艦隊決戦の隠し球~重雷装艦は遠距離雷撃戦の夢を見るか

文:
烈風改

◇重巡と魚雷
 ロンドン軍縮条約の頃(昭和6年)の魚雷の射程は各国とも最大射程で10,000mが限界で、これは重巡の主砲射程と比較すると大きく劣るものでした。重巡は敵を魚雷の射程に入れる遥か前に主砲での射撃が可能となるため、魚雷戦の機会が生じない可能性が大きいと見なされるようになったのです。

 このため当時の米海軍は新規建造の重巡魚雷兵装を全廃しました。日本海軍でも重巡の魚雷廃止への動きがありましたが、新魚雷の登場によって重巡の魚雷装備廃止は回避されています。

 この新魚雷こそが、ロンドン条約の制限を受けて魚雷の射程延長を目指し昭和6年に開発が開始され、昭和8年に実用化された『酸素魚雷』でした。

 酸素魚雷の性能は傑出したものであり、酸素の扱いが難しい点を除けば、当時全ての性能で他の魚雷を上回っていたと言っても過言ではありませんでした。そしてその最も有用な点は魚雷の常識を破る画期的な射程にありました。

 雷速36ノットにおける駛走距離は40,000mに及び、これは戦艦同士の最大砲戦距離をも超えるものだったのです。この長射程魚雷の実現により、具現化されたのが重巡部隊による『遠距離隠密魚雷発射』戦法でした。

◇遠距離隠密魚雷発射
 日本海軍は戦艦同士の砲撃戦を有利にするために新型の長射程魚雷を効果的に応用することを企図しました。ただし、高速・長射程を誇る酸素魚雷ですが、36ノットで駛走した場合でも40,000mという距離は40分近くかかる計算となります。つまり、遠距離魚雷攻撃では「狙う」というより、敵の未来位置を予測してその付近に発射しておくという見込み的な攻撃方法を取らざるを得ません。当然少ない本数では効果を期待できないので、まとまった数を網のように発射する必要がありました。

 40分後の敵艦隊の位置を想定するのは無謀に思えますが、互いが積極的に砲戦を行おうとしている場合(現実にはこのような機会は稀と思われますが)は双方が直線的な運動で接近するため、その進路をある程度推定するの不可能では無いと考えられたのでしょう。
また敵への到達まで時間がかかるという制限から、魚雷を発射したことそのものを悟られないようにする必要もありました。これが「隠密」と表現された所以です。

 遠距離隠密魚雷戦で魚雷の希望命中タイミングとされたのは、敵戦艦部隊が砲戦を開始した直後です。戦艦は砲撃前や砲撃中には敵の位置を測距する必要があるため回避運動を取ると砲撃精度が下がるためです。射撃開始と同時に魚雷が敵戦艦の艦列付近に到達すれば命中しなくても、射撃の継続に支障が生じ、大きな効果を上げる可能性は高いと言えるでしょう。



◇重雷装艦の着想
 前述のように発射する魚雷数は可能な限り多くする必要がありました。この発射魚雷数増加問題への対策として計画されたのが『重雷装艦』という特殊な用途の艦です。

 『重雷装艦』とは艦隊決戦時の遠距離発射魚雷射線数の補填「だけ」を任務とする艦で、その魚雷装備もこの任務に特化されたものです。これは自身では遠距離魚雷発射用の精密な測距システムを持たず、魚雷発射の指揮は重巡部隊の指示を受けて行うなどの仕様によく現れています。『重雷装艦』とは『遠距離魚雷戦システム』の一部としてのみ機能する部品であったと極論することが出来るかもしれません。逆に水雷戦隊の軽巡や駆逐艦が行うような近距離雷撃には甚だ不向き(不可能ではない)な艦でした。(例えば魚雷発射管は進行方向に対して75°程度までしか旋回できず、真横に指向できません)

 重雷装艦は艦隊決戦用の「パーツ」として計画され、当初は3隻が計画されていました。ここで問題となるのは、この特種艦をどのように整備するか、という点です。用途の限られる艦のために新規に建造を行うのは効率的にも予算的にも無理でした。



◇老朽軽巡の再利用
 昭和の初め頃、昭和11年頃から艦齢が16年を越え始める球磨型軽巡洋艦の再利用問題が検討されていました。

 この頃になると各部の老朽化により球磨型初期艦は性能を発揮できなくなることが予見されていました。実際、開戦時に第一~第四水雷戦隊の旗艦には5500トン型では最新の川内型と長良型の最終艦阿武隈が充てられていました。恐らく缶・主機械の劣化により速度が維持出来なくなる→高速が必要な水雷戦隊の任務に適さなくなったという経緯だと思われます。

 実際、北上は竣工当初は90,000軸馬力だった出力が、昭和16年の重雷装艦への改装時には77,989馬力と86%程度まで落ち込んでおり、5500トン型軽巡洋艦の最初のタイプである球磨型は重雷装艦への改装候補の筆頭でした。

 魚雷を大量に搭載出来るだけの船体規模と重巡部隊になんとか着いていけるだけの速力を具備していた球磨型は必要条件を丁度満たしていたためです。

 この重雷装艦を何隻用意するかという点は、遠距離隠密雷撃戦法の有効性への信頼で増減していったと思われ、最終的には北上と大井の2艦のみに対して実施されることとなりました。



◇遠距離隠密魚雷戦の問題
 艦隊決戦の切り札として構想された酸素魚雷の遠距離隠密発射ですが、
 ・発射から敵艦隊までの到達時間が長く、敵の未来進路予測という不確定な要素に左右される
 ・発射を察知されれば容易に回避されてしまう恐れがある
という本質的な問題の解決手段が存在せず、開戦直前の昭和16年の演習では、「遠距離隠密発射は成立し難い」という所見が水雷学校から出される状態でした。



◇艦隊決戦構想の終焉
 実際に日米海軍の戦端が開かれると、航空部隊の威力が実証されたことにより、戦艦を中心とした艦隊決戦構想は事実上消失してしまいました。同時に重雷装艦に改装された北上と大井も行き場を失うことになりましたが、その重雷装を生かした転身先は存在しませんでした。

 前述のように遠距離戦に特化しすぎていたため、水雷戦隊と共に肉薄魚雷戦を行うといった用途には極めて不向きな仕様であった上、缶・機械が老朽化し最大速度も低下していた北上と大井は水雷戦隊として行動する第一線の任務には堪えられないと判断されていたからです。

 二隻は一部の魚雷発射管を降ろし戦争の残りの期間を高速輸送艦として戦うことになり、生き残った北上は回天輸送艦となる運命が待っていました。

参考文献
『ほむほむ さんそ★ぎょらい』

<著者紹介>
烈風改
帝国海軍の軍艦、特に航空母艦についての同人誌を多数発行。
代表作に『航空母艦緊急増勢計画』
Twitter: https://twitter.com/RX2662