第16回 連載「フォークランド紛争小咄」パート 2
スタンレー飛行場攻防戦と決死の輸送作戦

文:nona

 戦時下の飛行場といえば「初撃で壊滅」という場合も「地上部隊に占領されるまで機能し続けた」というケースも存在します。今回は「後者」にあたる東フォークランド島「スタンレー飛行場」を巡る戦いを解説いたします。


■開戦前夜のフォークランド飛行場■

 1973年、ポートスタンレーにほど近い競馬場(ほぼ牧草地)にスタンレー飛行場が開設されます。アルゼンチン・イギリス双方の出資で建設され、当初は720m、開戦直前には1200mまで拡張されています。[1]

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http://www.thinkdefence.co.uk/2013/02/that-famous-runway-at-port-stanley-part-1-pre-conflict/

1973年のスタンレー飛行場


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スタンレー飛行場の所在

 このスタンレー飛行場ですが、競馬場時代の1966年、ハイジャック機が強行着陸する事件がおきています。[2]犯人は、フォークランド諸島のイギリス領有の不当性を訴えるアルゼンチン人のジャーナリストと、彼に率いられたアルゼンチンの労働者たちでした。蜂起の理由はアルゼンチンの不況や、 サッカー・ワールドカップにおけるアルゼンチン対イングランド戦の結果が、労働者たちを焚き付けた為、とされています。

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ハイジャックされたCD-4旅客機


 スタンレーへ降りたハイジャック犯はアルゼンチン国旗を掲げ、自国の領土であることを宣言します。しかし、イギリス駐在海兵隊員と、武装した島民に囲まれてしまい、翌日に投降しています。この事件でアルゼンチン・イギリス政府間に不信感が生まれたようです。一方島民は、ハイジャック犯へ食料や防寒具を提供するなど、それほど反感がなかったことが伺えます。

■1982年4月のフォークランド侵攻と飛行場■

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スタンレーに上陸するアルゼンチン海兵隊のAVTP7

 1982年4月2日、フォークランド諸島を狙うアルゼンチン軍が上陸作戦を開始。唯一の舗装滑走路だったスタンレー飛行場は重要拠点として位置づけられています。

 この行動を察知していたイギリス守備隊は、滑走路にドラム缶で簡易バリケードを構築、1966年のように強行着陸できないよう対策を講じました。しかしアルゼンチン軍は近くの海岸からAVTP7水陸両用装甲車で侵入。守備兵力の関係で、バリケード以上の防御策がなかったスタンレー飛行場は容易に占領されています。

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飛行場名の看板を英語からスペイン語名へすげ替えるアルゼンチン軍

 この後C-130輸送機L-118輸送機(ロッキード・エレクトラ)F28ジェット輸送機が貨物と人員を乗せ本土から飛来します。そして帰路にはイギリス軍捕虜を乗せ、本土へ戻りました。(捕虜は中立国経由でイギリスへ送還)。イギリス軍の本格的な逆襲が始まる5月1日までに、に5000tの物資と9000名の人員輸送を行っています。[4]

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捕虜を運ぶC-130輸送機

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輸送任務に動員された民間旅客機

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本土のリオグランデ基地から飛来した(と思われる)CH-47輸送ヘリコプター

 なおジェット戦闘機や攻撃機がスタンレー飛行場で運用されることはありませんでした。イギリスの海上封鎖までに、滑走路の延長資材と航空機燃料が輸送されなかったのです。これらの輸送を後回しにした理由は、単なる準備の不足とも、最初から運用するつもりがなかったとも言われています。[3]

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スタンレー飛行場上空を飛ぶA-4と、スタンレー飛行場で運用できる数少ない攻撃機のプカラ攻撃機。

 アルゼンチン軍の戦闘機と攻撃機は本土から飛び立たなくてはならず、厳しい戦いを強いられています。なお、これらのジェット機に代わって性能の劣るプカラ軽攻撃機やアエルマッキ MB-339練習攻撃機がスタンレー飛行場に配備されています。占領戦略がもう少し練られていたら、状況は変わっていたかもしれません。


■バルカンの爆撃を耐えたスタンレー飛行場■

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バルカン爆撃機に搭載された21発の1000ポンド爆弾

 輸送機と軽攻撃機の発着専用となってしまい、超音速戦闘機や対艦攻撃部隊の運用ができないスタンレー飛行場ですが、イギリスは依然として最重要の脅威に感じます。このためブラックバック作戦を発動、大型爆撃機によって破壊することを決定します。

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1回目と2回目のブラックバック作戦で発生した、2列の爆撃痕

 そして5月1日未明、予備機を含む11機の給油機の支援を受け、1機のバルカン爆撃機が飛来。21発の1000ポンド(約450kg)爆弾を投下していきます。さらに同日にはハリアー戦闘機が飛来。クラスター爆弾を用いた攻撃で、駐機していたプカラ攻撃機を破壊します。[5]

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http://www.thinkdefence.co.uk/2013/02/that-famous-runway-at-stanley-part-2-conflict/
スタンレーで撮影されたハリアー

 なお、バルカンが投下した21発の爆弾のうち、滑走路に命中したものはわずか1発。滑走路と平行ではなく、斜めに侵入したことが原因かもしれません。(対空火器をさけるためかもしれない)ダメージの少なかった滑走路は修復に成功しています。[3]なお復旧した滑走路へ「昼間は土砂で覆い、復旧されていないように偽装した」という話もありますが、詳細は不明でした。

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http://www.thinkdefence.co.uk/2013/02/that-famous-runway-at-stanley-part-2-conflict/
リアジェット練習攻撃機と爆撃された滑走路

 この後も2回目のブラックバック作戦が実施され、再びバルカン爆撃機の空襲をうけますが、爆弾は飛行場の外へそれています。さらに3回目はフォークランド諸島まで飛行できず断念、以降は作戦が見直され、飛行場への爆撃はありませんでした。

 代わって艦砲射撃よる破壊活動が実施されます。当初は昼夜を問わずに実施されたようですが、アルゼンチン攻撃機の対艦爆撃が開始されると、これを避けるため夜間に限定されています。夜間射撃では照明弾も使用し、飛行場のアルゼンチン軍を不眠状態にすることを狙っています。[5]


■スタンレー飛行場への輸送作戦■

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http://www.thinkdefence.co.uk/2013/02/that-famous-runway-at-port-stanley-part-1-pre-conflict/

輸送任務に参加したC-130輸送機

 イギリス軍の執ような攻撃と海と空両方の封鎖が続きますが、スタンレー飛行場はその機能を失わず、フォークランドが陥落前日の6月13日まで輸送作戦が継続されました。C-130輸送機は31回着陸と2回の空中投下を実施。400tの貨物を輸送し、261名の負傷者を後送しています。L-118輸送機とF28輸送機もC-130とほぼ同じ回数着陸し、70tの装備と340名の人員を輸送しています。[6]

 なお空輸された装備には、数少ないアルゼンチン支援国から送られたSA-7携帯式地対空ミサイル、さらに対艦用に持ち込まれた(とも考えられる)、4門の155mm榴弾砲もありました。[3]

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http://www.thinkdefence.co.uk/2013/02/that-famous-runway-at-stanley-part-3-post-conflict/
フォークランドへ空輸されたSA-7携帯式地対空ミサイル

 輸送部隊はとにかく撃墜されることを避け、航空優勢のないフォークランド付近では夜間に海上から15mの超低空飛行を実施、イギリス軍の捜索を回避しています。さらに着陸後も、エンジンを切らず即座に離陸できる態勢を保つなど、徹底して生存性の向上に努めています。[7]

 スタンレーの地上レーダーも、輸送機がハリアーに見つからないよう、安全な飛行ルートを指示し続けました。状況次第では引き返すように指示したかもしれません。これらの努力もあって輸送機が撃墜されることはありませんでした。(哨戒飛行中に撃墜された1機のC-130を除く[7]



■スタンレー飛行場攻防戦の結果■

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現在のスタンレー空港。駐機場の南側には爆撃のクレーターが残っている。

 フォークランド諸島が封鎖されて以降、アルゼンチン軍の唯一ともいえる命綱がこのスタンレー飛行場でした。幾度となく続いた攻撃に耐え、不利な状況にあったアルゼンチン軍を支えました。それだけに開戦前の準備不足は悔やまれます。海上封鎖が始まるまでの約1ヶ月間に、延長資材や燃料が到着していれば…


出典(最終閲覧日2015年9月18日)

[1] Thinkdefence.co.uk That Famous Runway at Port Stanley – Part 1 (Pre Conflict) Posted by Think Defence / February 26, 2013

[2] Difence of the REALM Operation: Condor (1966) – Argentina Invades Stanley Racecourse  Posted by Tony Wilkins / December 29, 2014

[3] Thinkdefence.co.uk That Famous Runway at Port Stanley – Part 2 (Conflict) Posted by Think Defence/ February 28, 2013

[4] Aプライス&Jエセル著、江畑謙介訳 空戦フォークランド ハリアー英国を救う ISBN 4-562-01462-8(1984年5月10日)P14

[5] 防衛省防衛研究所 フォークランド戦争史 第8章 海上作戦の観点から見たフォークランド戦争 P157~158(PDF版P9~10)

[6] Aプライス&Jエセル著、江畑謙介訳 空戦フォークランド ハリアー英国を救う ISBN 4-562-01462-8(1984年5月10日)P248~249

[7] Aプライス&Jエセル著、江畑謙介訳 空戦フォークランド ハリアー英国を救う ISBN 4-562-01462-8(1984年5月10日)P83,163

本文中の地図は
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4e/Falkland_Islands_topographic_map-en.svgより
衛星写真はGoogle Mapsより

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