第20回 連載「フォークランド紛争小咄」パート5
ロサリオ作戦とイギリス軍の抵抗

文:nona

前回から続く、アルゼンチンによるフォークランド上陸作戦の第二弾です。

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https://aquellasarmasdeguerra.wordpress.com/2012/04/29/algunas-armas-utilizadas-en-la-guerra-de-malvinas/
スタンレーにアルゼンチン国旗を掲げる兵士


狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (1982年)
朝日新聞社
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■行動を開始したアルゼンチン特殊作戦上陸中隊■

 4月1日夜、ついに作戦が開始。時刻2130、ミサイル駆逐艦サンティシマ・トリニダドから特殊作戦上陸中隊92名が、ゴムボート21艇で上陸を開始しました。しかしボートが海藻の群生地から抜け出せなくなり、やむなく予定外の場所から上陸することになりました。[1]

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http://www.taringa.net/posts/imagenes/17698122/Malvinas-que-pasaba-hoy-hace-32-anos-Mi-homenaje.html
サンティシマ・トリニダド艦上のゴムボート

 ここで海兵隊兵舎を制圧する部隊76名と、総督公邸(フォークランド民政庁)を制圧する部隊16名に別れ行動を再開します。[1]

 先に兵舎に到着した部隊はさっそく兵舎を包囲。しかし、想定よりも到着時刻が遅れていたため、詳細な事前偵察を実施できませんでした。海岸からの道程が想定外にごつごつとした歩きにくい地形だったようで、行軍が遅れてしまったのです。

 そして兵舎へ催涙ガス弾を投げ込んだのですが、反応がありません。実はイギリス軍は配備を完了していたため、兵舎はもぬけの殻だったのです。すでに奇襲計画は破綻していました。

 
もう一方の総督公邸を制圧するグループも、公邸の近くまで到達していました。指揮官のヒアチノ少佐は部隊を分け、公邸の両面と後面に隠れさせます。そして総督に降伏を迫るため、少佐ら5名は公邸の裏口から侵入しようとします。[2]

 この時、正面から出入りする車両や巡回する人の様子を確認していたようですが、イギリス軍に集中防御されていることには気付きませんでした。

 公邸はノーマン少佐の本部分隊が加わった31名の海兵隊員と11名のイギリス海軍軍人、1名の元海兵隊員のホームガードがすでに守りを固めていました。さらにハント総督はピストル、彼の運転手もショットガンで武装していたのです。

 そして気付かずに公邸へ近づいてしまったヒアチノ少佐ら5名は、激しい銃撃を受けることになりました。少佐は大量に出血、部下1名も2発の銃弾を受け、さらに物陰から動けなくなった部下3名が捕虜となってしまいます。

 こうして公邸を巡る戦いはわずか膠着状態となりました。


■アルゼンチン車両部隊の上陸■

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http://www.taringa.net/posts/imagenes/14440565/Imagenes-de-la-Operacion-Rosario-recuperacion-de-Malvinas.html
LPVT-7と兵士の写真。

特殊作戦上陸中隊の出撃から7時間後、飛行場制圧部隊も夜明け前に行動を開始します。[2]

時刻0430、水中障害物破壊部隊12名が潜水艦サンタフェから出撃し、上陸ルートの安全を確認します。

続いて時刻0600、車両部隊が揚陸艦から発進。先鋒に4両のLVTP-7、その後に14両のLVTP-7、最後に回収車型VPVT-7が1両とLARC-5部隊が続きます。

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http://www.taringa.net/posts/imagenes/14440565/Imagenes-de-la-Operacion-Rosario-recuperacion-de-Malvinas.html
LARC-5に乗り周囲を警戒するアルゼンチン軍兵士

 上陸部隊は揚陸艦カボ・サン・アントニオのレーダーで発見した岩礁を回避け、海岸近くでは水中障害物破壊部隊が用意した灯火の誘導で上陸ポイントへ向かいます。

 こうした慎重な上陸作戦によって、最初の車両が時刻0630に上陸します。そして無防備なスタンレー空港を占領。同時に、バリケード撤去を行います。

 そして上陸部隊はスタンレー市街地にむけ前進を再開。

 そして時刻0715、スタンレー東方にさしかかったところ、家屋から機関銃とロケット弾による反撃を受けます。LVTP-7は防御陣形をとり、降車した兵士は無反動砲や迫撃砲で反撃します。ただしイギリス側への殺傷を極力避けるという命令を守るため、直接攻撃は避けたようです。

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http://www.taringa.net/posts/imagenes/14440565/Imagenes-de-la-Operacion-Rosario-recuperacion-de-Malvinas.html
イギリス軍の反撃を警戒するアルゼンチン上陸部隊。

 イギリス側も1両のLVTP-7の1両に相当のダメージを与えたと考え、総統公邸へ撤退していきました。なおLVTP-7の破壊は誤認だったようで、アルゼンチン側の負傷者も1名のみでした。

時刻0800にはスタンレー市街地を完全に掌握。上陸ポイントからは榴弾砲も陸揚げされ、総督公邸もアルゼンチン軍に取り囲まれていました。

ノーマン少佐はハント総督へ、「包囲を突破して、最後まで抵抗するか」もしくは「停戦交渉を行う」かを問います。ハント総督は、戦闘で人々の命が犠牲になることを避けるため、投降し交渉を行うと答えたようです。[3]

そしてアルゼンチン軍人のヒロベルト中佐(開戦前からフォークランドに滞在しており、拘束されていた)を仲介として、交渉を開始。時刻0920にはアルゼンチン司令が到着し、ハント総督も武器を置くように命令。

こうして戦闘は終了します。このときまでに公邸で負傷したヒアチノ少佐は戦死してしまったのですが、アルゼンチン軍の狙い通り、イギリス側の死者はありませんでした。[2]

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http://www.taringa.net/posts/imagenes/14440565/Imagenes-de-la-Operacion-Rosario-recuperacion-de-Malvinas.html
降伏するイギリス軍兵士



■サウスジョージア島の攻防戦■

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https://en.wikipedia.org/wiki/South_Georgia_and_the_South_Sandwich_Islands#/media/File:1989_Grytvikken_hg.jpg
サウスジョージア島。

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フォークランド諸島とサウスジョージア島の位置関係

一方、フォークランドの西の孤島、サウスジョージアでは、上陸した廃材回収業者を監視するため、海兵隊員22名を乗せた砕氷船エンデュアランスが向かっていました。[4][5]

4月1日のフォークランドからのラジオ放送と本国の通信で、危機が迫っていることを確認。さらに80名の海兵隊員を載せたアルゼンチン輸送艦とコルベットがサウスジョージアへ向かっていました。

サウスジョージア島のイギリス民間人はエンデュアランスと共に島から離れ、同島に残った海兵隊員22名は嵐のなか陣地構築を開始します。

4月2日午後、アルゼンチン軍艦がサウスジョージア島のグリトビケン湾へ侵入、悪天候のため上陸してくることもなく、警告無線を発して、湾から去っていきました。


しかし4月3日の朝、再び湾へ現れ、降伏を要求します。ミルズ中尉は港の桟橋に降りて考える時間を要求しますが、アルゼンチン軍は「5分待った後に行動を起こす」とあくまで強気でした。そして時間を待たずにヘリコプターで兵士の降下を始めていたのです。[5]

ミルズ中尉は降伏を拒否。急いで陣地に戻り、両軍による戦闘が始まります。[4]

中尉はヘリコプターへの射撃を命じ、陣地の近くを飛んでいたピューマ・ヘリコプターに数十発の銃弾が命中します。同機では2名戦死、他の乗員も負傷したものの、なんとかイギリス軍の陣地から離れ、湾の反対側へ不時着します。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Invasion_of_South_Georgia
サウスジョージアに墜落したヘリコプターの残骸

 アルゼンチン軍のコルベット・ゲリコも応戦したものの、逆にカールグスタフ無反動砲による反撃を受けます。このうち1発が船体に命中し、射撃機構を破壊、100mm砲の旋回が不能になります。なお同艦には20mm、40mmの機関砲が備わっていましたが、イギリス軍に打撃を与えることはありませんでした。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Invasion_of_South_Georgia
アルゼンチンのコルベット・ゲリコ

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http://www.revistanaval.com/noticia/20120514-110010-malvinas-30-anos-despues-1/
ゲリコの搭載していた100mm砲

 しかし多勢に無勢のアルゼンチン軍、もう1機のアルエット小型ヘリコプターで不時着機から乗員を搬送しつつ、海兵隊員を降下させます。さらに陣地を構築しミルズ隊の包囲を始めました。

さらにコルベットも後方へ下がり、壊れた旋回装置に代わり船体ごと旋回。イギリス陣地付近へ100mm砲による砲撃を開始しました。

そして、状況が絶望的であると悟ったミルズ中尉は降伏を受け入れます。この戦いのイギリス側の負傷者は1名でしたが、アルゼンチン側は3名の死亡が記録されています。


■フォークランド・サウスジョージア島の戦闘の結果■

 アルゼンチン側の作戦は、完全な奇襲とならなかったこと、さらにイギリスの待ち伏せを警戒できなかったことで、僅かとはいえ死傷者を出すことになってしまいました。とはいえイギリス側の死者はなく、作戦は成功と呼べるものでしょう。

しかし、波風立たないよう配慮したとはいえ、武力に頼ったことが国際社会から強く非難されています。特にイギリスをおおいに怒らせ、国交は断絶。数日後には奪還作戦が開始されてしまいます。

そして、数名の犠牲のもとに獲得したフォークランドですが、早くも防衛の困難さに直面することになります。


次回へ続く


出典(2015年9月27日閲覧)

[1]防衛省防衛研究所 フォークランド戦争 第2部 第9章 陸上作戦の観点から見たフォークランド戦P213~214(PDF版P6~7)

[2]同 P215~216(PDF版P8~9)

[4]同P217~219(PDF版P10~13)

[3]狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 P14~15(朝日新聞外報部著 1982年8月20日 ISBN 9784022550200)

[5]同P16~19


参考(2015年9月27日閲覧)

日本語版wikipedia  フォークランド紛争

防衛省防衛研究所 フォークランド戦争史

アメリカ海軍 Lessons of the Falklands Accession Number : ADA133333

RAF(イギリス空軍)  The Falkland Islands Campaign

朝日新聞外報部著 狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 ISBN 9784022550200 1982年8月20日

Aプライス&Jエセル著、江畑謙介訳 空戦フォークランド ハリアー英国を救う ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日

堀元美 著 海戦フォークランド―現代の海洋戦 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日

フォークランド紛争 山崎雅弘 戦史ノート
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