第19回 連載「フォークランド紛争小咄」パート4
アルゼンチンの無血フォークランド侵攻計画

文:nona

今回から連続で「陸戦中心のフォークランドまとめ記事」となります。

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http://www.revistanaval.com/fotonoticia/20120514-110010-malvinas-30-anos-despues-2
戦車揚陸艦内のVPVT-7。

狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 (1982年)
朝日新聞社
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■無血フォークランド占領計画■

 1981年12月、陸軍総司令官のレオポルド・ガルチェリがアルゼンチン大統領に就任。当時問題となっていたマルビナス(フォークランド)諸島問題については、交渉によって解決する方針が示されたのですが、その裏で武力解決が計画されました。
[1]

 最初の作戦計画は1981年の12月に海軍からスタートし、1982年1月には陸空軍の統合作戦計画に発展します。2月中旬には、フォークランド諸島に地形や気候が近い、パタゴニア地方で上陸訓練を実施しています。

 なお、作戦の実行は9月15日以降の予定でした。この時期は南半球が真冬から抜けだし、年の始めに招集された新兵の練度が高まる時期でもあります。

 海軍では14機のシュペルエタンダールと、15発のエグゾセ対艦ミサイルによる飛行隊の編成が完了。航空戦力も強化される見通しでした。

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アルゼンチン海兵隊のLPVT-7水陸両用装甲車。後にAAV-7に改称される。

 しかしアルゼンチンとイギリスの間の交渉が3月1日に決裂。アルゼンチンの訴えに応じないイギリスに、最後通告のような生命を発表します。
[2]

 作戦部にとって、青天の霹靂であったのか、あるいは予見できていたかは不明ですが、作戦部は大急ぎで計画をまとめ、4月1日に上陸作戦が可能である、と政権へ進言します。[1]

 上陸訓練が済んでいたこと、そしてイギリスがフォークランド奪還に動くことはない、という甘い想定が、作戦の前倒しを可能にした理由かもしれません。その代償として、フォークランド占領後の防衛戦力が中途半端なものとなっています。

 そして3月19日、アルゼンチンの廃材回収業者がイギリス領のサウスジョージア島へ無断上陸。同島にはイギリス人の南極観測隊がおり、彼らと領土を守るため、イギリスは同島への海兵隊の派遣を決定します。[4]

 しかし、この事件はアルゼンチンが仕組んだものでした。イギリスが挑発に乗ってきたことで、(表向きは)民間人の保護を名目に、軍の動員が可能になったのです。こうしてフォークランド諸島上陸計画「ロサリオ」作戦が発動されます。[3]


■「ロサリオ」作戦のアルゼンチン軍兵力■

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上陸作戦に参加した最大の艦艇カボ・サン・アントニオ。アメリカのデ・ソト・カウンティ級戦車揚陸艦を元に自国建造された。

戦車揚陸艦カボ・サン・アントニオ(8000トン)
潜水艦サンタフェ
輸送船1隻
戦闘艦5隻
司令部および通信部隊42名
海兵隊第2歩兵大隊387名
上陸車両大隊 搭乗員101名
水陸両用装甲兵員輸送車LVTP-7 20両
軽揚陸補給貨物車両LARC-5 5両
上陸特殊作戦中隊92名
水中障害破壊部隊12名
海兵隊野戦砲兵大隊(分遣隊)105ミリメートル榴弾砲6門人員41名
予備隊(海兵隊第歩兵大隊)65名
補給隊84名
陸軍第25機械化歩兵連隊39名
民政担当将兵41名

 作戦計画では上陸特殊作戦中隊が作戦前日に極秘に潜入、イギリス駐留部隊の兵舎とフォークランド総督公邸を無血で占領し、翌朝から車両部隊と海兵大隊を上陸させる予定でした。正面からの戦闘を避けることで、あくまで「紳士的」に行動したことをアピールする狙いがあったようです。[3]


■フォークランドに駐留イギリス軍の兵力■

海兵隊分遣隊 40名+29名
イギリス海軍軍人 少なくとも11名
フォークランド諸島防衛隊23名(地元民間人の志願による、いわゆるホームガード)
4トントラック1両
ランドローバー3両

 イギリス軍はアルゼンチン軍の不穏な行動をうけ、海兵隊員を69名まで増員、さらに諸島防衛隊を招集しあます。それでも兵力差は10倍ほど。[5]

 圧倒的な兵力差があるにもかかわらず、イギリス本国は現地の司令官に出来る限りの抵抗を求めたようです。無抵抗のまま占領されると「イギリスは最初からフォークランドを統治する意思がなかった」と、アルゼンチンに宣伝されかねません。[6]

 しかし隊員が生命の危機に陥った場合、投降することが許されていました。


■延期されたエイプリルフールの上陸作戦■

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http://www.britishempire.co.uk/forces/armycampaigns/southamerica/falklands/falklandswarmaprosario2.htm
ロサリオ作戦における、アルゼンチン上陸部隊(赤)の行動

 アルゼンチン軍による上陸作戦は、4月1日に実施される予定でした。しかし悪天候のため作戦が延期。さらに輸送艦の搭載ヘリコプター1機が、荒天で損傷するアクシデントも発生しています。[5]

 一方イギリス側は4月1日以前から情報収集に努め、上陸作戦が近いことを察知していました。イギリス海兵隊の指揮官ノーマン少佐は、本国からの防衛命令をうけ、準備を進めています。

 ノーマン少佐の作戦は「ヒットエンドラン」。上陸したアルゼンチン軍を攻撃で撹乱させながら後退、最後は総督公邸に立てこもり、外からの応援を待つというものでした。[8]

 少佐はスタンレー南東のルッカウトロックスに司令部を置き、総督公邸、スタンレー飛行場の近隣、ハリエット港とスタンレーの経路に陣地の構築を指示しました。[5]

 本国からの指令であった滑走路破壊は実行できなかったものの、代わりにバリケードを作り封鎖しました。[5]また、民間船のレーダーの助けを借りて接近する艦船の監視を行います。[7]なお、滞在していたアルゼンチン30人を拘束しています。[8]

 これは「愚者の渡しの防御」終盤のような防衛策でした。

 そしてレックス・ハント総督はラジオ放送を通じ、島民に危機が迫っていることを知らせます。[9]

 この放送をアルゼンチン側も受信、偵察機から滑走路のバリケードが確認されたこともあって、アルゼンチン側は作戦の奇襲性が失われたことに、気づきつつありました。

 このため作戦は修正されますが、「隠密部隊によって兵舎と総督公邸の包囲による、投降の強制」という計画は変更されなかったようです。

 そして4月1日夜、ついに作戦が開始されます。

 2130にミサイル駆逐艦サンティシマ・トリニダドから特殊作戦上陸中隊の92名が、ゴムボート21艇で、フォークランドへ上陸を開始しました。[5]


次回へ続く


出典(2015年9月27日閲覧)

[1]防衛省防衛研究所 フォークランド戦争 第2部 第9章 陸上作戦の観点から見たフォークランド戦P208~209(PDF版P1~2)

[3]同P210(PDF版P3)

[5]同P211~213(PDF版P5~7)

[6]同P220(PDF版P13)

[7]同P214(PDF版P8)

[9]同P218(PDF版P11)

[2]狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 P41(朝日新聞外報部著 1982年8月20日 ISBN 9784022550200)

[4]同 P9

[8]同P12~13


参考(2015年9月27日閲覧)

日本語版wikipedia  フォークランド紛争

防衛省防衛研究所 フォークランド戦争史

アメリカ海軍 Lessons of the Falklands Accession Number : ADA133333

RAF(イギリス空軍)  The Falkland Islands Campaign

朝日新聞外報部著 狂ったシナリオ―フォークランド紛争の内幕 ISBN 9784022550200 1982年8月20日

Aプライス&Jエセル著、江畑謙介訳 空戦フォークランド ハリアー英国を救う ISBN 4-562-01462-8 1984年5月10日

堀元美 著 海戦フォークランド―現代の海洋戦 ISBN 978-4562014262 1983年12月1日

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