第37回 連載「フォークランド紛争小咄」パート15
幻の艦隊決戦 後編

文:nona

 コンカラーは5月2日11時、衛星通信でイギリス・ノースウッド海軍司令部と交信を開始。巡洋艦「へネラル・ベルグラノ」の排除区域外での攻撃許可を要請します。

 
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http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080490/Belgrano-Britain-WAS-right-sink-ship-attacked-Task-Force.html

 前日5月1日の「ベルグラノ」発見時、機動部隊の総司令ウッドワード少将が事前に危険を取り除くべく、排除水域外での撃沈を要請していましたが、「コンカラー」の指揮権を持つイギリス・ノースウッド海軍司令部のハーバート中将らによって攻撃許可を取り消されていたのです。[1]

 機動部隊の命を預かるウッドワードは一刻も早い「ベルグラノ」の撃沈を望んでいましたが、海軍司令部は排除海域外の「ベルグラノ」攻撃は時期尚早であり、サッチャー首相や閣僚への説明と交戦規定の改定が先と考えていました。[1]

 一度は不許可になった攻撃命令でしたが、5月2日の朝の閣僚会議をへて、改めて排除海域外の「ベルグラノ」の攻撃が許可されます。[1]

 排除海域外のアルゼンチン艦を攻撃できる根拠は、4月24日の「イギリス部隊の行動に影響を与える艦艇、航空機は排除区域外(排除水域外)であろうとしかるべき対処をする」という警告に基づいていました。再警告も不要と考え、「ベルグラノ」への攻撃は奇襲で実施されました。

 そしてフォークランド海域の各潜水艦にこの情報が送信されたのですが、肝心の「コンカラー」は無線マスト故障というアクシデントが発生。受信には約3時間を要しました。

 「コンカラー」が逆探知される危険も指摘されていますが、過去の定時連絡で自位置が露顕しなかったように、今回もアルゼンチン側に気付かれることはありませんでした。[1]

 また通信の遅れについてもイギリス外務省は、むしろ迅速であると感心しています。深く潜行する潜水艦との素早い通信は非常に困難で、過去に同様の内容の通信を試みた時は12時間でも完了できないとされていました。[1]

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http://tkdteam.com.ar/dia-nacional-del-crucero-a-r-a-general-belgrano/
「ベルグラノ」と「コンカラー」の諸元と、5月2日に辿った航路。

 ようやく攻撃態勢に入ろうとする「コンカラー」ですが、使用する魚雷については最新のMk24タイガーフィッシュ誘導魚雷ではなく、旧型のMk8魚雷の使用を決定しています。ただタイガーフィッシュ魚雷は多くの不具合を抱えていたそうで、ここ一番の使用が憚られるものでした。
[1]

 ただし相手は数十分おきに進路を変え変速する回避機動めいた行動をしており、無誘導のMk8魚雷を当てる場合、危険を冒してでも接近する必要がありました。もっともブラウン艦長いわく「近距離ならMk8魚雷の方が、対魚雷用の外板を備えた巡洋艦の外板を貫通する可能性がある」と、無誘導魚雷の特性をポジティブに語っています [1]

 このような事情で「コンカラー」は「ベルグラノ」に接近を開始。

 まず艦長は「コンカラー」を深く潜行させ、海中の変温層にこれを隠します。そして走行音を変温層で隠しながら前進。時刻は午後二時と(冬季で曇りとはいえ)海面がわずかに温まり、変温層の被覆効果を少しだけ高めていました。

 さらに一定距離を前進した後、足を止めて静かに浮上。潜望鏡とパッシブソナーで「ベルグラノ」の位置を再確認します。変温層は「コンカラー」側のソナーにも影響を及ぼすため、定期的にそこから出る必要がありました。ただ「ベルグラノ」の2隻の護衛艦はアクティブソナーによる捜索を行っておらず、浮揚した「コンカラー」に気づくことはありませんでした。[1][3]

 これを5,6回繰り返し、1513時には「ベルグラノ」左舷1400ヤード(1.3km)に迫り、さらに追い越して射撃位置につきます。そして1557時、「コンカラー」から3発のMk8魚雷が発射されました。[1][3]

 「フォークランド紛争史」によると1557時に1400ヤード(1.3km)から発射とありますが、アルゼンチン側の記録する被弾時刻は1601時。この4分のずれが魚雷の走行時間に起因すると仮定した場合、実際の射撃距離は4000~5000ヤードだった可能性もあります。[1][3]

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http://arapiedrabuena.com/el-crucero-belgrano/el-relato-del-hms-conqueror/
http://tkdteam.com.ar/dia-nacional-del-crucero-a-r-a-general-belgrano/
「ベルグラノ」の諸元と、被雷から沈没までの経過。


 ともあれ、発射された魚雷のうち2発が「ベルグラノ」左舷側艦首と後部機械室に命中。1発は不発となって、護衛の一隻である「ブーチャード」に命中しています。[1][3]

 「ベルグラノ」艦首に命中した1発はそのまま艦首を破壊。後部機械室に命中したもう1発は艦内で爆発し、瞬時に乗員200名を殺害。排除水域外にいた同艦は隔壁閉鎖が甘く、浸水の抑制に失敗。電源系も喪失したと言われます。

 そして被弾から15または20分後に総員退艦が発令。乗員にパニックもなく次々に救命艇へ移乗していきます。しかし電気系統の損傷で救難信号は発せられず、遠くはなれていた護衛艦は「ベルグラノ」の最期を知ることができませんでした。[1][3]

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http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080490/Belgrano-Britain-WAS-right-sink-ship-attacked-Task-Force.html
艦首を喪失し、左舷に傾きなが沈降する「ベネグラノ」

 2隻の護衛艦は不発魚雷の接触によって「コンカラー」の攻撃をようやく察知。しかし「ベルグラノ」が沈んだことも「コンカラー」遁走した方角も気づかなかったようです。2隻は依然として西へ進みながら、魚雷と爆雷で周囲の海底へ威嚇射撃を続けました。

後にベルグラノの撃沈に気付き、数時間たって現場に戻ったようですが、すでに日は沈み、命艇も散り散り。中立国船やアルゼンチン空軍機も救助に強力し、丸一日をかけて漂流者を救助しました。生還できた乗員は850名。321名と同乗の民間人2名が戦死しています。[1][3]

 今回の攻撃によってアルゼンチン軍は自身の対潜能力の低さを認識。さらなる被害を恐れ沿岸や港に引きこもります。「ベルグラノ」以外のほとんどの水上艦は健在でしたが、もうイギリス機動部隊の脅威とはなり得ませんでした。[1][3]

 軍事的には成功だった「ベルグラノ」撃沈でしたが、排除区域外の同艦を無警告で攻撃したことにアルゼンチンは猛抗議。後には遺族が戦争犯罪であるとして、国際裁判所に訴える動きさえありました。[1]

 またアイルランド国防省など「侵略だ」とイギリスを非難してアルゼンチンに同調。さらに大量の死傷者が発生していることが判明すると、イギリスに協力的なフランスや(特に)ドイツが動揺。イギリスの「やり過ぎ」を指摘します。[2]

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http://www.telegraph.co.uk/news/picturegalleries/worldnews/9051902/The-Falklands-War-in-pictures.html?image=11
GOTCHAは「やった」という意味の俗語。


 イギリス国内ではタブロイド新聞社のサン紙が「GOTCHA」(やった)と「ベルグラノ」撃沈を大見出しで報じ、戦死者に敬意を示さない不謹慎なものとして批判の対象となりました。

 また紛争後の12月には労働党のダルエル議員がサッチャー首相に対し「冷淡にして故意に「ヘネラル・ベルグラーノ」を撃沈する命令を出した。名誉ある和平が提案されていることを承知の上で、・・・「コンカラー」の魚雷が和平交渉を粉砕した・・・」と言い放ちます。[1]

 これは「国連事務総長と彼の出身国ペルーによるイギリスに不都合な和平案を潰す、という政治的な理由でベルグラノを沈めた」という陰謀論によるものでした。[1]

 しかしサッチャー首相いわく、和平案の条件は5月2日の時点でイギリスに通知されておらず、「ベルグラノ」の撃沈は政治判断抜きで、機動部隊を守るための行動だった、としています。(もっともイギリス側にとって望ましい条件でないことは否定していない)[2]

 「ベルグラノ」から生還したボンゾ艦長は「私は決して怒りの感情を抱きはしない。―もし、私が「コンカラー」の艦長の部下であったら、今、あなたと私が議論していることと同じように戦術に関して議論をしたことでしょう。」とイギリスの行動に一定の理解を示しました。[1]

 大きな波紋を呼んだ「ベルグラノ」撃沈ですが、当事者の「コンカラー」乗員達は批判なんてどこ吹く風と、帰還時にはイギリス潜水艦伝統の海賊旗を掲げ、戦果を大いに誇りました。

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http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080490/Belgrano-Britain-WAS-right-sink-ship-attacked-Task-Force.html
英軍の潜水艦は戦果があった時に海賊旗を掲げ、沈めた艦の撃破マークを書き足すこともあった。現代のイギリス潜水艦も巡航ミサイルを用いた対地射撃後には海賊旗を掲げている。


出典
[1]フォークランド戦争史7,8章 P174~178,P183~185
[2]サッチャー回顧録 上巻 P259,P272
[3] The Falkland Islands CampaignのMovements of the Argentinian Navy from the 27th April to 2nd Mayより

 

参考書籍/WEBサイト
狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕  (朝日新聞外報部ISBN 9784022550200 1982年8月20日)
空戦フォークランド ハリアー英国を救う  (Aプライス&Jエセル ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日)
海戦フォークランド―現代の海洋戦  (堀元美 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日)
SASセキュリティ・ハンドブック (アンドルー・ケイン&ネイル・ハンソン ISBN 4562036664 2003年7月10日)
サッチャー回顧録 ダウニング街の人々 上巻  (マーガレット・サッチャー ISBN4-532-16116-9 1993年12月6日)
フォークランド戦争史 (防衛省防衛研究所 2015年9月8日取得)
「島嶼問題をめぐる外交と戦いの歴史的考察」(防衛省防衛研究所 2015年11月1日取得)
The Falkland Islands Campaign (イギリス空軍公式サイト内 2015年12月10日取得)
フォークランド紛争(日本語版wikipedia 2015年12月20日取得)