第56回 連載「フォークランド紛争小咄」パート22
泥炭の荒野を踏破せよ 前編
文:nona
フォークランドへの上陸以来、島都スタンレーへの前進のタイミングを伺っていたイギリス軍。その最大の障害がフォークランドの泥炭地でした。
http://www.zona-militar.com/foros/threads/im%C3%A1genes-del-conflicto-de-malvinas-fotos.258/page-1196
フォークランドの荒野を前進する兵士達。
泥炭とはフォークランドの冷涼で湿潤な気候によって、草木が腐らずに堆積したものです。泥炭地は地盤が非常にゆるく、走破できるのはBV202全地形車や、アルミ装甲の軽戦車、軽荷の四輪駆動車などに限られます。このため、戦車や装甲車はもちろん、兵站に使用するトラックについても必要数の90%を持ち込めませんでした。[1-1]
対策として、イギリス軍はヘリコプターによる輸送を思案。すでに特殊作戦でヘリコプターが大活躍しており、機数を増やすことで主力部隊の輸送も可能である、と考えられていました。海兵隊のトンプソン准将も5月24日の夜、ヘリボーンでケント山を奪取する計画を立案しています。[1-2][2-1]
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Falkland_Islands_topographic_map-en.svg
ケント山の位置。スタンレーからの距離は15~20kmほど。
同地はスタンレー防衛の要所ですが、SASのG中隊はアルゼンチン軍が展開していないと報告していたため、アルゼンチン軍は「家の裏口のドアを開け放している」状態にしていると考えていました。(実際には山麓にヘリコプター基地が存在したが、山の争奪戦の直前に撤収している)
ところが作戦の当日に輸送船のアトランティック・コンベアーが被弾し、輸送中のチヌーク3機とウェセックスヘリコプター5機を喪失。砲兵隊のヘリボーンは延期されてしまいます。そこでSAS・D中隊の約40名は単独でケント山に向かい、ヘリボーンの再開に備え同地を防衛しました。[1-3][2-1]
ケント山を確保する試みがなされる中、サンカルロスではケント山までの連絡線を確保するため、5月27日に第3特殊旅団隷下の陸軍第3空挺大隊と海兵隊第45コマンド大隊の東進が開始されました。[1-3][2-1]
しかし、この日はヘリコプターの故障が重なり、徒歩以外に前進する手段がないため、海兵コマンド大隊員は130ポンド(約59kg)の荷物を背負い、歩きにくい泥炭の荒野を、20kmも歩かされています。[1-3][2-1]
http://mult-kor.hu/20140818_igy_valtozott_az_angol_katonak_felszerelese_1000_ev_alatt
当時の兵士の荷物の例。
http://www.royalmarines.uk/threads/yomping.48972/
荷物全てを背負った状態。
この強行軍に多くの隊員が足をくじいてしまい、隊列は数キロに伸びてしまいました。初日の行軍が完了したのは夜22時でしたが、この間に15名の隊員が落伍し、やむなくBV202やわずかな救難ヘリコプターで救出されています。[1-3][2-1]
最初の宿営地で睡眠をとった隊員達でしたが、大隊はポンチョを簡易テントとすることを認めなかったために、夜明け前の雨で寝袋を濡らすことになりました。「士気の最後の砦」とされた寝袋を水に侵され、隊員達の士気も大きく下がったそうです。[1-3][2-1]
この翌朝、コマンド大隊は各員の荷物を宿営地に残し、戦闘形態で12km先のダグラス入植地へ前進しています。しかし同地のアルゼンチン兵は撤退済み。コマンド大隊はダグラスの保持を行う傍ら、隊員を休養させるため、同地で2晩を過ごしています。住民はイギリス軍を大いに歓迎し、農業用トラクターとトレーラーで荷物の輸送を手伝っています。[1-3]
海兵コマンド大隊が休憩している傍らで、陸軍の第三空挺大隊は行軍を継続。28日の22時30分にはティールインレット入植地に進駐します。同地はサンカルロスとスタンレーの中間点にあり、ケント山までは約30kmほどです。翌29日には第3特殊旅団長のトンプソン准将らが到着し、旅団司令部も開設されました。[1-3]
准将は第三空挺大隊のさらなる前進を望んでいたようですが、隊員たちの疲労が蓄積していたため、ここでも2日間の休養を余儀なくされました。[1-3][2-1]
この29日の晩、延期されていたケント山への砲兵輸送が開始されましたが、吹雪のためにシーキングは同地へ到達できず、計画は再延期。しかもSASの存在がアルゼンチン軍に気付かれたために、アルゼンチン陸軍の第602特殊作戦中隊の襲撃をうけることになります。
https://eduardofrecha.wordpress.com/2014/07/28/album-no-90/
陸軍第602特殊作戦中隊
特殊作戦中隊は第2・3突撃分隊をヘリコプターで派遣したものの、彼らも吹雪に前進を阻まれ、所定のポイントに降下できたのは第3突撃分隊だけでした。[1-3]
それでも吹雪が彼らの奇襲を助けたために、SASは不意をつかれてしまい、一時は撤退を考えるほどに圧倒されています。しかしSASが次第に盛り返し、朝になって第3突撃分隊の指揮官フェレーロ大尉は攻撃を諦め、ケント山から撤退していきました。[1-3][2-1]
そして30日の夜、待ちに待った砲兵部隊を載せたヘリコプター1機がケント山に到着します。イギリス軍がフォークランドで運用した唯一のチヌーク、「ブラボーノベンバー」でした。このとき同機は105mm榴弾砲を3門と22名の砲兵、さらに砲弾を満載していました。[1-3][2-1][4-1]
イギリス空軍のチヌーク、ZA718”ブラボーノベンバー“
http://www.raf.mod.uk/news/royalairforcech47chinookbravonovember.cfm
ただ機体が重かったのか、着地の瞬間に機体が泥炭に沈み込んで後部ランプがふさがり、荷降ろしができないトラブルに見舞われています。[4-1]
チヌークのロードマスターが榴弾砲を機外に出そうと悪戦苦闘していると、またもアルゼンチン軍の特殊作戦中隊が現れ、銃撃戦が再開されました。[1-3]
チヌークの機内では地上戦に巻き込まれないように、光量を落とした懐中電灯で榴弾砲の荷降ろしを継続し、作業を終えるとケント山から急いで離脱。
ケント山に残ったSASは第2突撃分隊を挟撃し、相手側の隊員2名を殺害。ケント山の防衛に成功します。[1-3][4-1]
翌日の6月1日にかけて海兵隊の増援部隊、迫撃砲、ブローパイプ対空ミサイルがケント山に送り込まれ、18時40分には第3空挺大隊がケント山近くのエスタンシア・ハウスに到達。ケント山の孤立もようやく解消されました。[1-3][2-1] [4-1]
一方のブラボーノベンバーは帰投中に視界を降雪で遮られてしまい、時速160kmでに機体後部を海面に接触させてしまいます。幸い機体にダメージはなかったものの、低空飛行が困難であると思われたため、中高度の飛行に切り替えました。[2-1][4-1]
ところが本部との通信が途絶し、味方に誤射されかねない事態に。そこで同機の全てのライトを点灯させ機体を目立たせ、これによって幸運にも誤射されることなく、無事に帰還しています。[2-1][4-1]
このチヌークは損傷もほとんどないことが確認されると、再び任務に戻ることになりました。ただし、今回のような過酷な運用が省みられることはなく、以降も危険な任務に投入されることになります。[2-1][4-1]
http://www.bbc.co.uk/history/recent/falklands/falklands_gallery_06.shtml
荒野を往く第45海兵コマンド大隊。
後編に続く
出典
[1-1]フォークランド戦争史 P276~278
[2-1]The Falkland Islands Campaignより 27/28 May 1982 Goose Green - The first major land victory
[3-1]サッチャー回顧録上巻 P290
[4-1] 空戦フォークランド P188~192
[5-1]フォークランド紛争の内幕P178~180
参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日
フォークランド戦争 鉄の女の誤算 (サンデー・タイムズ特報部 ISBN-562-01374-5 1983年10月20日)フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
平成25年度戦争史研究国際フォーラム報告書(防衛省防衛研究所 2015年11月18日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland
コメント
気持ちはわかるがこれ理由に民間人撃たれても文句言えん気が
59kgの荷物を背負って足元悪い場所を20km歩かされて足を挫くなと言う方が無理難題な気がする…。
お疲れさまです。
輸送ヘリが稼動1機のみとか、
マーケットガーデン作戦並みに無理をさせてますね。
薄氷の上を士気と幸運で掴み取った勝利という感じですね。
彼らからすりゃアルゼンチン軍は「侵攻してきた敵」になるんだし、女王陛下の御旗の下で共に戦えるなら栄誉な事なんじゃ
こんな風に軍が作戦遂行上困難な事態に見舞われて、んで自国の民間人が協力して窮地を脱したなら、あとで叙勲の対象になるのかな
しかし民間人である島民が輸送に協力すれば、ア軍から攻撃されても文句は言えないのではないか。島民に犠牲者が出なかったのは何よりですが。
帰属意識や気持ちの面はわかるが、制度面はそうもいかない
疲労困憊した英軍の代わりに物資輸送する民間人なんかアルゼンチン軍にとっては軍服を着ていない輸送部隊と同義
ごく自然と言うけども一応は保護されるべき「民間人」がまかりなりにも「戦闘員」になるのだから簡単な事じゃないのです
実際現地ではどういう扱いだったんだろうか。一時的に軍属にしたのか、トレーラーなどを徴発しただけで人は使わなかったのか
島にやってきたアルゼンチン兵は、事前のプロパガンダと違いイギリス人だらけな事に愕然としたという
バトルオブブリテンでは民間防衛隊、民間対空監視員とか当たり前にあったし
強制ではなく、軍隊に協力を依頼されれば形式的に問題ないんじゃないの
ハーグ陸戦条約は第一章で交戦者の資格を定めているが、それによれば
1.部下の責任を負う指揮官が存在すること。
2.遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること。
3.公然と兵器を携帯していること。
4.その動作において、戦争法規を遵守していること。
だから特別な武装を行わずに自発的に労働を行う人間は交戦者とはならないね。
それに第三款の敵国の領土における軍の権力で色々と定まっているけど、基本的に現行法を尊重した上でなら占領軍(アルゼンチンにとってはイギリス軍は不法な占領軍)による現品徴発及び課役はある程度認められているから、この場合は適当な課役の範囲内と言えるのでないか?
けど『千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書Ⅰ)』の第五十一条で「文民は、敵対行為に直接参加していない限り、この部の規定によって与えられる保護を受ける。(敵対行為への直接参加が認められる場合は保護されない)」から、住民の皆様を保護する必要はないっぽい?
戦闘になって運んでいる荷物を狙ったら偶然住民に当たってしまった、というなら適正な軍事行動の範囲内。
戦中・戦後に敵軍への協力を理由に罰せられるかはケースバイケース(英軍が勝ったら勲章、負けたらアルゼンチンの法律次第)ってところかな。
まぁ政治的な理由で両軍が民間人への被害を極端に嫌っていたので、住民が何かしていてもそれを理由に撃たれる可能性はそれなりに低かったとは思うが・・・
何らかの処罰を与えるにしても、きちんと軍律裁判を経なければ国際法違反以前に軍法違反
イギリス国籍民間人だし、まともな国なら罰する事は出来ないだろう
大戦中にはパルチザンとか殺しまくった例があるけど、ありゃ実は明確に国際法違反しまくり多数だし
組織化され、ある程度統一された戦闘服着てればきちんと捕虜扱いせねばならない
日本も便衣兵とかゲリラとか称して殺した例多数だが、疑わしけりゃ殺してた例が大多数、法務官による審議も軍律裁判も無しに殺しまくってアウト
日本はジュネーブ条約に調印してないなんて理屈もあるが、日本は準用すると声明出してるし屁理屈にしかならん
準用すると約束しておきながら、なんの対処対応もしてなかったのが実態
民間人の扱いにつきまして
誤字様が紹介されたジュネーブ条約を調べてまいりました。
※ttp://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/geneva/geneva4.html
「戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約」
の第五条〔抵触行為〕によると
民間人が個人として紛争当事国の安全に対する有害な活動をしている、
あるいは明確な証拠ある場合に、その安全を保証できないとしています。
「個人として」とありますから、むりやり軍に協力させられた場合はその限りではない、
という解釈もできるかもしれません。
また民間人が敵利行為を咎められることはあっても、
「人道的な待遇」と、「裁判をうける権利」が残されるなど、
即時処刑までは許されないようです。
(必ずしもそうなるとは限りませんが)
なお、フォークランド島には紛争前から諸島防衛隊として
23名の島民が参加していますが、
こちらは交戦者資格の四条件を満たしており
戦闘での死傷はやむを得ないとしても
投降後に不当な扱いを受けることはないようです。
お返事ありがとうございます、いつも楽しく記事を読ませていただいております。
「戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約」(「第四条約」)なのですが、これは第四条約第四条〔被保護者の定義〕にあるように「紛争当事国又は占領国の権力内にある者でその紛争当事国又は占領国の国民でないものとする。」=外国人に対しての規定で、紛争当事国又は占領国の国民には適用されないと解されます。
実際に日本の法律でも「国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律」によって第四条約に基づく外国人の入植、出域、出国に関する取り扱いについて定めています。
一方で自国民(日本国民)については、第四条約では第二編で病院や中立地帯について最低限定めているだけで、詳しい言及はありません。
紛争当事国含めた文民の保護に関して言及している国際条約としてはジュネーヴ諸条約第一追加議定書と第二追加議定書が初だと思います。(詳しくはちょっと調べ切れていない)
戦時国際法は慣習法として側面が強く、それによれば交戦者の資格が無いものをむやみやたらに攻撃してはならず、これを違反したものは正当な手続きを踏んだ裁判によって罰せられなくてはならない(無警告の攻撃はダメよ)ってことだったのですが、無制限潜水艦攻撃や無差別爆撃、各地の植民地独立運動を見るに必ずしも守られていない。
そんなわけでこれまであいまいだった慣習法を国際条約としてはジュネーヴ諸条約第一追加議定書と第二追加議定書でまとめて最低限守るべき道筋をつけた って流れだったと思います。
国際法は慣習法と成文法がごっちゃになってる上、それぞれの国がそれぞれの国の事情で運用しているので面倒ですね、まぁ調べればそれはそれで面白いところでもあるのですが・・・
この場合、ナンチャッテでも構わないから、輸送動員した民間人には「軍服」を支給すべき事案 !
万が一敵軍と遭遇して降伏を余儀なくされた場合、戦場に在って軍籍を持たず、かつ軍服を着用していない者は、便衣兵=スパイと判断され、正規の軍人(戦闘員)であれは捕虜の待遇を得られるのとは裏腹に、輸送任務で付き従っただけの民間人は敵軍指揮官の一存で処刑されてしまう危険性がかなり濃厚・・・
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