第46回 イベントレポート
習志野空挺館(2月13日)&第一空挺団降下始め(1月10日)

文:nona

 去る2016年2月、千葉県の習志野駐屯地内の空挺館の見学に参りました。本記事の後半からは1月に実施された第1空挺団降下初めも合わせて紹介いたします。

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 まずは目的地最寄りの船橋市・薬円台駅からの1枚。中央の鉄塔は習志野駐屯地のパラシュート降下用の訓練塔です。習志野駐屯地は第一空挺団や特殊作戦群の所在地として知られる特殊部隊のメッカ。今回見学する空挺館も駐屯地内にあります。

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 駐屯地の正面口。反対派のみなさんがシュプレヒコール中でした。

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 駐屯地内

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 大隊長専用の駐輪スタンド

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 軍馬慰霊碑と軍人勅諭下賜の記念碑。軍馬慰霊碑には日露戦争で活躍した秋山好古の言葉が残されています。

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 目的の空挺館です。かつて「御馬見所」とも呼ばれ、当時は騎兵学生終業式における臨幸の場として、あるいは高官や外賓用の施設として使用されていました。現在は「空挺館」に名称を変え旧軍の騎兵、陸海軍の落下傘部隊、自衛隊の第1空挺団のゆかりの品を展示する資料館となっています。[1]

 かつては東京・目黒に建っていましたが、1916年の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い「御馬見所」も分解され、習志野で再建されました。 [1]

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 九四式37mm砲。ノモンハンの戦いから太平洋戦争の終結まで対戦車砲として使用されました。今回の見学会で空挺館を案内してくださった横田2曹によると、本砲は海軍陸戦隊が運用していたもので、戦後に海外から寄贈された品とのことです。

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 第一空挺団で使用していた105mm榴弾砲。

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 ここからは館内の写真です。空挺館1階は自衛隊関係の所蔵品が展示されています。

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 1963年製の試作口径7.62mm小銃Ⅲ型。64式小銃とは細部が異なる(?)

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 1968年3月に豊和工業で製造されたAR-18小銃。

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 空挺団で使用される部隊章。通信中隊はなんとなくハリウッド風。

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 千葉県船橋市の非公認マスコットキャラクター「ふなっしー」。

 実は習志野駐屯地の本当の所在は船橋市です。ただ駐屯地や演習場の一帯を広く習志野と呼んだ時代もあるようです。

 この「習志野」という地名ですが薩摩藩士・篠原国幹少将に由来する、という説もあります。彼は1873年に大和田原(現習志野)で、薩摩・長州・土佐の藩兵1万人で2日がかりの大演習を実施。豪雨の中実施された演習に明治天皇も感銘を受け、「篠原を見習うように」との言葉を残しました(真偽は不明)。[2]

 明治天皇からも一目置かれていたとされる篠原少将でしたが、西南戦争では同郷の西郷隆盛を慕い反乱軍として参加、熊本の戦いで戦死してしまいました。しかし明治天皇の言葉は残り、故地は「見習篠原」と呼ばれるようになり、やがて現在の「習志野」となった、とのことです。(本当かなぁ) [2]

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 こちらは「刃牙」シリーズでお馴染み、漫画家板垣恵介氏の紹介コーナー。板垣氏は20歳の時に自衛隊に入隊し、この時の経験が現在の創作活動に強烈な影響を与えているようです。館内には板垣氏の空挺訓練生時代を描いた自伝漫画も掲載されていました。

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(絶対にマネしないでください)
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 東日本大震災で使用されたデュポンのタイベックスーツ。横田2曹によると「当初の価格は1万円したが、震災の需要増で大量生産され3千円台に値下がりした。」とのこと。今はさらに値下がりし、インターネットでも購入できます

 ただし生地は薄く破れやすく、横田2曹によると「生地が破れた時はヘルメットに予め貼り付けておいたガムテープで塞いだ」「破れそうな場所にはあらかじめテーピングしていた」など、2011年を振り返って壮絶な話をされていました。

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 2階の謁見の間。天皇家以外の皇族も天皇陛下と同席できるように、と花弁を1枚減らした菊紋が飾られています。平民にはよくわからない配慮。

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 そんな格式の高い旧御馬見所も進駐軍に接収された時期もありました。当時の名残として天井裏に残されたビールの空き缶が展示されています。専用のオープナーで飲み口と空気穴を開けル必要がある、現代の缶ビールより2世代ほど古い型のようです。

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 九九式短小銃と九四式拳銃。どちらも太平洋戦争時の空挺作戦で使用されました。横田2曹によると、九九式短小銃の木製部分のみ実物とのこと。九四式拳銃は完全なモデルガンですが、スーサイド・ナンブの機構がよく再現されているそうです。

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 二式小銃。テラ銃とも。九九式短小銃をベースに、2つに分解してコンパクトに収納できる特殊小銃です。パレンバンの降下作戦には間に合わず、実戦は1944年11月のレイテ作戦から。

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 九九式破甲爆雷。通称「カメ地雷」。装甲車両に貼り付けて使用する爆弾です。大きな手榴弾としても使えないことはないようですが。

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 1942年にティモール島クパンの空挺作戦で鹵獲された装甲車。

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 1942年のスマトラ島・パレンバン作戦に臨むにあたり、髑髏を書き込んだ長谷部小隊の旗。

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1945年の沖縄・義号作戦参加者の遺書。  

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 ウラヌス号で車を飛び越える「バロン西」こと西竹一。日本陸軍騎兵科の士官でロサンゼルスオリンピックの馬術競技の金メダリストです。[1-2]

 第一次世界大戦後の1923年、戦車隊や飛行隊創設のしわ寄せを受け、全ての騎兵連隊は1個中隊ずつの解隊を迫られていました。軍事的には無用になりつつあった騎兵でしたが、平和なスポーツとして馬術は大いに盛り上がります。習志野の騎兵学校で開催された乗馬会も日本各地の愛好家が集まりました。さながら選手権大会となったそうで、西竹一を見いだすきっかけになった、とも言われます。[1-2]

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 しかし平和はつかの間のもの。西竹一も戦車兵に転科し第二十六戦車連隊長として硫黄島で戦死しています。このあたりは映画「硫黄島からの手紙」でも取り挙げられています。

 ここからは2016年1月に習志野演習場で行われた空挺降下初めの写真です

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 今年の演習は2013年から続く離島奪還シナリオ。内容は例年どおりで、アナウンスで呼ばれる護衛艦の艦名まで昨年と一緒。

 ただし今年はOH-1・OH-6・UH-60JAの参加はなし、13式落下傘の降下展示もありませんでした。696MI落下傘では密集降下ができないそうで、降下展示も少し地味でした。CH-47は例年通り頑張っていました。

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 代わりに展示されていた機動戦闘車の試作車。無告知だったのでそのまま帰ってしまった人も大勢いたようですが…


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 背面。銘板によると本車の車輌名は「試作その4」。

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 隙間だらけの砲塔側部。空間装甲でしょうか。

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 タイヤはブリヂストン製V-STEEL W978型。

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 車体底部。


 最後におまけの1枚

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 フォトレタッチソフトで作った「装甲機動戦闘車」。89式装甲戦闘車に機動戦闘車の砲塔を被せて制作。CV90105みたいになりました。


参考
[1]千葉県の戦争遺跡をあるく―戦跡ガイド&マップ P51~53(千葉県歴史教育者協議会 2004年8月25日 ISBN4-336-04648-4)
[2]陸上自衛隊第1空挺団 イベント情報

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