第11回 日本軍と冷蔵庫 パート1
文:nona
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/hiraga2/show?id=10260101(平賀譲デジタルアーカイブより)
日本海軍各艦の冷蔵庫容量比較(資料番号:1026〔「兵員室及倉庫面積・要領」,「冷蔵庫容積及製氷機能力比較表」,「寝室,兵員食卓及釣床」,「兵員室寝台装備要領及被服箱大体」綴〕
温度別に野菜・肉・魚肉と分けるなど管理が徹底されている。
日本冷蔵史の本を読んだ際、陸海軍に関する記述が興味深かったので自身で詳しく調査してまいりました。1920年代に日本で普及が始まった冷蔵庫と冷凍食品。当時は一般家庭に受け入れられずにいたものの、大いに関心を持っていたのが当時の日本海軍。1930年代には陸軍にも波及、中国戦線では野外用の組立式冷蔵庫も実用化されました。政府も奨励金を出して冷凍倉庫の建設を支援するようになり、将来の戦争の兵糧は冷凍食品が不可欠であると考えられていました。
■機械化冷蔵庫と海軍■
機械による冷凍・冷蔵庫の歴史は古く、1824年のカルノーサイクルの理論に始まり、1834年にはパーキンスによる圧縮式の冷凍装置が発明[1]されています。商業利用が始まるのは第二次産業革命(1865年から1900年)の時代でした。1882年には冷凍船ダニーデン[2]がニュージランドとイギリス間の冷凍肉輸送を行い商業的な成功を収めます。
この成功の要因は従来の塩乾肉や缶詰など手間のかかる保存処理が不要だったので、安価に新鮮な生肉として販売できたためです。冷凍技術の普及によって欧米の食糧事情は大いに改善し、人口増と労働者の第二次産業(工業など)への集中が進んだことで、さらなる経済発展にも付与しています。
戦艦三笠の断面図。艦首に冷蔵庫を備える。三笠記念館内で撮影。
この冷凍技術は劣悪な食糧事情を改善するため艦船へ導入されています。前ド級戦艦や装甲巡洋艦の時代に搭載が始まっていたと考えられ、1902年に竣工した戦艦三笠にも冷凍室が設けられています。なお駆逐艦については搭載が遅れるものの1928年就役の吹雪型駆逐艦から冷蔵庫が搭載された[3]とのことです。
さらに1930年代には電気式冷蔵庫が吹雪型以前の駆逐艦や、戦艦や巡洋艦の司令部向けに搭載されています。この様子は防衛省防衛研究所に残された当時訓令から確認できます。
■民間における冷凍食品■
日本では1920年代ごろに冷凍食品の販売が始まります。1920年に実業家の葛原猪平がアメリカ流の冷凍魚の販売を行うため、日本や朝鮮の主要漁港と湾岸都市に冷凍倉庫を構えています。最初に導入されたのは北海道の森町、函館市にほど近い位置い漁港でした。当時はアメリカ製のアンモニア冷凍機と木炭ガスエンジンによって1日10tの魚を冷凍し、最大で260tの冷凍魚を保存[4]していました。現在はニチレイ森工場[5]として、主にコロッケを製造しています。
政府も1923年に「水産冷蔵奨励規則」[6]を制定し、冷蔵倉庫の建造に奨励金を交付しています。これは当時、日本における爆発的な人口増に対応するため、冷凍食品を食糧問題解決のための救世主として位置づけたためです。当時国政に進出していた葛原猪平によると1929年に「アメリカでは冷凍冷蔵によって一人あたり年間約94kgもの肉食を行っているものの、日本人は約16kgの魚食をしているに過ぎない」と語った上で、日本による海洋資源の開発で魚食環境がアメリカの牛肉食並みになれば「世界に超然たる強みを持ちえる」[7]と提唱しています。
大いに期待された冷凍魚ですが、当時の一般家庭にはそれほど浸透していません。冷凍魚はいつでも安価に購入できるとの触れ込みで販売されましたが、食味は大きく劣ると考えられていたのです。当時の包装がパーチメント紙(カニ缶に入っている紙)だったようで、密閉が不十分で保存中に身の乾燥や油焼け(油分の酸化)を引き起こしていた[8]こと、さらには傷んだ魚をごまかすために冷凍された魚が出回ったこと[9]などが不評の原因だったそうです。また販売店や家庭で適切な解凍法が知られておらず、冷凍魚の体液流出が防げなかったことも味を落とす原因でした。
冷凍魚のネガティブなイメージを払拭するため、当時の日本冷凍協会[10]は熱心に普及活動を行っています。主婦雑誌で宣伝記事を掲載し、各地の女学校教師を招いて冷凍魚の調理研修会も開いています。解凍法については水につけて解凍する方法が紹介されていました。現代でも一般的な方法です。
なお当時の冷凍機販売員の談によると、銀座松屋の夜間巡回員が変に気をきかせてしまい、夜通し動いている冷凍ケースの電源を切切ったことで商品を全滅させる、という珍事[11]も発生したようです。当時の冷凍機械は高価で珍しいものでしたから、その扱いも理解が遅れていました。
■海軍における冷凍食品■
一般向けの普及に苦労していた冷凍食品ですが、海軍では逆に大量購入をしていました。冷凍魚が天候による不漁の影響を受けず、定量を安価に調達できることが団体炊事(給食)を行う海軍にとって好都合であったためです。また呉でのコレラが流行した際、当地で採れた魚からの集団感染を避けるため、冷凍魚を大阪から調達したこともあるようです。この経験から海軍はさらに冷凍食品を重視するようになります。[12]
魚以外では野菜も1932~33年にかけて冷凍が行われるようになり、ホウレンソウ、たけのこ、人参、グリンピース、えだまめ、そら豆、キヌサヤエンドウ、いんげんが「凍菜」として導入されました[13]。これは軍艦(と民間の遠洋漁業船)のように長期航海中の食糧事情の改善に貢献しています。昭和12年以降はとうもろこし、さつまいも、大根、かぼちゃ、白菜、キャベツも「凍菜」になります。さらには冷凍乾燥[14](フリーズドライ?)の研究も行われていたようです。
牛肉も全て冷凍されたものを調達しています。1934年には中国山東省の青島、アルゼンチン、オーストラリア、そして国産の牛肉を調達していますが、国産牛は海軍のためにわざわざ冷凍したものを卸したようです。ちなみに青島は以前ここに利権を持っていたドイツの影響で東アジア随一の肉牛生産地でした。第一次上海事変直前の1932年には日本が輸入した牛肉の90~80%が青島産だったそうです。[15]
一般の家庭冷凍で問題になった解凍についてもかなり研究を行われたようです。「給糧艦間宮現状 附冷凍魚の還元及取扱法」[17]では10ページ強を魚の解凍法にあて、最適な調理ができるように指示されていたようです。かつて団体炊事(給食)の専門誌「糧友」では解凍方法について懸賞[16]を募って研究を行っており、この成果が元になっているかもしれません。なお「給糧艦」とは主に食糧の運搬と補給を行う海軍の艦艇で、「間宮」はこれに食品の加工設備を備えた世界でも珍しい大型給糧艦でした[17]。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015180100、公文備考 艦船25止 巻50(防衛省防衛研究所)」レファレンスコードC04015180100
海軍では魚種や解凍時間に合わせ、細かく解凍法が定められていた
パート2へ続く出典(最終閲覧日2015年8月28日)
[1] 「ヒートポンプ」の実用性能と可能性p14(PDF版p4)ISBN978-4-526-06566-8
[2] ANZCO FOODS PDF資料6ページ
[3] 東京江戸川工廠 吹雪型駆逐艦
[4] 発祥の地コレクション 日本冷凍食品事業発祥之地
[5] ニチレイフーズ 森工場
[6] 村瀬敬子著 冷たいおいしさの誕生―日本冷蔵庫100年 ISBN4-8460-0392-2(2005年10月20日)p152
[7] 同p156~157
[8] 同p170
[9] 同p161
[10] 同p159
[11] 同p162~164
[12] 同p171
[12] 同 p176
[13] 同p157~158
[14] 同p175
[15] 河端正規 青島守備軍支配下の食牛開発
[16] 冷たいおいしさの誕生 よりp173
[17] JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015180100、公文備考 艦船25止 巻50(防衛省防衛研究所)」レファレンスコードC04015180100
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コメント
続きが楽しみです
電力は足りてたのだろうか?
備蓄なら缶詰の方がいい気がするけど
infoseekは確かにもったいなかった
一日大体250グラムぐらいか、アメリカにしては意外と少ない気がする
>>日本人は約16kg
一日大体43グラム。少なすぎぃ!
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