第12回 日本軍と冷蔵庫 パート2

文:nona

■陸軍における冷凍食品■

 海軍に比べると陸軍では冷凍食品の導入が遅れていました。野営と行軍を繰り返す陸軍は冷凍の維持が困難であったこと、1918年から1922年のシベリア出兵の経験から(炊飯)大陸の寒冷地で解凍が困難になる状況を想定してのことでしょうか。1932年の時点で冷凍魚を副食としたのは内地では北海道、東京、京都、福岡の部隊のみで、その中でも冷蔵施設を持っていたのは北海道だけでした。北海道以外ではその日に必要な量を業者の冷凍庫から運び込ませていました。[1]

 しかし陸軍糧秣本廠の川島四郎(終戦時に少将)は「将来の戦場と冷凍魚は切っても切れぬ間柄にあり平時より冷凍魚の使用に慣熟して居らねば、戦争に当たって急に周章せねばならぬ自体となる」とのことで、寒冷地での冷凍魚調理法を団体炊事(給食)の専門誌「糧友」に公開しています。また同氏の1940年の講演会では「第一次上海事変(1932年)では野戦用の組立式冷蔵庫が登場しており、現在(1940年当時)では金属資源節約のため缶詰に変わって冷凍魚が戦場に送られている[1]」としています。

image001
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04011543700、昭和8.3.16~8.3.30 「満受大日記(普) 其5」(防衛省防衛研究所)」糧食品追送の件

神戸バランスキッチン カロリーリセット・Bセット 7食セット
神戸バランスキッチン
売り上げランキング: 68,563

  1933年に関東軍あてに送られたとされる食糧の品目には冷凍魚24000貫(90トン)が記録されています。この時に限っては塩乾魚15000貫よりも多くの冷凍魚が送られていたようです。冷凍食品は現地の食料調達に頼ることのない点がメリットですが、冷凍設備がないとあっという間に腐ってしまいます。そこで組立式冷蔵庫や自動車々載用冷蔵庫によって生鮮品の保存と輸送を実施しました。

 なお「組立式冷蔵庫」なるものですが、全く資料が見つけられませんでした。恐らくは現代のプレハブ式冷蔵庫のような代物であると考えられるのですが、アジア歴史資料センターで公開されていた「組立式冷蔵庫」の記述がある文書[2]をまとめると、

・型番はVB(V8?)型組立式冷蔵庫?
・昭和14~16年には中国戦線向けに部品が送られていた
・動力は坂井発動機製作所の石油発動機を使用。種類もA型(10馬力)かSK型(4馬力)があった?
・冷媒には無水アンモニアが使用されている
・外板は木材を使用
・外部から温度を計測するための小孔と温度計に関する記述がある
・頻繁な扉の開閉を避けることで燃料節約に繋がる、と現在では一般的な知識が1ページほど割いて解説されている

…など断片的な情報は得られたのですが、詳細はつかめませんでした。


■戦争と冷凍食品■

 日中戦争が激化すると、食糧保存の一環として冷蔵倉庫の建造進みます。加工に金属資源が必要な缶詰は戦闘食として用いるものとされ、通常食として大量の冷凍食品によって賄うことを想定したためです。1938年には「水産食料品供給確保施設補助規則」によって、さらなる冷凍倉庫建設の奨励策が制定されています。これは水産物の主要生産地における冷蔵倉庫の設備費の半分を補助するのもでした。この時期にサイパン、トラック、パラオの漁港に冷蔵倉庫が計画されています。(軍事転用については不明)。1941年までには13万9000トンの凍結水産物が製造され、冷凍青果物も1939年の2490tから1944年の4万1817tへと膨れ上がりました。[3]

 軍用に大量の冷凍食品が備蓄された一方で、一般市場からは冷凍魚が姿を消しています。さらに1941年には鮮魚が配給制となっており民間では入手できる種類、量、質が大きく低下しました。[4]

 このとき配給に回された鮮魚の一つがイワシでした。これは保存加工が追いつかず、肥料として売らざるを得なかったイワシを冷凍保存したものだったようです。イワシは「国民の保健的食糧」
[3]と位置づけられ、特に青少年のためのタンパク源として確保しようと計画されたようです。

 また1940年8月の米による石油禁輸によるエネルギー不足は冷蔵倉庫の維持も困難にしています。このため冷蔵倉庫では冷凍温度を上げ、味を犠牲にして冷凍保存を維持していました。国内では石炭や水力の電力供給もあってか、終戦まで冷蔵倉庫はなんとか機能したようです。ちなみに給糧艦「間宮」の諸元の記録によると冷凍機能による燃料消費で3000海里(約5600キロメートル)の航続距離低下を招く[5]とされていました。

 また冷凍食品自体の生産量の低下も避けられず、冷凍水産物の生産量は1944年には6万7000トン[6]と1941年と比べ半分に落ち込んでいます。これは漁船の燃料欠乏や、船員と漁船の軍事転用[7]が原因と言われます。1945年には冷凍青果物の生産量も9993tと前年の1/4にまで低下しています。[6]こちらは海軍の活動が低調になり、冷凍青果物の需要が低下した為でしょうか。

 そして1945年に終戦をむかえることになりますが、冷凍青果物の在庫は大量に倉庫に残されていたそうです。このまま市場に流しても一般の野菜と変わらないため(保存性ではむしろ劣る)、ニチレイの仙台支社ではこれらを様々な食品に加工したようです。冷凍かぼちゃはシャーベットに、サツマイモは芋羊羹に姿を変えています。冷凍のたけのこから作られたメンマ[8]は、中国からの引揚者が営んでいたラーメン店で大いに重宝されたようです。さらに1948年に試売された、日本最初期の調理冷凍食品「ホームミート」も海軍向けの「冷菜」が元になっていたそうです。[7]


■おまけ■

 なお軍艦向けの電気冷蔵庫は調達や転載時のための訓令が残っているようなので、その一部を紹介いたします。下の文書では「大井、北上は電圧XXのため戦艦からの冷蔵庫転載は不能」「電気冷蔵庫は新に配給」と記録されています(電圧過高によるものか不足によるものかは不明)。ところで電圧といえば海上自衛隊の護衛艦「しらね」の火災が思い出されます。「しらね」では冷温庫を無断でCICに持ち込み、変圧なしで使用していたところ2007年に出火、CICを全損するという
事故[8]を起こしたのです。特殊な環境で電化製品を使用する際は十分に気をつけてください。

image002
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034246700、公文備考 昭和10年 F 艦船 巻1の2(防衛省防衛研究所)」


出典(最終閲覧日2015年9月6日)

[1] 村瀬敬子著 冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年 ISBN4-8460-0392-2(2005年10月20日) P178
[2-1] JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04120810600、昭和14年 「陸支受大日記 第16号 2/2」(防衛省防衛研究所)
[2-2] JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04123407300、昭和16年 「陸支密大日記 第46号 2/2」(防衛省防衛研究所)
[2-3] JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04123416000、昭和16年 「陸支密大日記 第47号 2/3」(防衛省防衛研究所)
[3] 村瀬敬子著 冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年 ISBN4-8460-0392-2(2005年10月20日) P174~175
[4]法政大学大原社会問題研究所 日本労働年鑑特集版 太平洋戦争下の労働者状態 第二章 第二節 食生活の推移(二)――副食品の配給と消費――
[5] JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015180200、公文備考 艦船25止 巻50(防衛省防衛研究所)」
[6] 鹿児島県 水産技術開発センター
[7] 村瀬敬子著 冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年 ISBN4-8460-0392-2(2005年10月20日) p180
[8] 防衛省「護衛艦「しらね」の火災事案について」の概要

吉野家 牛丼の具 冷凍 135g×10個入り
吉野家シリーズ
売り上げランキング: 2,541