皆1962年以前生まれで、訓練も十分に受けていたのです。[1-1]
さらに海兵隊第5大隊の元の所在はフォークランドの気候に近いフエゴ島リオグランデ。防寒装備も十分で、4月から同エリアに通じており、さらに防御陣地は携帯式火器でも容易に破壊されないように強固に作られていました。[1-1]
http://www.taringa.net/posts/info/14633622/Algunas-armas-utilizadas-en-la-guerra-de-Malvinas-por-ambos.html
タンブルダウン山の海兵隊員。数は不明ながら、アメリカのHS10セミオート式ショットガンも装備していた。
対するイギリス軍の兵力はマイク・スコット大隊長率いる第2スコットランド近衛大隊、グルカライフル大隊、ウェールズ大隊ら3個の歩兵大隊とシミター、榴弾砲、艦砲、そしてシミターとスコーピオン4両。[1-1][2-1]
http://www.naval-history.net/F58-2nd_Scots_Battle_for_Tumbledown_Mountain.htm
第2スコットランド近衛大隊とグルカライフル大隊のとったルート
作戦は、スコットランド近衛大隊の小部隊と装甲戦闘車両4両でタンブルダウン山の南方で陽動を実施し、その隙にタンブルダウン山の西方からG,F中隊が突入。タンブルダウン山の制圧後に、グルカライフル大隊がウィリアム山を攻撃する、というもの。[1-1]
なお、再編されて間もないウェールズ大隊も前線近まで前進していますが、途中で道を誤り地雷原へ入ったために2名が負傷。その後に工兵隊の力を借りて地雷原の突破したものの、それまでに5時間を要し、戦闘に与することはありませんでした。[1-1]
13日17時30分、第2スコットランド近衛大隊のベセル少佐率いる陽動部隊は軽戦車に跨乗し、前進を開始。18時30分には兵士は下車、軽戦車は歩兵を火力支援するために後列に回りました。[1-1]
20時45分にはタンブルダウン山南のアルゼンチン海兵中隊の陣地に接触し、銃撃と手榴弾による戦闘に発展しました。しかし海兵隊側もイギリス軍が南の道路方向から現れるものと待ち構えていたため、陽動部隊は猛烈な反撃をうけることになりました。[1-1]
この戦闘の15分後にはスコットランド近衛大隊のG中隊がタンブルダウン西側から密かに前進を開始。最初の陣地はすでに放棄されており、反撃もなく制圧しています。22時30分にはアルゼンチン側もようやくG中隊を察知し、兵士は入念に構築された壕内に篭って反撃を加えました。[1-1][2-1]
一方陽動部隊は撤収開始したものの、後退中に地雷で4名が負傷。彼らの救助を支援するために軽戦車がアルゼンチン軍銃火との間に割り入ろうと前進したものの、1両のスコーピオンが路上のクレーターを迂回したところで地雷を踏んで擱座しています。
幸い乗員は脱出に成功し、残る3両が兵士の撤退を助けました。ただしこの陽動では2名が戦死、9名が負傷、スコーピオン1両を喪失するなど、近衛大隊側は小さくない損害を被っています。[1-1][2-1]
http://www.war-art.com/military_prints.php?ProdID=8517
負傷者の救助を援護するシミター偵察装甲車
http://www.taringa.net/posts/info/15383009/El-minado-defensivo-en-la-guerra-de-Malvinas.html
地雷を踏み擱座したスコーピオン軽戦車。
陽動部隊の撤収後もタンブルダウン山の戦闘は激化し、秒速約20mもの吹雪が吹き始めました。この雪と風の騒音は海兵隊側の視聴覚を奪い、近衛大隊側の奇襲を助ける事になりました。近衛大隊の隊員は通信ケーブルを辿り陣地を見つけこれを破砕。G中隊は計画通りタンブルダウン山の3分の1を確保し、ただちにF中隊・左翼部隊の前進が始まりました。[1-1][2-1]
ところが左翼部隊に対する抵抗は凄まじく、3時間の膠着状態となりました。sらに天候はますます荒れ、雪と暴風の音で状況確認も困難に。そこで近衛大隊長のスコット中佐とF中隊の左翼を担当していたキーズリー少佐が交信し、友軍からの榴弾砲による阻止射撃の元、銃剣と手榴弾によるへ敵陣への斬り込みの実施を決定します。[1-1]
この銃剣突撃にはキーズリー少佐は自ら参加し、突撃中にアルゼンチン兵1名を刺突しています。本人の談によると、銃剣を使用したのは背後の穴から飛び出したアルゼンチン兵士に対するもので、銃が弾切れしていたことによる咄嗟の行動であった、と証言しています。この突撃でF中隊左翼部隊は一気に800ヤード(730m)も躍進し、4~5箇所の塹壕をいっきに制圧しています。[1-1][2-1]
2時35分には後続のグルカライフル大隊もウィリアム山への前進を開始。まだタンブルダウン山での戦闘は続いており、側面からの攻撃をうける可能性もありましたが、視界の開ける朝以降に前進するよりは安全であると判断されました。実際に前進の途中で8名が砲撃をうけ負傷したものの、タンブルダウン山の東に火力支援部隊を展開させ、ウィリアム山への足がかりを作っています。[1-1][2-1]
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着剣したスコットランド近衛大隊の兵士。
朝4時にキーズリー少佐は部下7名と共にタンブルダウン山頂に登頂。そこから見えるスタンレーの光景にしばし棒立ちになったと言います。しかし、彼らの背後にアルゼンチン兵士の潜む塹壕が残されており、銃撃で少佐の部下3名が負傷、中佐と無事な部下は銃撃をうまく回避し、応援が駆けつけるまで攻撃をしのぎました。[1-1][3-1]
朝5時5分にはF中隊の右翼部隊も前進を開始しますが、キーズリー少佐はそれまでの戦訓として、強固な機関銃陣地に篭もるアルゼンチン軍の意志は硬く、84mm砲や66mmロケット砲では塹壕から彼らを追い出せないこと、そして良く調整された火力支援と「突撃」のみが敵を突破できると、さながら第一次世界大戦のような戦術が有効であると右翼部隊にアドバイスしています。[1-1][2-1]
もっともこのとき榴弾砲と迫撃砲はグルカ大隊の支援に追われ、F中隊右翼部隊への支援ができる装備といえばミラン対戦車ミサイルだけ。そこで右翼部隊では1個小隊がミラン対戦車ミサイルと機関銃で正面から火力支援を行い、残りの部隊がアルゼンチン軍陣地の右側面から突撃する戦術をとりました。[1-1]
この戦術は功を奏し、右翼部隊も大きく前進。タンブルダウン山一帯の制圧に成功し、朝8時には全ての戦闘が終了しました。アルゼンチン軍の損害は陸軍、海兵隊合わせ死者20名以上と多数の負傷者、対するスコットランド近衛大隊では死者8名、負傷者35名でした。[1-1][2-1]
このときグルカ大隊はウィリアム山へ前進を続けていましたが、同地のアルゼンチン兵士達は戦わずして逃げ出していました。グルカD中隊は威嚇のために絶叫しながら突き進んでいた、とのことで、ウィリアム山のアルゼンチン兵は大いに怯えてしまったのです。[2-1][1-1]
なお、アルゼンチン兵の間でグルカ兵は捕虜を取らない(=皆殺しにする)、麻薬を使って戦闘する人食い人種という噂も広まっていた、とされています。[2-1]
ただグルカ大隊は誤射や地雷原の発見などで作戦が遅延し、ウィリアム山の制圧時の時刻は13時5分になっていました。この後には地雷原を抜け出したウェールズ近衛大隊も前進を再開し、サパーヒルの放置された砲兵陣地を確保しています。[1-1][3-1]
イギリス軍が確保した山々からは、川のような行列を作ってスタンレーへ戻ろうとする、アルゼンチン兵の姿が目撃されていました。ウィルソン准将はさらなる前進をグルカ大隊に求めますが、上級指揮官のムーア少将はこれを制止しています。すでにアルゼンチン軍に抗戦の意志はなく、降伏交渉で無血でスタンレーを明け渡してくれる公算が強まっていたのです。むやみに刺激するのはかえって危険でした。[1-1]
12時55分にはスタンレー上空9000mに、レーザー誘導爆弾を装備した2機のハリアーが飛来しますが、地上のFACもハリアーに引き返すよう命じています。すでにスタンレー各所に白旗が掲げられていました。[3-1]
http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1179
スタンレー上空を飛ぶハリアーの飛行機雲。
出典
[1-1]フォークランド戦争史 P319~325
[2-1]RAF Battles of the Falklands ConflictよりMount Tumbledown and Mount William - 13 and 14 June 1982
[3-1]フォークランド戦争 鉄の女の誤算P234~240
[4-1]空戦フォークランド P251~252
参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
フォークランド戦争 鉄の女の誤算(サンデー・タイムズ特報部 ISBN-562-01374-5 1983年10月20日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦 (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
平成25年度戦争史研究国際フォーラム報告書(防衛省防衛研究所 2015年11月18日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland
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コメント
民族自決が叫ばれた20世紀も末の「文明国」同士のフォークランド紛争に、グルカ兵が登場するなんざ喜劇としか言いようがない。
価値判断ができない凶暴な「駒」は、ご主人様の命ずる所に従って、かつて日本兵捕虜に対してガソリンを掛けて焼き殺した如く、何の良心の呵責も感じないまま、自国民に対しても同じように振る舞うだろう。
「悪の自覚」がない者は度し難い。
将校にしたら最悪!
(銃器を用いた歩兵戦術自体はWW1で一定の完成を見たとも言える)
むしろこの状況で抵抗を続けたアルゼンチン兵と混乱するべく状況で突撃を遂行できたイギリス兵双方ともに讃えられるべき。
それでも絶叫しながらククリ振り回す言葉が通じそうもないネパール人兵士見たら白旗も掲げる気すら起きないけどw
もうちょっと数があれば兵士も戦い易かったでしょうな
そんなグルカ兵の中でも、日本兵に敬意を払ってる人は決して少なくはなかった
なお、元グルカ兵、自国で数十人の暴漢から一人で少女を救った模様。
小柄な山岳民族の運動能力は、平地では白人に劣るけど、傾斜地では圧倒的に有利
山も吹雪も「ヒマラヤよりマシ」ってなもんだろう
銃剣でしっかり戦果を上げてるイギリス人も負けてない気はするがw
※1
最悪なのはどう考えても、傷病捕虜の処分を命じた英国人将校の方
命令に従った一兵卒のグルカ兵に何言ってんだ?
80年代に民族自決を謳うのも良く分からんが、グルカ兵の供出で得たイギリスの後ろ盾の下、独立のまま2大戦と冷戦を凌いだネパールは、その点でも成功例としか言いようが無い。むしろ21世紀の共和制移行後こそ泥沼じゃないか
懐かしいねw
たしかヴィシュヌ・シュレスタさんだったような
電車内で少女を襲おうとした外道集団相手にククリ一本で挑んで、結果的にそいつらを壊走させた話がもう3~4年前にあったなー
※1
歴史的に見れば傭兵がやらかしたことは多々あるが、中にはまともなのは少しくらいはいたような気がしないでもないし、最近もフランス外人部隊や米国のPMCなどがいるので傭兵が前時代的とは言い切れない気がする。
あと今の中東のIS戦士とか実態は傭兵みたいのが多いらしいね。たしかリビアのカダフィ政権が潰れた時にカダフィ子飼いの傭兵部隊が周辺国に拡散して混乱に一役買ったって話。
まぁ色々と見ると結局今もやらかしてる連中が多いのが、21世紀もまだまだ暗黒世界感があるな・・・
歴史上精強と言われる部隊が独特の掛け声をトレードマークにしている理由がわかった気がした
そういえばアメリカのショットガンで思い出したけど、この紛争で捕虜になったアルゼンチン兵の中に、英語しか話せない身元不明の自称アメリカ人が数人混じっていたという話を聞いたような
アルゼンチン兵が想像していたグルカ兵は、
ステロ・タイプのグルカ兵そのもので、
フォークランドに出兵したグルカ兵は麻薬はやりませんし、
捕虜を蔑ろにすることもありませんでした。
過去には残虐な噂も事実だったのでしょうが、
1982年の彼らが「価値判断ができない凶暴な「駒」」であったとは思えません。
いかがでしょうか。
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