第44回 連載「フォークランド紛争小咄」パート18
フォークランド紛争に学ぶイギリスの戦争報道・前編
文:nona
次回パート19ではフォークランド紛争の転換期である「サンカルロス上陸作戦」をテーマとなる予定ですが、その前にパート18前後編では、イギリス本国の「奇妙な」戦争報道の様相を紹介いたします。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1340166/I-counted-I-counted-BBC-reporter-Brian-Hanrahan-dies-aged-61.html
フォークランドに降り立つハンラハン記者(1949-2010)。サッチャー首相は彼を「優秀な記者」と評している。[7-1]
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フォークランド問題が紛争に発展した1982年4月、イギリス国防省対外広報局は報道統制を開始、「D-Notice(国防通知)」による検閲と、従軍取材の禁止を宣言しました。ただし従軍取材の禁止は「民間記者の安全確保」というよりは、「機密の流出を避け将兵の安全を守る」や「国民や諸外国が戦地のショッキングな写真や映像を見て、世論が反戦に傾斜しないよう制御する」という意図がありました。[1-1]
ところがイギリスは伝統的に報道の自由が強く、一方の政府や軍はマスメディアを押さえつける力がありません。イギリスは議会政治が発達していますが、それ故に報道統制ができる独裁権がないのです。「鉄の女」と言われたサッチャー首相も同様です。
今回のフォークランド紛争でも大手マスメディアは従軍取材の禁止に抗議。「報道関係者が首相官邸に対して仕掛けた最も暴力的なロビー工作」によって、ロイター通信と国内の有力紙数社、さらにBBCとITN(ニュース番組制作会社)の合同チームによるカメラ取材を認めざるを得ませんでした。[1-1]
それでも対外広報局は「D-Notice」を固持。問題のある記事は削除、検閲を免れた記事も数日遅れでの発表を余儀なくされました。1960年代末から70年代のベトナムではリアルタイムの戦争報道ができたにもかかわらず、フォークランドでは第二次世界大戦時のような報道を強いられたのです。[1-1]
さらに従軍記者たちにも「世話人」という名目で監視用の士官をつけていました。記者のへイスティングス氏は世話人達を指して「船から船へと無意味に渡り歩く漂流者」と批判しています。[1-1]
記者からは嫌われ者の世話人達でしたが、彼ら自身も軍と記者の間で板挟みに苦しんだようです。世話人達のほとんどは尉官であり、取材の許可権限を持っていません。記者の要望に答えたくとも、立場上それができなかったのです。
政府と軍は従軍記者達の行動を厳しく管理することで機密を守ろうとしました。しかし政府自身の口が緩かったようです。現場との連携ミスとマスメディアからの圧力もあって、政府自身が「馬鹿正直すぎる」と批判された公式発表が行われました。
その一例にイギリス艦船の損害発表があります。これ自体は第二次世界大戦からの伝統で、政府も軍も被害の隠蔽が大してメリットにならないことは承知していました。
http://h7.alamy.com/comp/E5GEGR/1941-sunday-mirror-new-york-front-page-reporting-the-sinking-of-royal-E5GEGR.jpg
巡洋戦艦フッドの沈没を伝えるサンデーミラー紙。「ナチス、フッドをグリーンランド近海に沈める。1300名が艦上で戦死。」乗員のほぼ全てが死亡していることも包み隠さず発表した。
しかしフォークランド紛争においては、アルゼンチンは単独での戦果確認ができず、イギリスの公式発表がその助けになっていたのです。駆逐艦シェフィールドの撃破時も、アルゼンチン軍による無線傍受だけでは実戦果が判明せず、パイロット達も5月4日の夜9時のBBCのニュースを待ち望んでいた、と証言しています。[2-1]
この日のBBCニュースではシェフィールドの被弾と、制御不能に陥ったことを惜しげも無く発表していますが、パート16記事でお伝えしたように「もし、イギリスが「シェフィールド」の損失を報道しなければ、アルゼンチンはおそらく、シュペルエタンダールに搭載したエクゾセミサイルはまだうまく機能しないと判断し、以後エクゾセミサイルを使用しなかった」との分析もなされています。[1-6]
さらにフォークランド紛争の後半では、爆弾が不発でも「不発だった」と政府は発表を続けていました。こちらもアルゼンチンに対策の余地を与えたのでは、と危惧する指摘がなされています。[5-1]
http://www.britmodeller.com/forums/index.php?/topic/46671-proposing-a-falklands-war-gb/page-3
アルゼンチン軍の減速装置付き航空爆弾「スネークアイ」。爆弾の落下時間を伸長し、爆弾を超低空で投下しても母機が爆風に巻き込まれないようにする機構。副次的に不発を減らす効果もある、とされる。
艦船の損害発表の問題に加え、5月26日グースグリーン・ダーウィンをめぐる戦いでは、現地の部隊の前進を待たずに、政府が作戦開始をBBCの国際放送で公表するハプニングもありました。すると直後に現地のアルゼンチン軍が増員を開始。アルゼンチン軍の行動は様々な情報を総合的に判断した結果によるものでしたが、イギリス現地部隊は政府とBBCのせいだ、と激怒しています。[1-3]
時として敵に利する情報でも発表するイギリス政府(とそれを望んだマスメディア)でしたが、現場にとっては不信感を抱かせるものでした。
政府公式発表もさることながら、民間マスメディアの憶測報道も問題になっていました。
前述の従軍取材の制限と国防省の検閲で多くのマスメディアは情報不足に陥っていました。その穴埋めとして軍事評論家や退役軍人、オフレコの「米軍情報」「NATO情報」による憶測報道をしていたのですが、国内外に誤ったメッセージを与えかねないものであったのです。[1-4]
的はずれな憶測報道の例として、「海上封鎖から2週間でアルゼンチンの物資は尽きる」というものがあります。これはタブロイド紙のザ・サンがアルゼンチンの兵力から計算したものですが、実際には空輸や(イギリス原潜が見逃していた小型船)によって少なからず物資や兵器が運ばれていました。[1-4]
一方の、真実に迫る内容として退役軍人の取材協力やテレビ出演が問題になったようです。[1-5]
彼ら退役軍人の「経験に裏打ちされた作戦立案における思考法を反映した分析は、戦争中の緊迫した状況の中、敵を利することになりかねない情報となり得る」とのことで、国防省はテレビ出演する退役軍人の恩給停止まで検討したようです。実際には退役軍人が取材協力をする前に国防省と事前協議で機密を守れたようですが。[1-5]
ところが情報の機密性が高い「米軍情報」「NATO情報」には難儀したようです。イギリス政府にとっての機密情報も、外国の軍人や外交官にとっては機密でも何でもなく、イギリス人記者にペラペラと話してしまうのです。しかも、イギリス政府の外からもたらされる情報のため「D-Notice」も適用できません。
こうした「米軍情報」「NATO情報」に基づくニュースですが、政府や軍が発表前に差し止める権利はありませんでした。結局は各メディアに良識があることを期待する他になかったのです。
後編に続く
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1340166/I-counted-I-counted-BBC-reporter-Brian-Hanrahan-dies-aged-61.html
フォークランド紛争を取材したBBC・ハンラハン記者のサイン。出典
[1-1]フォークランド戦争史 P60
[1-2]同 P58
[1-3]同 P62~63
[1-4]同 P61
[1-5]同 P65
[1-6]同 P189
[2-1]空戦フォークランドP79~80
[3-1]英国メディア史 P97~98
[4-1]現代の戦争報道 P19
[5-1]兵器ハンドブック P295~296
[6-1]サッチャー回顧録P270
参考書籍/WEBサイト
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦 (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々上巻 (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
兵器ハンドブック湾岸戦争・フォークランドマルビナス紛争 (三野正洋、深川孝之、二川正貴 ISBN 4-257-01060-6 1998年6月20日)
現代の戦争報道 (門奈直樹 ISBN 4-00-430881-X 2004年3月19日)
英国メディア史 (小林恭子 ISBN 978-4-12-110004-7 C1322 2011年11月10日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
「島嶼問題をめぐる外交と戦いの歴史的考察」(防衛省防衛研究所 2015年11月1日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)
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コメント
こっちの場合尚更良識に期待できんし
日本のメディアにそこまでの正義感や実際の戦場に随行する行動力があるのかなあ
毎回楽しみにしております。今回のテーマが戦争報道とは予想外でした。随分と「急降下爆撃」ですね。
民主主義国家における戦時報道は機密保持と知る権利との相克で、とても難しくデリケートである問題ですね。
民主主義の成熟した英国ですら、軍事的当否より政治的な都合で情報開示がなされたことを再認識致しました。
戦時における報道統制は我が国の「大本営発表」が悪名高いですが、軍事的な理由による情報統制は米英でも普通に行われています。しかし戦後には事実を明らかにすることによって、その当否を事後的に検証できるようにしています。
今回の「急降下爆撃」で、nona様の労作に厚みが加わりました。
今後にも期待しております。
「損害は正直に発表する」
イギリス側の本来なら理想的な考えもアルゼンチン側が上手に利用したが為に非難される羽目になるとは誰が予想したでしょう。
敵と戦う状況になったら最初に彼らを処断しないと日本は負けます
ただ徴兵制を敷く国家では国民と国家の関係上少しは正当化の余地があると思われます。
しかし今では動画サイトなどに現地から直送された動画ご毎日アップロードされる時代となりましたから、当時と現代の社会の仕組みを比較した場合の激変ぶりに驚きますね、20年前に流血描写のある映画などの規制議論は今日のライブリークなど無国籍とも言える情報爆発とその後の社会に対して先見の明が無く、無意味な議論だったのでしょう、聞くところによるとまだ冷戦中の当時、西側であるという理由のみで英国内の左寄りの新聞や日本の有名紙などは根拠のない英軍叩きや感情論的な理由で紛れもない侵略者側で加害者であるアルゼンチンを擁護するという事態が頻発したようですね。
少なくとも職業軍人のプロが務める日本国ではこのような報道は許されないし、外国人が入り込む余地が大きい日本国の報道機関は、普段から軍事機密に近づけてはいけません、そして戦時に入ると決まった時点で停波して然るべきだと私は主張します。少なくとも中華民国や韓国には同様の内容で戦時報道規制を定めた法律がありますが、北朝鮮と中華人民共和国にはそもそも平時から大本営発表のみですから、ある意味首都などが占領されない限り配線に気付かない民衆もいるでしょう。私は国防によって保たれる平時によって成り立つ「報道の自由」という言葉は戦時には絶対に成り立たない理屈であり、自国民全員の運命を左右するような記者には関係者全員への連座制による極刑以上の罰則を事前に提示する事により、自然なよくしが可能だと思う次第。
ありがとうございます!
前後編はまとめて掲載したほうがいいんでしょうか?
2様
どうなんでしょう?
3様
確かに今もマスメディアと政府の駆け引きは続いています
17世紀のイギリス清教徒革命からの伝統のようですが
4様
トップ画像の彼は
BBCのブライアン・ハンラハン記者
1989年にはベルリンの壁崩壊の発端となる
東独の出国緩和の会見をその場で取材した一人、とのことです
さらに天安門事件、ソ連崩壊、香港返還...
を取材した大人物でもあります(この人実は黒幕なんじゃ...)
故人であることは残念で仕方ありません
先任伍長様
以前からこのネタは書きたいと温めておりました
以前リクエストなされた「政治」の記事は難しいのですが
「外交」にフォーカスしたものであれば
可能かと思います
6様
ありがとうございます!
7様
難しい問題なので、コメントは差し控えます
すみません!
8様
後編でBBC役員が英国議会に喚問される話をとり挙げますが、
後の世論調査で中立報道の支持率の高さが証明されたそうで
中立報道もそのままだったりします
9様
申し訳ありません!
日本の戦時法制については...専門外で...
10様
一応米英あたりは自国兵の情報発信に
気をつかっているようで
公表前にチェックが入るようです
位置バレはもちろん
視聴者を厭戦・反戦気分にさせないために
「死」が映らないようカットされています
一種のプロパガンダと言えるでしょう
...まあLiveleakあたりで本物が流れますが
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