第39回 連載「フォークランド紛争小咄」パート16
炎上するシェフィールド 後編

文:nona

 時速1100kmのスピードで、500kgの重量を保ったままシェフィールドに突っ込んだエグゾセ。この被弾でシェフィールドの設計上の多くの欠陥によって、弾頭が不発であったにもかかわらず、悲劇的な最期を迎えています。

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http://www.naval.com.br/blog/wp-content/uploads/2013/05/The-Sheffield-Demise-DPA.jpg

 時速1100kmのスピードで500kgの重量を保ったまま突っ込んできたエグゾセは、シェフィールドの船体右舷外板を貫き艦内30フィート(9m)へ侵入。調理室にいた5名乗員が即死しています。[1][2]

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https://en.wikipedia.org/wiki/Exocet#/media/File:Exocet_imapct.jpg
エグゾセ被弾の瞬間(イメージ)

 165kgの弾頭は不発でしたが、ミサイルが残した燃料によって火災が発生。炎は周囲の可燃性の備品や器具に燃え移り、開け放されたままの水密扉を経由して艦内中に拡大していきます。

 この着弾の衝撃で消火用ポンプと電源を喪失。船体後部の予備の電源とポンプは着弾直後こそ健在でしたが、電線と給水パイプがエグゾセによって破壊されたのか、乗員たちに始動させる余裕がなかったのか、結局役立たせることはできませんでした。

 シェフィールドの乗員ができることといえば「bucket-chain」(バケツリレー)程度。被害をうけなかった左舷側から必死に消火に努めましたが、配線の被覆材に使用されたプラスチック材が発火し、艦内中が毒性の煙に包まれ、火災も全く手のつけられない状態になります。火事場と上甲板を行き来したブリッグス上等兵曹も行方不明となっています。[1] [2] [3]

 さらに通信機能も失われてしまい、救助を呼ぶこともできずにいました。 するとたまたま火災を目撃したシーキングの乗員がシェフィールドのおかれた状況を判断し、周囲の艦に危機を通報しています。[1] [2]

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http://www.naval.com.br/blog/wp-content/uploads/2013/05/The-Sheffield-Demise-DPA.jpg
艦首に乗組員が集まるシェフィールド。誤射を避けるため艦橋に英国旗が貼り付け貼られていた。

 負傷者を含む乗員の多くは上甲板で救助を待っていましたが、この危機的な状況にあって救助を待つウッド中尉らでモンティ・パイソンの「Always Look On The Bright Side Of Life」を合唱。乗員たちは互いを歌で励ましたのです。(和訳歌詞付きの動画はこちら

 被弾40分後、シーダート対空ミサイルの弾倉への誘爆の危険から、ソルト艦長が艦外への避難を決定。負傷者24名を含む242名の乗組員が駆けつけた僚艦、ヘリコプター、ボートで脱出します。しかし20名の死者のうち、19名の遺体が行方不明のまま艦に残されました。[2]

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http://www.maritimequest.com/daily_event_archive/2008/05_may/04_hms_sheffield_d80.htm
僚艦から放水されるシェフィールド。


 この思いもよらぬエグゾセの攻撃について、ハーミーズ艦上の機動部隊司令官ウッドワード少将は第1報で「被雷と思われる。水上または航空活動はなかった」見当はずれな報告を本国へ送信していました(2時間後に訂正)。[1]

 こうした誤解の原因の一つに5月3日の合同情報委員会JICの報告がありました。JICいわく「エクゾセの作戦上の能力は多少落ちたと考えられる理由がある。それは、フランスの技術者がエクゾセミサイルをシュペルエタンダールに装備する作業を中断したためである」と報告しています。これはイギリスの圧力によるものでした。[1]

 もちろんJICはエグゾセ攻撃の可能性を0%と言い切ることはありませんでしたが、その母機であるシュペルエタンダールの実戦での行動は一度も確認されていませんでした。そのため機動部隊はエグゾセの攻撃はまずないもの、と誤解していました。 [1]

 一方のアルゼンチン側のエグゾセ攻撃が5月4日までなかったのは、単に作戦が延期されていたというだけでした。4月の下旬には5機のシュペルエタンダールにエグゾセ搭載能力を与えています。フランス人技術者はイギリスの圧力で帰国させられていましたが、仏語のマニュアルはそっくり残していったそうで、技術者達はこれを翻訳し、エグゾセを運用可能にしていました。[2]

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http://www.taringa.net/posts/info/969460/Aviones-combatientes-de-Malvinas-A4Q-y-Super-
シュペルエタンダールへエグゾセを装着するアルゼンチン軍


 こうしてイギリス側に大打撃を与えたアルゼンチンでしたが、直接の戦果確認はできず、イギリスの通信の様子から間接的に戦果の推測を試みています。するとその日の夜、BBCがシェフィールドの被弾と制御不能になっていることをテレビで発表。アルゼンチンが知りたかった情報をイギリス自身が公開したのです。[2]

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https://www.youtube.com/watch?v=7miDyKI_xc0
シェフィールドの被弾を伝える、イギリス国防省のマクドナルド報道官

 戦争研究者のジェームズ・コラム博士は「もし、イギリスが「シェフィールド」の損失を報道しなければ、アルゼンチンはおそらく、シュペルエタンダールに搭載したエクゾセミサイルはまだうまく機能しないと判断し、以後エクゾセミサイルを使用しなかった」と分析しています。[1]

 一方でサッチャー首相は、アルゼンチン側に情報操作された報道をされないよう、早く真実を(特に犠牲者の遺族に)伝えたい、との意向で公表を決定したそうです。[5]

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http://www.webcadets.com/forums/index.php?threads/ship-of-the-day.777/page-6
煙で黒ずむシェフィールド。3日間燃え続けた後、鎮火を待ってから曳行が開始された。

 このニュースはアルゼンチンを歓喜させるだけでなく、連戦連勝だったイギリスを外交的にも弱めました。欧州各国はイギリスに対する支持を弱め、国連事務総長とペルーが勧める和平案の拒絶もいっそう困難になります。[5]

 この機に乗じて自身の国際的な立場を高めるようと、調停に名乗りを上げる国もありました。突飛な例としてメキシコがガルチェリ大統領とサッチャー首相の会談を提案しますが、当然イギリスが拒否しています。[5]

 外交でイギリスの望む結果を得ることは非常に困難に思えましたが、それでも果てしなく交渉が続けられました。[5]

 シェフィールドの被弾から3日後、同艦を戦闘海域から脱出させるためフリゲート艦ヤーマスが曳行を開始。さらにアルゼンチン軍の目を逸らすためアラクリティがスタンレーを砲撃。航空攻撃に不向きな天気ということもあり、戦闘海域からの脱出に成功しています。[1][2]

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http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib/7/media-7784/large.jpg?action=d&cat=photographs
ヤーマスに曳航され、フォークランドを離れるシェフィールド。

 簡易的な事後調査も行われ、エグゾセが不発が不発だったこと、にもかかわらず被害が拡大した原因が分析されました。

 まず、よく引き合いに出されるアルミ材による火災の拡大説ですが、「艦艇工学入門」によればアルミ素材の通風トランクや仕切弁の溶解で延焼を早めたことを指摘しています。一方でシェフィールドの船体と上部構造は鋼鉄性のため、外形は保たれたままでした。[6][7]

 ところが被弾直後の分析でアルミニウムの船体が火災で溶解した。という誤解が広まっています。サッチャー首相は回顧録に「船体にあまりに大量のアルミが使われていたのだった」と記し、ニューヨーク・タイムズも同様に過剰にアルミ材の危険性を報じています(後に訂正)。アルミ材は火災で「燃える」とまで勘違いされたようで、行き過ぎたアルミ材危険説が欧米で拡がりました。[5][7]

 この行き過ぎた誤解は現代でも解消されず、アルミニウム船の製造を得意とするオースタル造船は、イギリスの白書を挙げて「There is no evidence that it (aluminium) has contributed to the loss of any vessel.」(アルミニウムが)艦の損失の原因となった証拠はない)と強調。もっともオースタルが設計する艦船では軽量化のため大量にアルミ材を使用していますから、火災に脆弱であることは否めません。[8]

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http://www.alfed.org.uk/files/Fact%20sheets/11-aluminium-and-fire.pdf
米LCSやスピアヘッド級高速輸送船などアルミニウム艦を製造するオースタルの広報資料。左下にイギリスの防衛白書が引用されている。

 シェフィールドでは合成樹脂のケーブルの燃焼による有害煙の問題、溶解しやすいアルミニウムの居住区仕切り、木材を使用した家具の多さも指摘されています。さらに1発の不発弾でダウンしてしまった消火システムと電源についても、配線配管の多重化による冗長化が求められました。[1][3][6]

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https://navalmatters.wordpress.com/tag/decommissioning/
2000年代の42型駆逐艦の艦長室。現在でも木材のままなのか、合成素材に代替されているのかは不明。


 ちなみに「海戦フォークランド」で有名な「被弾時にフライ料理がされていた」の話ですが、これは軍関係者の言及がないため、タブロイド紙の飛ばし記事とソースとした空言とみなす動きもあるようです。私が調べてみたところ、確かなソースはありませんでした。[9]

 ところが、たまたま発見した「The British Empire」というイギリスの歴史教師が開くサイトで調理用フライヤーからの発火を伝えていました。食用油火災の伝説はイギリスでも知られているようです。[10]

 そして明らかになったシェフィールド乗員の不手際の数々ですが、フィールドハウス海軍大将は「シェフィールド」の幹部を軍法会議にかけても得るものはない。「シェフィールド」の損失は「高価な警鐘であり、真のアルゼンチンの能力の前触れであった」と乗員を不問にする意向を示しています。 [2]

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https://navalmatters.wordpress.com/tag/decommissioning/
2000年代の42型駆逐艦の調理室。


 サウスジョージアへの曳航されるシェフィールドでしたが、5月10日に荒天でエグゾセの穴から海水が流入。均衡を崩して転覆し、行方不明の乗員の遺体を乗せて沈没しました。そして紛争後の1986年、イギリスでは過去の戦没した軍艦や航空機を墓地として保護する法律が成立。シェフィールドも戦争墓地に指定され、無許可の海底調査やサルベージから乗員の遺体を守りつつ海底で眠っています。[3] [11]

おまけ
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シェフィールドの沈没25年後に開かれた同窓会で、Always look on the bright side of lifeを合唱する元シェフィールド乗員達の動画(?)

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さらに沈没30年後、ロンドンオリンピックでパイソンズのエリック・アイドルが歌うAlways look on the bright side of life(エリックの登場は2:50ごろ)


出典
[1]フォークランド戦争史 P186,189,191~192
[2]空戦フォークランドP12,P76~80
[3]RAF RAH The Falkland Islands Campaign Air and naval actions between 2nd May and 16より
[4]https://web.archive.org/web/20110717050535/http://www.icons.org.uk/nom/nominations/always-look-on-the-bright-side-of-life
[5]サッチャー回顧録上巻 P273~275
[6]艦艇工学入門 P287~288
[7]New York Times ALUMINUM'S NOT TO BLAME FOR WARSHIP LOSS
[8]AUSTAL ALUMINIUM HULLSTRUCTURE
[9]海戦フォークランド P60
[10]The British Empire falklandswar.
[11]legislation.gov.uk 1986/35/contents


参考書籍/WEBサイト
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕  (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う  (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦  (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々 上巻  (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
艦艇工学入門 理論と実際(岡田幸和 ISBN 4-905551-62-5 1997年11月15日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
「島嶼問題をめぐる外交と戦いの歴史的考察」(防衛省防衛研究所 2015年11月1日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)