第67回 連載「フォークランド紛争小咄」パート26
外郭防衛線の決戦・中編(ハリエット山)

文:nona

 ツーシスターズ山の戦いが開始される少し前、第42海兵コマンド大隊は、外郭防衛線南のハリエット山を攻撃していました。彼らの完璧なまでに「教科書通り」な奇襲をうけ、アルゼンチン兵士は戦意を失い降伏を開始。ところが、上官達は意地でも戦線を維持しょうと、降伏する兵士を銃撃し始めたのです。

1
(引用元)http://www.britmodeller.com/forums/index.php?/topic/234976482-westland-gazelle-za730/
ハリエット山を攻略した第45海兵コマンド大隊の兵士達

フォークランド戦争―“鉄の女”の誤算
サンデー・タイムズ特報部 宮崎正雄
原書房
売り上げランキング: 150,673

 ハリエット山は外郭防衛線の南端にある標高270mの山。山麓にはスタンレーまで続く道路があり、外郭防衛線の中でも重要な位置にありました。ハリエット山の兵力は、アルゼンチン陸軍第4歩兵連隊を中心に、第7、第12歩兵連隊から派遣された分遣隊、重迫撃砲小隊などの総勢300名。第4歩兵連隊の連隊司令部も同山に置かれました。[1-1]

2png
(引用元)http://www.raf.mod.uk/history/MountHarriet.cfm
ハリエット山

 このハリエット山に挑むのが、ヴォークス中佐率いる第42海兵コマンド大隊。彼らは5月30日にケント山に展開して以来、ハリエット山の周辺地域を徹底的に偵察していました。この偵察の結果、ハリエット山周辺の地雷源を9箇所も特定し、さらに各陣地の配置までも把握済みでした。[1-1][2-1]

 この情報をもとに、第42海兵コマンド大隊は地雷原を迂回するルートを特定し、さらに大回りで防衛線の背後へ回りこんでいます。[1-1]

3
(引用元)https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Mount_Harriet
第42海兵コマンド大隊のJ,K,L中隊の動き。J中隊が防衛線の正面で陽動を担当し、K,L中隊が背後からハリエット山へ突入した

 第42海兵コマンド大隊の前進ルートは地雷原とアルゼンチン軍の陣地群を回避するため大回りとなり、距離は8マイル(12.8km)もありました。ただし先行した斥候部隊が行軍に適したルート上に、印を残したおかげで、後続部隊は道に迷わずに済んでいます。[1-1]

 斥候部隊の後ろにはミラン対戦車ミサイル分隊も続き、道路を見通せる場所へ発射器を運んでいます。彼らの当初の目的は道路を伝いに前進してくるアルゼンチン軍のパナールAML-90装輪装甲車(90mm砲を装備)に対抗することでした。[1-1]


4
(引用元)http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1152
AML-90装輪装甲車。フォークランドは地表が軟弱なため、走行できる場所は限られていた。

 ミラン対戦車ミサイル分隊の後方には、K,L中隊の兵士が続きました。行軍の途中にはアルゼンチン軍から2回、照明弾が発射されていますが、どちらも適当な射撃に終わっています。[1-1]

 K,L中隊が開始線に近づく頃には、陽動担当のJ中隊、105mm榴弾砲を保有する第7コマンド砲兵中隊、12M型フリゲートのヤーマスの4.5インチ砲による、ハリエット山西側への陽動砲撃を開始。うちヤーマスは40発を連続発射するなど、濃密な弾幕によって、イギリス軍の攻撃が西側から行われるかのように見せかけます。[1-1]

 一方、ハリエット山の東側に到着したK中隊は、本部へ「ベスビオ」と作戦開始の暗号を送信。開始線を越えて、隠密のうちにアルゼンチン軍陣地の背後へ迫ります。アルゼンチン軍がこれに気付いた時、K中隊はアルゼンチン軍の司令部からか150mまで迫っていました。[1-1][2-1]

 想定外の方向から襲撃され、慌てふためくアルゼンチン軍に対し、K中隊は砲兵の支援の元、2人1組から分隊の半数ほどの小班を組み、66mmロケット砲、手榴弾、銃剣によって、塹壕や掩体をひとつづ掃討していきました。司令部はすでに放棄された後でしたが、代わりに、4門の重迫撃砲の鹵獲に成功しています。[1-1][2-1]

 この45分ほどの戦闘で1名が戦死したものの、逆に6名のアルゼンチン兵を「刺殺」し、20名以上を捕虜としています。捕虜のうち17名は、わずか4名の海兵隊員によって降伏させられていました。[1-1][2-1]

 残るアルゼンチン兵も次々と投降を開始。指揮官のエチュベリア中尉は投降を呼び止めたものの、自身が銃撃をうけ重症を負ったことで、歯止めが効かなくなっていました。[1-1]


5
(引用元)投降したアルゼンチン兵を調べる海兵隊員
http://www.raf.mod.uk/history/MountHarriet.cfm

 またアルゼンチン軍将校や下士官の中には、降伏する兵を銃撃する者まで現れました。しかし、K中隊はそうした指揮官を優先して攻撃。これは人助けというよりは、単に指揮官を排除したかっただけかもしれませんが、結果としてアルゼンチン軍の指揮官達は速やかに報いを受けたようです。[1-1]

 K中隊の戦闘開始から30分後には、待機していたL中隊も前進を開始。ハリエット山の西側へ攻撃を仕掛けています。ただし30分遅れで前進するL中隊にはさほど奇襲効果はなく、140~200mほど前進したところで機関銃陣地の射撃をうけ、瞬く間に3名が負傷。[1-1][2-1]

 そこでウィーン中隊長は機関銃陣地に向けて照明弾を撃ち込ませて、すかさずミラン対戦車ミサイル分隊に機関銃陣地の攻撃を命じます。ボークス大隊長はこの戦法について、高価なミラン対戦車ミサイル(当時の価格は2万ポンド、720万円)を、単なる機関銃陣地に撃ち込むのは「高くつくやり方」としています。が、他方では最も確実な方法でもありました。[3-1][3-1]


6
(引用元)http://www.naval-history.net/FxDBMissiles.htm
照明弾の明かりのもと、ハリエット山の陣地を照準するミラン対戦車ミサイル分隊。

 L中隊の戦線はしばしの間一進一退の攻防が続いたものの、数時間かけてアルゼンチン軍の6つの機関銃陣地を無力化し、ハリエット山の北の尾根のゴートリッジまで掃討。ハリエット山に残っていたアルゼンチン陸軍第4連隊の司令部とスタンレー間の交通を分断しています。

 連隊司令部にいたソリア連隊長は、一度は反攻を考えていたものの、部下の進言をうけて残存部隊の撤退を決意。しかし時すでに遅し、ソリア連隊長は後退の途中で捕虜となり、貴重な資料もイギリス軍の手に渡っています。[1-1]

 この戦いで早期に混乱状態となったアルゼンチン軍守備隊では10名が戦死、53名が負傷、300名以上の捕虜を出しました。撤退に成功したのは2個小隊ほどの人員だけ。彼らは内郭防衛線上のタンブルダウン山の部隊へ組み込まれました。[1-1]

 一方の第45海兵コマンド大隊は戦死者2名、負傷者26名に留めています。(戦死者のうち1名は、夜明け後に行われた砲撃の犠牲者)第45海兵コマンド大隊の作戦は大成功と呼べるものでした。ただし、作戦の内容は平凡そのもので、イギリス軍も大隊の作戦を「textbook operation」と評しています。[1-1][2-1]

 それでも教科書という理想を見事に実現できるあたり、大隊長のヴォークス中佐や隊員達の優秀さが現れているのかもしれません。[1-1][2-1]


後編に続く



出典
[1-1]フォークランド戦争史 P313~317
[2-1]RAF Battles of the Falklands ConflictよりMount Harriet - 11 and 12 June
[3-1]フォークランド戦争 鉄の女の誤算P228~232

参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
フォークランド戦争 鉄の女の誤算(サンデー・タイムズ特報部 ISBN-562-01374-5 1983年10月20日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦 (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
平成25年度戦争史研究国際フォーラム報告書(防衛省防衛研究所 2015年11月18日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland