第23回 イベントレポート「土浦駐屯地&武器学校」
文・画像:nona
2015年10月10日、茨城県の土浦駐屯地で駐屯地開設63周年記念行事が開催されました。陸自の3戦車の走行展示や、武器学校の貴重な収蔵品では様々な再発見がありました。
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■土浦駐屯地の所在と略歴■
土浦駐屯地は霞ヶ浦のほとり、茨城県阿見町にあります。駐屯部隊の主任務は陸上自衛隊の車両整備員の養成。近隣に陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地(関東補給処)や、技術研究本部の航空装備研究所土浦支所も置かれています。
ちなみに土浦駐屯地と航空装備研究所土浦支所は、前述のように所在地は土浦市ではなく隣町の阿見町にあります。逆に霞ヶ浦駐屯地は「かすみがうら市」ではなく土浦市。基地の所在地が実際の地名と一致しないのはよくあることですね。
土浦駐屯地の歴史を紐解くと、1921年の海軍臨時航空術講習部・水上班開設に遡ることができます。さらに公式サイトに記述はないものの、1929年には世界一周飛行中のツェッペリン飛行船も来航しています。
そして太平洋戦争直前の1939年には海軍飛行予科練習生(予科練)の養成施設が移転しています。戦前は航空機と縁の深い土地でした。その後に1952年に陸上自衛隊の駐屯地となりますが、敷地には戦前を偲ぶ記念碑や建造物が多く残っています。
その一つが雄翔館。予科練に関する資料の展示と、寄贈された特攻隊員の遺書や遺品が展示してあります。この雄翔館は平日でも予科練平和記念館の通用口から入ることができます。ちなみに建物のデザインは空母をモチーフにした、とのことです。艦橋の位置から察すると空母赤城のよう。
■自衛隊の3戦車の展示■
今回の記念行事の式典では、様々な陸上自衛隊の車両が参加しています。ほとんどの車両に武校(武器学校)の文字があるので、すべて駐屯地内にある車両でしょうか。このためか式典の展示車両のバリエーションは総火演並みに豪華でした。
AH-64Dヘリコプターも参加。ただし駐屯地での地上展示はなく、式典後に霞ヶ浦駐屯地へ戻ってしまいました。
印象的だったのが10式、90式、74式の三戦車の展示。横並びで超信地旋回や空包射の比較がおこなわれていました。
砲塔を正面に向けたまま実施した360°の超信地旋回は、10式が10秒、90式が15秒、74式が21秒のタイム。三戦車が一緒に並ぶと10式の素早さが際立っています。恐らくスラローム射撃のための性能でしょうか。また、10式戦車は別個に姿勢制御の展示もありました。なんでも「グラスに注がれたワインをこぼさない」とのこと。
こちらの動画は空包による躍進射撃の様子です。躍進射撃は射撃時の僅かな時間に停止することで、回避率と命中率を維持するテクニックです。全速力でやると芝生を壊滅させるので、比較的ゆっくりでした。
10式と90式は停止時に前傾、即座に姿勢を立て直すモーションがありますね。ただ空包の音は一番砲の小さい74式が(なぜか)一番が大きいようです。10式と90式の空包は、74式のようにドカンと響かない仕様です。
この他重機関銃や榴弾砲の射撃展示もありありました。
残念ながら今年は89式中戦車の自走展示はありませんでした。同車は2007年以降に何度か行展示がされていますが、いつでも動かせるものではない様子。かわりに会場中央で静態展示されていました。
■武器学校の展示品■
土浦駐屯地では新旧の様々な車両、野砲、武器弾薬が収蔵され屋内外に展示されています。が、数が多いので印象的なものをいくつか紹介したいと思います。(メジャーな装備も省略)
74式自走105mm自走りゅう弾砲
105mmりゅう弾砲を搭載する自衛隊発の自走榴弾砲ですが、後から開発された75式自走155mm自走りゅう弾砲の導入が優先され、少数の生産に終わっています。そういえば研究中の軽量戦闘車両システムなんてのも105mm砲を搭載してますね。
三式中戦車
太平洋戦争中の1943年に制式化されましたが、館内の説明書きによると本土に温存されたため実戦経験はないそうです。「米M4戦車と対等に戦える」との記述もありました。確かに短砲身型M4なら対等に渡り合えるかもしれません。
60式自走無反動砲
土塁に隠れ敵戦車を射撃しようとする様子が再現されています。砲架はトラベリングロックの輪の高さまで下げることで、秘匿性を高めることができます。十分な偽装がされていれば、有効射程に入っても発見はほぼ不可能でしょう。
武器学校の小銃など
室町末期から90年代までの様々な銃が展示されています。ただし、ここ10~20年に作られた比較的新しいものはほとんど見当たりません。各種試験などで現役なのかもしれませんね。
1930年式要塞用ライフル
中国作、日中戦争中の鹵獲品とのこと。詳細は不明。対戦車ライフルの一種でしょうか。口径20mm、銃身長2450mmとはすさまじい。
九八式射爆照準器
海軍で使用された光像式の光学照準器です。筒状の95式射爆照準器よりも視野が広く、動く目標を捉えやすくなりました。ただ予備のフロントサイトも付属しているので、まだ信頼性に限界があったのかもしれません。
てき弾銃(写真中央)
豊和工業で試作された謎兵器。別の試作品が霞ヶ浦駐屯地にもあります。隣のRPG-7・カールグスタフとくらべてもコンパクトですね。以前に調査された方がおられるので、気になった方は検索してみてください。
■その他■
ザリガニ
これも旧軍時代のなごりなのか、地下化されてない防火水槽や水路がありました。ただボウフラも発生しやすいのか、蚊も沢山飛んでましたね。
茨城地本が制作のリクルートポスター
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コメント
現代でもあらゆる戦車も破壊出来る対戦車ライフルが中国にあったとは…流石火薬を発明した国だけの事はある…
冗談はさておき、口径20mmですよね、きっと。(それでも十分大口径)
中国って割とモーゼル好きだったしこれのコピーかね…?
「象撃ち銃」とあだ名されていたとか。
確かに20mもあったらヤマトの波動砲より太くなっていまいますね...
正確には20mmでした。ご指摘ありがとうございます。
ご指摘がありました箇所、訂正いたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。
なので >1943年に制式化 というわけではなく。
たぶん四式が既にあった(開発中)ので先にできあがったこっちを三式にしたんじゃないかな。
あと、M4と対等は言い過ぎかな。火力はともかく防御力は大きく劣るし。
三式中戦車は18.8t。M4は30t級だから当然だけど。
壊して埋めた下半身が陸自基地に
埋められてたからだよね。
んで、ここに新しい銅像を作りました。
8様
ご指摘の箇所を調べてみました。
Webサイト「戦車研究室」やwikipediaを見ると、試作がなされたのは1944年の5月という記述が見られました。制式採用時に遡って「三式」として制式採用されたようですね。
ただ、武器学校館内のパネル「日本軍における戦車開発②」には1943年とありまして、私はこちらの資料を参考に本記事を制作しました。もっとも資料を見比べると、武器学校の記述のほうが誤記かもしれません。ご指摘ありがとうございます。
9様
武器学校のサイトによると、最初に発見された上半身は江田島に贈られ、近年発見された下半身の発見地点に新たに復元したものを展示しているそうです。現在でも駐屯地内の地下や霞ヶ浦の湖底にとんでもないものが眠っていそうですが。
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