<水上機爆撃隊の野望~空母いらずの艦載航空打撃力>
文:烈風改
日本重巡の要目や図面を眺めていると、二五番(250㎏)爆弾の格納を示す部分があります。重巡の水上偵察機が何故爆撃を行う必要があるのでしょうか?
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昭和4~5年頃、米国海軍が採用した高命中率の新戦法・急降下爆撃の有効性が認識され「まず急降下爆撃機で相手空母の飛行甲板を潰す」という戦法が日本海軍でも検討されるようになります。
そして昭和10年、無条約時代への突入が不回避と判断した日本海軍は新局面に対応した対米艦隊戦略を構想します。同年の『昭和十六年度帝国海軍海軍編制案』では主力空母は全艦が急降下爆撃機である艦上爆撃機を主体とした搭載構成で、目的も「敵航空母艦攻撃」を第一任務としていました。
しかし、翌々年の昭和12年3月『艦船飛行機搭載標準』で赤城と加賀の任務は「敵主力艦(戦艦)攻撃」へと変更されてしまいます。これは敵空母を先制攻撃する急降下爆撃機の数が減少することを意味しますが、それまででも米空母部隊に対して決して有利では無かった急降下爆撃機の減少は避けなければならないことでした。
つまり日本海軍の艦隊航空部隊は「航空母艦を増やさずに、艦隊の急降下爆撃機戦力を増やす」という命題を課されたのです。
この解決法として取られた対応策の一つは「艦戦の搭載数を減らして艦爆数を増載する」という方法でしたが、限られた搭載数では自ずと限界が有ります。そこで考えられたのが、「空母と行動を共にする第二艦隊の巡洋艦に搭載されている水上機を急降下爆撃に使用する」という妙策でした。
今日の視点で見ると、劣性能の水上機を性能低下を忍んで無理に急降下爆撃機として使う…という苦し紛れの考えにも思えますが、当時の水上機と艦上機の飛行性能はまだそれほど隔絶したものではありませんでした。
例えば同時期の九五式水上偵察機と九四式艦上爆撃機の最高速度はそれぞれ299 km/hと281km/hと水上機の九五水偵の方がやや優速な程です。
また昭和5年の『性能標準』には戦艦搭載用の「偵察兼攻撃機」という雷爆撃可能な水上機の計画が有り、艦載水上機を対艦攻撃任務に充てるという発想もそれほど唐突なものでは無かったことが伺えます。
このような経緯で前述の『艦船飛行機搭載標準』の作成と同年月の昭和12年3月に技術会議で開発が決定されたのが、最初から急降下爆撃を念頭に置いた十二試二座水上偵察機でした。この機体の要求性能は十一試艦上爆撃機(後の九九艦爆)とほぼ同等であり、完成すれば艦爆に引けを取らない有力な急降下爆撃戦力となる筈でした。
しかしながら、この構想には様々な問題点がありました。
1.発進の問題
複数の水上機を短時間で連続発進させるにはカタパルトで射出する必要がありますが、射出間隔の問題やカタパルト自体の故障や不具合など可能性もあり、空母の飛行甲板からの発進と比較するとリスクは大きかったようです。
2.空中集合の問題
2~3機を多数の艦に分散しているため、数隻の空母からの空中集合にも四苦八苦していた当時は多数の艦の機体を集結させるのは困難な事柄でした。
3.回収の問題
水上機運用の最大の問題点は帰還した機体の回収方法でした。外洋では艦を旋回させて静水面を作る等の方法で機体を回収しますが、発艦と同じく短時間に多数の機体を収容するのは難しく、戦場では悠長に多数の着水機回収を行う余裕はありません。
ハインマットのようにより効率の良い連続揚収方法も研究されましたが、決定打となる手法は遂に得られませんでした。(結果的に、各艦ごとの揚収は行わず水上機母艦に任せて、再攻撃は行わないといった妥協案が模索されていたようです。)
また十二試二座水偵は過大な要求性能から昭和14年に各社案共に不採用となりました。降爆可能な二座水偵の開発は不採用決定から間をおかず十四(十六)試二座水偵に引き継がれましたが、試作機の完成は昭和17年まで待たなくてはなりませんでした。
この間に艦隊航空戦の構想は大幅に変化し、昭和16年には全主力空母を戦艦部隊や巡洋艦部隊から切り離して集中運用する第一航空艦隊が編成されます。これにより当面の艦爆不足は解消されたため、巡洋艦搭載水上機による急降下爆撃部隊の必要性は薄れてゆきます。
一方で十六試二座水上偵察機の開発は淡々と続けられ、昭和17年5月には社内飛行にこぎつけます。例え対艦急降下爆撃部隊を編成しなくても戦闘・偵察・観測・昼間触接という多用途な任務を持つこの機体は、次期搭載二座水上機として戦艦・重巡への搭載は規定路線でした。当時着工された伊吹型重巡の艤装図には十六試二座水偵―瑞雲が搭載機として描かれており、次期二座水偵というポジションに変化は無いことが解ります。
このような状況の中で、ミッドウェー海戦で4隻の主力空母を喪失したことにより皮肉にも艦隊航空隊は再び「航空母艦を増やさずに、艦隊の急降下爆撃機戦力を増やす」という命題を突きつけられることになります。
ただ、この時に取られた解決方法は「空母以外の艦に改装を加えて新型艦爆(彗星)を射出する」というものでした。既に艦上機と水上機の性能は乖離しており、一世代以上の開きがあったのです。しかし、結局は新鋭艦爆彗星の生産遅延から、航空戦艦はその搭載機の半数を瑞雲とすることを余儀なくされます。昭和19年に至っても、第一線母艦航空隊にさえ九九艦爆を配備しなければならない状況では、九九艦爆とほぼ同等の性能を持つ瑞雲の搭載はやむを得ない判断だったのかも知れません。
重巡に搭載される瑞雲も以前のような水上爆撃機部隊の編成を積極的に企図していたかどうかに関しては確かな資料が無く不明瞭ですが、訓練や試験を除いて艦艇に瑞雲が搭載されることは遂に無かったのです。
<著者紹介>
烈風改
帝国海軍の軍艦、特に航空母艦についての同人誌を多数発行。
代表作に『航空母艦緊急増勢計画』
Twitter: https://twitter.com/RX2662
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コメント
艦載水上機が現代の対潜ヘリみたいな役目を与えられているとかちょっと想像が飛躍しすぎですかね
浮上中の潜水艦は60㌔爆弾で十分かと
なので250㌔は明確に過剰装備だと思います・・・
重巡以下の艦艇同士での偶発的戦闘下での攻撃補助、もしくは上陸作戦の支援機とかも考えられますがなんでしょうかね
なので、艦隊決戦の直前に偵察・弾着観測・攻撃など、ここぞという時にワンチャンスで投入するという意味合いの強い兵器です。
潜水艦に襲われそうな海面で水上機の回収は極めて危険ですし、船団護衛の水上機も基地から飛ばしていたようですね。
対潜哨戒は空母にやらせる意向が強かったようで、昭和16年ごろには龍驤や鳳翔をこれにあてる予定でした。
ウィキペディアの角田覚治提督のページには、この事例を「攻撃力を補うために巡洋艦搭載の九五式水偵4機を爆装で出撃させて2機を喪失するなどの強引な用兵で被害を出した。」と表現していますが、戦前からの構想ですから当時として特に違和感なく行われたものではないかと思います。今さら編集合戦には参加しようとは思いませんが、「強引に」の一言はこうした経緯を知らない編集者の主観ではないかと感じています。
艦隊決戦の序盤において一刻も早く敵を発見するために、多くの偵察機を飛ばします。
敵を発見したならば、直ちに「テテテ(敵有りの略)XXX(機番号)」を連送して、『突撃』します。敵艦隊に随伴する空母の飛行甲板に穴をあけるためですね。成功すれば戦闘海面における敵の航空活動を大きく阻害できます。この場合には水爆の安全は放棄することが求められたのでしょう。
日本艦隊では偵察計画に沿って水爆を発進させているので、敵の位置を知ることができます。(機番、コース、発進時刻、速度、受信時刻などから推測)
こういった運用を目指したならば(実現しなかったけどね)、水爆の空中集合の困難などは杞憂ではないのでしょうか?
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