第55回 連載「フォークランド紛争小咄」パート21
大隊長、誤算続きの地峡戦 後編
文:nona
夜が明け戦線が膠着し、計画が遅々として進まないことに苛立ったジョーンズ大隊長。彼の思考は独断的になり、ついにはA中隊に突撃を命令します。[1-1]
http://www.britishempire.co.uk/forces/armycampaigns/southamerica/falklands/parasgoosegreen.htm
グースグリーンを目前に、塹壕に篭もってハリアーの空襲を待つ兵士。
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ジョーンズ大隊長は戦況を打開するため、A中隊による突撃を思いつきます。大隊長の第1戦術司令部(大隊本部)は煙幕を焚いて前進、中隊に合流し、中隊長に突撃を指示しました。[1-1]
中隊長は後方の予備部隊と合同すべきと、突撃をいさめたものの、大隊長はこれを拒否。そして近くの中隊長らと、司令部要員の士官、さらには無線機を担いだ通信兵ら20名も突撃要員に加えています。
そして午前9時30分、ジョーンズ大隊長は自らスターリング短機関銃を手に敵陣に突入。しかし、他のA中隊員はとの連携はなされず、突撃に参加できたのは20名ほどでした。[1-1] [1-1]
たちまちアルゼンチン軍の猛反撃をうけ、3名の死者と複数の負傷者をだして突撃は失敗。ジョーンズ中佐は右へ150 メートルほど迂回したものの「アルゼンチン人の格好の標的」となって背中を撃たれ、数分の内に絶命しました。[1-1][2-1]
https://www.pinterest.com/pin/322077810828918135/
倒れるジョーンズ大隊長。しばしば赤いベレー帽姿で描かれる。
A中隊は生き残りを助けるため、援護射撃を開始。大隊長を撃った塹壕には66mmロケットランチャーが命中しています。[1-1]
この後、アルゼンチン兵の60%を死傷させ、ダーウィンを守るエステベス中尉は降伏。しかし空挺大隊側も大隊長ら4名が戦死し、11名が負傷していました。[2-1]
大隊長の死後、第二空挺大隊の指揮権は第2戦術司令部のキーブル少佐に移譲。[2-1]
彼はB中隊が抜け出せずにいるボカハウス戦線に、ミラン対戦車ミサイル分遣隊を派遣。18の機関銃陣地をミサイルで破壊し、B中隊のボカハウス突破を成功させています。ここでは12名のアルゼンチン兵を殺害し、約20人を捕虜としています。 [2-1] [2-1]
http://www.naval-history.net/F48-2_Para_Battle_for_Goose_Green.htm
ミラン対戦車ミサイル。
B中隊は西岸伝いに南下を続け、D中隊がこれに続き、さらに予備兵力のC中隊はA中隊が制圧したダーウィンヒルから南下を開始します。[2-1]
ところがC中隊の兵士がグースグリーンの岬から放たれた35mm機関砲、20mm機関砲の対地射撃に見舞われ、隊員の2割が死傷します。[2-1]
http://www.taringa.net/posts/imagenes/14051909/GAA-1-Fuerza-Aerea-Argentina.html
35mm機関砲。
幸いB・D中隊は機関砲の死角からの南下に成功し、B中隊が南に大回りする一方で、D中隊がグースグリーン飛行場の確保に向かいます。同地の守りは非常に厚いものの、D中隊は小銃に着剣し、白兵戦でこれを突破しています。[2-1]
するとD中隊は飛行場に掲げられた白旗を目撃します。先行部隊していた第12小隊は投降の意思確認のため、旗の方向へ前進しました。[2-1]
しかし、隠れていたアルゼンチン兵が第12小隊を攻撃。小隊長と下士官2名が戦死し、さらに多くの負傷者を生じました。戦闘の混乱で、友軍の降伏に気付かなかったアルゼンチン兵士達が、銃撃を再開させてしまったのです。[2-1] [3-1]
さらにグースグリーン上空にプカラ攻撃機も飛来。[2-1]
このプカラはA中隊の負傷者の搬送に向かっていた海兵隊のスカウト・ヘリコプターを撃墜し、さらに空挺大隊の兵士達をナパーム弾、ロケット弾、機関銃で攻撃しました。[2-1][4-1]
隊員は散開してプカラからの掃射をかわし、上空通過時には小銃で対抗。さらに空挺大隊に組み込まれていた海兵隊のブローパイプ対空ミサイル隊が迎撃を開始。[2-1][4-1]
http://www.3commandobrigade.com/viewtopic.php?f=57&t=4424
海兵隊のブローパイプ対空ミサイル。「ブローパイプ」とは「吹き矢」を意味する。
ブローパイプは命中するまで射手が目標を照準し続ける必要があり、SASやSBSに緊急配備されたスティンガーミサイルと比べ、扱いの難しい兵器です。[4-1]
それでもブローパイプは1機の撃墜に成功し、小銃による対空射撃でも1機を撃墜。さらにジェット推進のMB-339練習攻撃機も撃墜しています。[2-1] [4-1]
この空の勝利の後、D中隊は飛行場の制圧に成功。弾薬庫に火をつけ爆破しています。[2-1]
また昼ごろには機動部隊の霧も晴れ、待ちに待ったハリアーの航空支援も可能になりました。当初は2機出撃の予定でしたが、非番のポーク少佐も志願し計3機が出撃しています。[2-1][4-1]
臨時大隊長のキーブル少佐とFACのアーノルド大尉の指示のもと、最初の2機がグースグリーンに高度15~30mほどの低高度で接近。アルゼンチン軍の砲兵、対空砲陣地にBL755クラスター爆弾を投下します。続けてポーク少佐機が2インチロケット弾72発を、爆撃を免れた場所に発射。[2-1][4-1]
http://www.mirror.co.uk/news/world-news/falklands-war-30-years-on-882473
ロケット砲を発射するハリアー
機関砲に足止めされたC中隊は前進を再開し、アルゼンチン軍の立て籠もる学校に白燐敵弾を撃ちこんで同所を制圧。B中隊はグースグリーンの南側に回り込んでアルゼンチン軍の退路を遮断。D中隊も飛行場を制圧し、3つの中隊がグースグリーンの集落を包囲します。[2-1]
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Goose_Green
しかし第二空挺大隊側の弾薬と食糧が底をついており、さらにグースグリーンに残る民間人を懸念し前進をストップ。アルゼンチン側も逆襲に出ることはなく、夜には戦闘が終結しました。[2-1]
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Goose_Green
戦闘終結時の布陣
28日の夜、グースグリーンには1500名以上のアルゼンチン陸軍および空軍兵士が立てこもっていました。さらに弾薬も残されており、スタンレーからはアルゼンチン軍の増援部隊がグースグリーンに向かっていました。しかしハリアーの攻撃に兵士達は意気消沈。士気は回復できずにいたようです。[2-1][4-1]
第二空挺大隊のキーブル少佐はアルゼンチン軍に降伏を呼びかけますが、昼の白旗の失敗もありましたから、英軍兵士の代わりに捕虜に委任状をもたせ、グースグリーンに送っています。[2-1] [3-1] [4-1]
そして29日の朝9時30分、連隊長のヒアッピ中佐、空軍のコモドール中佐は、第二空挺大隊のキーブル少佐と面会し、降伏に合意。アルゼンチン兵士達は銃を捨て、イギリス軍に投降しました。[2-1][3-1]
http://www.paradata.org.uk/content/goose-green
放棄されたアルゼンチン軍の銃器
この戦いでイギリス軍はジョーンズ大隊長ら17名が戦死し、31名ないし37名が負傷。一方アルゼンチン軍兵士の戦死者は55名となっていますが、当時の報道では日が進むに連れ100名、150名に増えるなど、実際よりも過大に発表されたようです。民間人114名は全員が無事に解放されました。[2-1][5-1]
http://www.iwm.org.uk/collections/item/object/205195272
空挺大隊の埋葬の様子。後に改葬された。
なおイギリス政府は勝利を宣伝したものの、アルゼンチンのマスメディアは「イギリス兵は無抵抗の兵士を殺した」と非難。[5-1]
するとイギリスも「アルゼンチン兵は白旗を掲げた後に撃ってきた」と反論し、拘束されて尋問された住民や、家を荒らされた住民の証言を取り挙げています。その結果、両国民の対立を深める事態になりました。[5-1]
http://imgur.com/gallery/E7XMY
雪が積もったアルゼンチン兵士の死体。
また作戦の意義についても「単なる空挺隊の点数稼ぎ」という報道もなされていますが、戦死したジョーンズ大隊長については、死後にビクトリア十字章を与えられ、特別の記念碑も建立されています。彼は半ば英雄として扱われ、失敗はうやむやにされています。(後の戦史では批判されているようですが。)[1-1][3-1][5-1]
こうしてイギリスの勝利に終わったグースグリーンの戦いでしたが、同時期にはスタンレーへの徒歩前進も始まっていました。暦も6月に突入し、戦いもいよいよ大詰めとなります。
http://www.taringa.net/posts/noticias/16205719/Malvinas-Heroe-iconico-de-Goose-Green-se-mata.html
グースグリーンの戦い後の第二空挺大隊兵士。
出典
[1-1]フォークランド戦争史 P276~278
[2-1]The Falkland Islands Campaignより 27/28 May 1982 Goose Green - The first major land victory
[3-1]サッチャー回顧録上巻 P290
[4-1] 空戦フォークランド P188~192
[5-1]フォークランド紛争の内幕P178~180
参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争 鉄の女の誤算 (サンデー・タイムズ特報部 ISBN-562-01374-5 1983年10月20日)フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
thinkdefence.co.ukよりタグfalkland
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コメント
あと、プカラに襲われた2機のスカウトのうち1機は回避機動で振り切ったという話もあるとか。
空挺部隊の指揮官になるくらいだから優秀な人間だったんだろうけど、実戦ではどうなるかわからないものだね。
そんな混乱の中でも数的に優勢な相手にしっかりと勝利するのはさすがブリテン軍人といったところか
そして最後のおっさんの笑顔がステキだw
しかしいちいちボルト引きながらの射撃でどれほど効果があったのか
現代の小銃ではどのくらいのスピードまで対応できるのか
シェルショックの症例について調べてまいりました。
wikipediaの戦闘ストレス反応の記事では、
症例として「攻撃行動の衝動」が挙げられているようです。
大隊長も知らず知らずのうちに
戦場の狂気に飲まれてしまったのでしょうか。
2様
ベレー帽を被っての戦闘は事実なのか、
それとも絵画表現なのか不明な点もありますので、
一応注意をお願いします。
誤字様
私見ですが、ジョーンズ大隊長の死で
混乱が収まったのでは...なんて。
4様
私も笑顔に惹かれました。
5様
小隊全員で全力射撃をした場合
銃弾の発射総数は軽機関銃に匹敵するそうです。
相手がこちらに気づいておらず、さらに低空を周回していれば
攻撃のチャンスはかなりあると思います。
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