第49回 連載「フォークランド紛争小咄」パート19
サットン作戦とトルネード作戦 後編
文:nona
サンカルロス湾防衛の要所、ファニング岬の確保に成功したイギリス軍は、次々と夜のサンカルロス湾へ侵入します。
http://imgur.com/gallery/cWVrv
イギリス軍の上陸
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サンカルロス湾に最初に侵入した艦は12M型フリゲートのプリマス、その後ろに上陸部隊の旗艦イントレピッド、その同型艦フィアレス、そして民間徴用船ノーランドが続きます。[1-1]
イントレピッドは空の上陸用舟艇を発進させ、ノーランドに乗る第2空挺大隊の上陸を支援。フィアレスでは海兵隊第40コマンド大隊が直接舟艇に乗り込みます。揚陸艦と舟艇は夜間の灯火管制と無線封鎖がなされていましたが、事前の訓練に訓練はされておらず、合同に時間を要しています。
http://hmvf.co.uk/forumvb/album.php?albumid=65&attachmentid=18781
フィアレスのウェルドック。
https://www.pinterest.com/pin/85427724153772889/
フェイスペイントを施す海兵隊員
夜間の上陸作戦の経験がないのは兵士達も同様でした。彼らは武装状態のまま、貨物で狭くなった船を通り、舷側から不安定な縄梯子で約3メートル下のLCUに移乗することを強いられています。結局上陸時刻は予定の2時30分から1時間近く遅延。後続の部隊はさらに遅れることになりました。[1-1]
ただ上陸直前の彼らの中には「タクシー待ち」するような雰囲気で「紅茶や心愛を飲みながら談笑して待っていた」姿も記録されています。第二次世界大戦で何度も行われた敵前への上陸と比べれば、平穏な夜間上陸には心の余裕がありました。[2-1]
http://www.thinkdefence.co.uk/2014/06/story-fres-eighties/
シミター軽戦車を乗せたMk9型LCV。
http://fdra-malvinas.blogspot.jp/2013/05/ataque-britanico-desembarco-en-san.html
舟艇内で朝日を浴びる兵士たち。
http://www.britlink.org/wp-content/uploads/2015/02/San-Carlos-landings-e1424796864279.jpg
次々と上陸する兵士たち。
http://www.thinkdefence.co.uk/2013/07/ship-to-shore-logistics-03-history-1982-falkland-islands/
Mexefloatで陸を目指す兵士たち。
http://www.iwm.org.uk/collections/item/object/205095906
湾内へ続々と侵入する上陸部隊
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2077813/Falkland-Islands-Prince-Harry-captured-600-soldiers-killed--imagined-Dominic-Sandbrook.html
一月半ぶりにフォークランドに翻るユニオンジャック
上陸した初のイギリス部隊となった第二空挺大隊は、8キロメートル先の標高270mのサセックス山へ向け行軍。続く第三海兵コマンド大隊も標高240メートルのヴァード山に駆け上がります。彼らの目的は稜線に防御陣地を築くことでした。[1-1][3-1]
さらにサンカルロス湾内のエイジャックスベイに上陸した部隊は、同地で一番大きい建物である鯨体処理工場跡を接収。後に野戦病院としています。[3-1]
http://www.thinkdefence.co.uk/2013/07/ship-to-shore-logistics-03-history-1982-falkland-islands/
エイジャックスベイの鯨体処理工場跡
この怒涛の上陸は、ポートサンカルロスに駐屯していた42名の鷲分遣隊の知るところとなります。[1-1]
指揮官のエステバン中尉はフォークランドの夜明け直前の8時10分ごろ、イギリス軍が上陸していることを認識。さらにイギリス兵が自身の部隊に近づいてくることに気付きます。彼らはイントレピッドの第三空挺大隊でした。
エステバン中尉はグースグリーンの連隊本部へこの危機を報告、さらに航空機による対地攻撃を要請すると、部下を率いて東へ離脱します。[1-1]
http://fdra-malvinas.blogspot.jp/2013/05/ataque-britanico-desembarco-en-san.html
イギリス軍は5月21日中に3個海兵コマンド大隊、2個空挺大隊とその支援部隊計3000名を上陸させた。一方上陸に気付いたアルゼンチン分遣隊の42名は東に脱出している。
ただ彼らが逃げ去ったことはポートサンカルロスの住民に知られており、島民達は白いハンカチを振りながらイギリス兵に近付き、これを伝えました。鷲分遣隊も追撃は時間の問題と考えていたようです。[3-1]
そして東へ逃げる鷲分遣隊の後方からシーキングとガゼル、2機のヘリコプターが現れます。シーキングは第三空挺大隊へ迫撃砲弾を輸送中で、ガゼルはその護衛役。2機とも鷲分遣隊に関する警告は受けておらず、アルゼンチン兵が近くにいることに気付いていませんでした。[1-1] [3-1]
http://www.ambuscade.org.uk/am_sea_ops_RAS.htm
貨物のVERTREP(垂直移送)に従事するシーキング
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1360192/Royal-Marine-won-Distinguished-Flying-Medal-awarded-sell-38-year-career.html
武装が施されたガゼル
この2機は偶然にも鷲分遣隊の近くを通りすぎ、彼らの前方で旋回をはじめます。この機動の原因は目的地の誤って飛び越し、それに気付いたためのUターンでしたが、鷲分遣隊はイギリス軍に包囲されつつあると勘違い。やむなくシーキングとガゼルに銃撃しています。[1-1]
突然の攻撃に驚いたシーキングは迫撃砲弾を捨てて撤退、ガゼルは反撃する間もなく海上に不時着しました。[1-1]
そこでエステバン中尉は射撃中止を命じますが、兵士の中に命令の聞こえない者や興奮し射撃を続ける者があり、海に浮かんでいた2名のガゼル搭乗員を攻撃。その1発がエヴァンス軍曹に命中しました。戦闘後に島民がボートで救助していますが、彼は間もなく死亡しています。[1-1][3-1]
アルゼンチン軍の兵士は徴兵されて間もなく、訓練期間は1カ月半。ジュネーブ条約について何も教育を受けていませんでした。[1-1]
http://www.ukserials.com/losses-1982.htm
引き揚げられたガゼルの残骸
なおも逃走(闘争?)を続ける鷲分遣隊は8時35分に別のガゼルを発見。先と同じく輸送ヘリを護衛するために先行していたガゼルでしたが、これも銃撃で撃ち落としています。ガゼルは地上に落下死、乗員のフランシス中尉とギフィン伍長は死亡しました。このガゼルは無線機が不調で情報共有を十分できなかった、とされています。[3-1]
しかし情報の不足は本部も同じ。またしてもガゼルが鷲分遣隊の射程圏に入ってしまい、12発を被弾しています。
幸いこの機は離脱に成功し、簡易な修理で復帰しています。[1-1][3-1]
「鷲分遣隊」の兵士のほとんどが新兵であるにもかかわらず、イギリス軍は短期間に不意打ちで2機のガゼルを失うことになりました。
思わぬ伏兵にイギリス軍はガゼルによる追撃を中止し、かわりに地上の第3空挺大隊がこれを引き継ぎます。第3空挺大隊にA中隊とC中隊による鷲分遣隊の掃討を命ぜられました。[1-1]
すると、早速A中隊はすぐに敵と思しき集団を発見。射撃で足止めしつつ、本部に火力支援を要請します。一方のC中隊は敵と思しき集団から銃撃を受け、彼らも火力支援を要請しました。[1-1]
しかし、暫くして両中隊に榴弾砲・迫撃砲の砲弾が落下、C中隊には上陸したての2両のシミター装甲車の30mm機関砲も撃ち込まれていました。
お気づきかとはおもいますが、実はA中隊とC中隊は互い敵と勘違いし、大隊本部も双方への砲撃要請をそのまま受諾していたのです。[1-1]
シミター軽戦車。武装は30mm機関砲、装甲はアルミ合金製、乗員は3名。
http://www.thinkdefence.co.uk/2014/06/story-fres-eighties/
第三空挺大隊司令のパイク中佐は途中で同士討ちに気付き、射撃中止命令を出しますが、すでに多くの死傷者が出ていました。この悲惨な同士討ちの被害は英語版wikipediaによると「5名が死亡し3名が負傷」とのこと。[1-1][4-1]
ただ上陸作戦における誤射はつきもので、第二次世界大戦中の1943年、北太平洋のキスカ島でも連合軍による同士討ちが記録されています。同島の日本軍は鷲分遣隊と同じく、そうと悟られないように島からの脱出に成功した為、後から別々に上陸したアメリカとカナダの連合軍は互いが的であると誤認したのです。[6-1]
この誤射騒ぎの後、シミターだけはまだ追撃が可能で、員は出撃を心待ちにしていました。ところが追撃は命ぜられませんでした。フォークランドの泥炭の軟弱地は4輪駆動車ですら軽貨でなければスタックするそうで、重量8tほどの装軌車両であるシミターも例外ではない、と思われていました。[1-1]
こうして新兵ばかりの鷲分遣隊42名は、無傷のままイギリス空挺大隊を逃れ、4日間かけてアルゼンチン勢力下のダグラス入植地にたどり着きました。[1-1]
誤射騒ぎのために混沌とするサンカルロス湾のイギリス軍ですが、ここに一仕事を終えたSASも帰還する予定となっていました。[5-1]
SASの隊員達は事前の打ち合わせに従い、銃器手入れ用の白フランネルを頭に巻き、友軍の目印としていました。ところが、この識別法が末端まで伝わっていない可能性も考えられました。[5-1]
そこで、わずか不安を減らせるようにと、サンカルロスに上陸した空挺部隊の出身であるケイン隊員(紛争中にトナカイを狩りをしていた人)が隊列の先頭をいくことに。[5-1]
イギリス軍最精鋭とされるSASといえども、誤射されずに自軍の勢力圏に入ることは、容易でないと認識していました。[5-1]
塹壕に隠れサンカルロス湾を守る兵士。(恐らく撮影用のポーズ)
https://www.pinterest.com/pin/383298618264405144/
幸いSAS通過の通知は問題なく行き届いており、誤射もなく無事に迎え入れてもらえました。[3-1][5-1]
ようやく帰還したSASの隊員はイントレピッドへ帰還する間ヘリコプターを待ちながら、紅茶とビスケットを口にしつつ、空挺部隊の兵士達と歓談をはじめます。数々の武勇伝を語りたいSASでしたが、彼らは作戦の全貌を知らされていなかったため、起きた出来事をうまく説明できなかったそうです。[5-1]
しかし、この和気あいあいとした雰囲気はすぐに破られました。
サンカルロス湾にアルゼンチン本土からやってきた攻撃機が侵入し、艦艇から対空ミサイルと銃撃による反撃が開始。以降3日間にわたる、凄まじいサンカルロス攻防戦の始まりでした。
https://www.pinterest.com/pin/63472675976818570/[1-1]フォークランド紛争史P252~256
出典
[3-1]The Falkland Islands CampaignよりThe British Task Force lands at San Carlos
[2-1]フォークランド紛争の内幕P165~170
[4-1]en.wikipedia List of friendly fire
[5-1]SASセキュリティ・ハンドブック P28~30
[6-1]Canadian Soldiers.com Operation Cottage
参考
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル・カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
「島嶼問題をめぐる外交と戦いの歴史的考察」(防衛省防衛研究所 2015年11月1日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
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コメント
徴兵してわずか1ヶ月半の新兵を最前線に投入していたとは・・・。
アルゼンチン軍事政権は全く無計画に戦争を始めてしまったのでしょうかね。
そういえば、フォークランドを占領したアルゼンチン海兵隊員がFN FALのトリガーに指を掛けたまま隣の兵士を銃口でつついて何事か話しかけているニュース映像を見て練度の低さに呆れたのを思い出しました。
それ入れなくても空軍の基地ごとの連携不足とか色々あったとはいえ
島嶼奪還は、現在の日本自衛隊にとって重要な任務となっているので、フォークランドの戦訓はとても参考になると思います。
それにしても、我が海自の揚陸能力では甚だ心細いのですが。
キラキラネームかっ!www
※7
あなたの心には『ぴょんぴょん』が足りないようだ。
そんなのないよ(誤射)
ありえない(同士討ち)
この後も何度か誤射が4件ほど発生しますが、
教訓として残すため、戦後に詳しく原因究明がなされています。
ただ6月6日のヘリコプター誤射事件については
アルゼンチン軍によるものとして調査が遅れてしまい
(マスメディアは国防相の隠蔽として非難しています)
戦後に係争のタネに...
2様
アルゼンチン軍では初めはまともな計画を練っていましたが
政治的な事情で実施を半年近く早めてしまい、
結果的に新兵を投入せざるを得なかったようです。
3様
ユーモアを感じるエピソードですね、ペスト患者収容所。
ただアルゼンチンの鷲分遣隊は、罠を仕掛けるどころか、
自軍の痕跡を処分できずに逃げたため
イギリス側に利することになったようです。
名無しのミリヲタ(40年もの)様
「紛争中に一度もガゼルの武装が使われていない」
日本語版wikipediaの記述でしたか(?)
あいまいな話で申し訳ないですが、
「フォークランド紛争史」では、21日の一件でガゼルの運用法が見直された、
という記録を紹介しています。
アルゼンチンは特にチリを警戒していたようです。
両国はフォークランド紛争以前から領地をめぐる対立が続いており
チリがイギリス側で参戦する可能性もありました。
ただし、イギリスは紛争が南米大陸に飛び火することを懸念し、
(表面上は)チリと距離を置いていました。
先任伍長様
当時のイギリス軍の上陸部隊も割と貧弱なものでしたが、
陽動と主力部隊の隠密によって不足を補っています。
自衛隊も戦力がないなりの戦い方を試みる(はず)
7様
申し訳ありません、変換ミスですね。
ところで英軍の喫茶習慣ですが
現地の当時のレーションでは紅茶・珈琲と少量のココアなど
一日あたり6抹も支給していました。
単純な娯楽というよりは
合理的な意味付けもあるようです。
名無しの対艦誘導弾様
皆さんがおっしゃっることが
恥ずかしながら解らなかったので
調べてまいりました。
...ごち◯さ?
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