<陸軍戦闘飛行戦隊の分類とナンバリング>
文:加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
太平洋戦争中の日本陸軍航空隊のうち、飛行分科「戦闘」に属する飛行戦隊はのべ54個戦隊存在する。しかし陸軍は飛行分科に応じて戦隊名称を区別するような方式をとらず、一見通し番号のような2~3桁の数字で表示するため、どれが戦闘機隊なのか、具体的な部隊名を知るものでなければ特定は難しい。また、陸軍の表示方法はともすれば無味乾燥な印象を与えやすく、海軍航空隊の「台南空」や「302空」のような個性に結び付きにくいのも、陸軍航空を海軍航空に比べマイナーにしている理由の一つであろう。
しかし、全54個戦隊を詳細に分析すると、編成経緯やその順番に応じて、個性ともいうべき幾つかの傾向を見出すことができる。手がかりとなるのは、「一見通し番号のような」飛行戦隊のナンバリングで、これと各飛行戦隊の編成経緯には当然のことながら深い関係性が存在した。
以下に述べるのは、全54個戦隊を11グループに細分化し、それぞれの編成過程の特徴について言及したものである。
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グループA 旧飛行連隊部隊(昭和12年まで)
1・4・5・9・11・13の6個戦隊。
戦前の飛行連隊をルーツとする古参飛行戦隊。
古くは大正10年の航空大隊を前身とする飛行第1連隊から、昭和12年編成の飛行第13連隊まで歴史はさまざまだが、いずれも飛行連隊編制の時代に発足。昭和13年の空地分離に伴う編制改正で飛行戦隊と改称したもの。空地分離以前の地上勤務者を飛行場大隊として編制内に保有していることが多く、開戦当時はその大がかりな体制ゆえか、半数の3個戦隊(4・5・13戦隊)は教育錬成兼務の留守部隊として内地に残留していた。
【ナンバリングの特徴】
旧飛行連隊時代の通し番号をそのまま戦隊番号としている
グループB 空地分離に伴う編成部隊(昭和13年)
24・33・59・64・77の5個戦隊。
昭和13年の空地分離に伴う編制改正時に編成された部隊。
日中戦争(北支事変)に派遣中の飛行大隊を改称したもの(64・77の2個戦隊)と、飛行連隊が飛行戦隊に改称する際、株分けの形で編成されたもの(24・33・59の3個戦隊)の混成。グループAの飛行戦隊と同じく、太平洋戦争開戦のころには古参戦隊と呼べる域にあり、開戦直後の南方進攻作戦では中心的な役割を担った。
【ナンバリングの特徴】
法則性のない、ただしグループAの飛行戦隊より多い2桁の数字。
防諜と兵力規模の秘匿を目的に無作為な数字が選ばれたものと推測。
(前コラム「飛行第64戦隊は64番目の飛行戦隊か?」参照)
グループC 開戦準備に伴う編成部隊(昭和15年~16年)
50・54・70・85・87の5個戦隊。
昭和15年から16年の太平洋戦争突入までに編成された部隊。
ノモンハン事件後の修正軍備充実計画(2号計画)に基づき、戦闘機兵力枠の拡大を目的に新設。昭和15年編成の50戦隊が比島進攻作戦で限定的な役割を果たした以外は、開戦時はまだ部隊として錬成不十分な段階にあった。その活動範囲は南方より北方が中心であり、他のグループでは珍しい二式単戦を集中的に装備し、長く中国・満州・樺太・千島方面で警戒配置に就いていた。
【ナンバリングの特徴】
グループBと同じく特に法則性はない。
しかし満州で同時に編成され、同じ飛行団を形成し、共に二式単戦へ改変した85・87の両戦隊については、編成時から意識的に類似した番号を充てられたものと想像される。
グループD 防空専任部隊(昭和16年~17年)
244(当初144)・246・248の3個戦隊。
昭和16年中に144(のち244)戦隊が、昭和17年のドーリットル空襲後246・248戦隊が編成され、入れ替わりする野戦飛行部隊と異なり、防空任務に専念する防空専任部隊として関東・中部・九州に1個戦隊ずつ配備された。しかし戦況の悪化はそのような余裕ある運用を許さず、248戦隊がニューギニア、246戦隊が比島捷号作戦、そして防空部隊で最高の戦果を誇った244戦隊も沖縄作戦に抽出され、野戦飛行部隊に転じていった。
【ナンバリングの特徴】
昭和16年に144戦隊が一足早く編成後、翌17年244戦隊と改称。
同じ17年中に246・248戦隊が編成され、防空専任3個戦隊は既存の番号から大きく離れた「24○」番台で統一され、他の野戦飛行部隊との区別が明瞭になった。
グループE 戦争前半の編成部隊(昭和17年~18年前半)
63・68・78の3個戦隊。
太平洋戦争突入後の昭和17年から18年前半までに編成された部隊。
戦線の拡大に伴い戦闘機隊(この時点では野戦飛行部隊)の需要も激増したが、当時の日本陸軍は既存の戦隊を新型機(一式戦・二式単戦・二式複戦)に更新するのが精いっぱいで、いかに最新鋭の三式戦2個戦隊(68・78戦隊)を含むとはいえ、わずか3個戦隊の純増では明らかに不足していた。
【ナンバリングの特徴】
63戦隊は既存の62戦隊(重爆隊)と64戦隊(グループB)の間の欠番を充当。
また同時に編成され、同じ飛行団を形成し、共に三式戦へ改変した68・78の両戦隊については、編成時から意識的に類似した番号を充てられたものと想像される。
グループF 独立飛行中隊発展部隊(昭和17年~18年)
21・25・47の3個戦隊。
日中戦争(北支事変)から開戦直前にかけて編成された独立飛行中隊が、その後増強され飛行戦隊に昇格した部隊。昭和17年から18年にかけて3個戦隊が編成された。
【ナンバリングの特徴】
47戦隊は前身の独立飛行47中隊の番号をそのまま継承した。
21戦隊は前身の独立飛行84中隊が属した第21独立飛行隊に由来すると思われる。
25戦隊は前身の独立飛行10中隊と数字に関連性がなく、既存の24(グループB)と27(襲撃隊)の間の欠番を、後述の26戦隊とで充当したものと思われる。
グループG 機種転換部隊(昭和19年)
26・28・29・30・31の5個戦隊。
昭和19年の戦闘機増勢方針に基づき、別分科の飛行戦隊を戦闘機隊に機種転換したもの。
転換の対象となったのは、小型で比較的軽快な軽爆・襲撃・軍偵隊で、戦闘機隊への改変後も、制空戦闘より地上攻撃や艦船攻撃にしばしば本領を発揮した。28戦隊は司偵隊が本土防空のため、高速・高高度性能に優れる武装司偵を装備して防空戦闘機隊に変身したもので、他の4個戦隊とは編成の経緯が異なる。
【ナンバリングの特徴】
いずれも機種転換前の戦隊番号をそのまま使用。
従って既存の戦闘機隊の空白帯(24~33戦隊)の間を埋めるような番号が続いている。
グループH 戦争後半の新編部隊(昭和18年後半~昭和19年)
17・18・19・20・23・48・53・55・56の9個戦隊。
昭和18年後半から、「戦闘機超重点」方針に基づき集中的に増強が図られた戦闘機隊の新規増勢分。わずか1年間で9個戦隊も増加したが、これは既存機種(一式戦・二式単戦・二式複戦・三式戦)の装備部隊のみの数字であり、期待の新鋭機・四式戦部隊は含まれていない。このグループは編成後日も浅く錬成不十分なまま、戦争後期の比島捷号作戦、本土防空戦で圧倒的優勢な連合軍航空兵力と対戦し、苦しい戦闘を繰り広げた。
【ナンバリングの特徴】
戦闘機の同一機種、集中使用が常識となったことを物語るように、三式戦装備の5個戦隊はいずれも連番(空白帯であった17・18・19と55・56)でナンバリングされており、実際にそれを意識した部隊編制・運用がおこなわれている。
一式戦装備の20戦隊は19戦隊(同じグループH)と21戦隊(グループF)の間の欠番を、23戦隊は22戦隊(グループI)と24戦隊(グループB)の間の欠番を、48戦隊は47戦隊(グループF)の次の番号をそれぞれナンバリングされている。
また、二式複戦装備の53戦隊は52戦隊(グループI)と54戦隊(グループC)の間からナンバリングされている。
グループI 捷号作戦向け四式戦部隊(昭和19年)
22・51・52・71・72・73・101・102・103の9個戦隊。
昭和19年の捷号作戦に決戦航空兵力として投入が予定された飛行戦隊群。
機材は大東亜決戦機と期待された四式戦闘機。折からの戦闘機超重点方針のもと、試作中から急速大量生産を念頭に、短期間で10個戦隊編成という空前絶後の整備方針が構想された。構想は7割方実現し昭和19年秋から冬の比島捷号作戦で集中的に前線投入されたが、最後の3個戦隊(101・102・103戦隊)は間に合わず、実戦参加は次の沖縄作戦からとなった。
【ナンバリングの特徴】
四式戦は大量集中運用を前提に戦力化された初めての陸軍戦闘機であり、部隊編成及びナンバリングもそれを強く意識したものになっている。
すなわち、実用実験部隊として編成された22戦隊を除くと、51・52戦隊が50戦隊(グループC)と53戦隊(グループH)の間の欠番帯。
71・72・73戦隊が70戦隊(グループC)と74戦隊(重爆隊)の間の欠番帯。
101・102・103戦隊がこの時期から編成の始まった100番台最初の3つ。
のように、いずれも連番でナンバリングされている。
グループJ 準内地の現地編成部隊(昭和19年)
104・105の2個戦隊。
昭和19年後半に相次いで編成。この両戦隊の特異な点は、編成後104戦隊が満州、105戦隊が台湾から一切転用も移動もされず、それぞれ第2航空軍(≠関東軍)、第8飛行師団(≠台湾軍改め第10方面軍)の直属部隊としてローカルな扱いに終始した点である。この両者は本土決戦を控え、航空総軍が編成された際もその指揮下には属さず、あくまで満州・台湾防衛のために終戦まで現地にあった。
【ナンバリングの特徴】
103戦隊(グループIと106戦隊(司偵隊)の間の番号でナンバリングされた。
グループK 学校編成部隊(昭和17年。19年)
200・204(当初は教導204)の2個戦隊。
飛行学校から編成された珍しい飛行戦隊。昭和17年に満州の白城子飛行学校を基幹に白城子教導飛行団が編成された際、その構成部隊として教導204戦隊が編成された。しかし教導204戦隊は南東方面に進出した飛行団本部とは異なり、主にビルマ方面で活動したため、のちに「教導」の文字は外されている。さらに昭和19年秋、比島捷号決戦の直前、陸軍戦闘隊の総本山・明野教導飛行師団(明野飛行学校)の人員機材を抽出して200戦隊が編成され、グループIの四式戦部隊とともに比島へ進出したが、同方面で壊滅し解散された。
【ナンバリングの特徴】
サンプルとなる部隊数が少なく状況証拠による推測となるが、教導204戦隊と共に白城子教導飛行団を構成した軽爆戦隊が「教導208戦隊」であることから、後年の200戦隊を含めて、陸軍は飛行学校から編成した戦隊には「20○」番台をナンバリングしていたようである。
グループN 教導飛行師団廃止に伴う編成部隊(昭和20年)
111・112の2個戦隊。
敗色濃厚な昭和20年7月、陸軍は戦闘・襲撃・偵察など分科ごとに編制されていた各教導飛行師団を廃止するとともに、作戦可能兵力を抽出し飛行団、飛行戦隊、独立飛行隊とする改変を行った。間もなく起こるであろう本土決戦を念頭に、作戦・教育を完全に分離することが目的の改編であったが、これに伴い明野教導飛行師団から111戦隊が、常陸教導飛行師団から112戦隊がそれぞれ編成され、日本陸軍最後の戦闘機隊として編制序列に加えられた。
両戦隊は飛行学校の人員機材を承継したため、通常の飛行戦隊の2倍の規模を持つ有力部隊であったが、折からの温存方針のもと、散発的な空戦のほか大規模な作戦は経験せず、間もなく終戦を迎えた。
【ナンバリングの特徴】
同じ第20戦闘飛行集団に属し、戦隊番号も111・112の連番。
110戦隊(重爆隊)に続くナンバリングで、一貫性のある通し番号としては最後の桁にあたる(112戦隊の次は204戦隊に飛ぶ)。
以上の54個戦隊のほか、陸軍戦闘機隊には教育飛行隊・錬成飛行隊といった教育関係部隊が多数存在していた。
そのうち戦力として期待できるのは、四式戦を含む実用機を装備し、実戦的な訓練を担当する錬成飛行隊であるが、これを飛行戦隊に改編する試みは実行されていない(逆に、解散した飛行戦隊の残存人員を教育関係部隊の基幹にすることはしばしば行われている)。
また、襲撃・軽爆分科の飛行戦隊で、一式戦や二式複戦を使用する部隊も存在するが、あくまで高性能な襲撃機として戦闘機を代用していたものであり、グループGのように正式な手続きを踏まえて戦闘機隊に転換した部隊はその後ない。その他新型機関係では、ロケット戦闘機キ200(秋水)の部隊配備が期待されていたが、陸軍では既存の70戦隊が装備部隊に予定されており、秋水のために新たに312空を編成した海軍とは好対照をなしている。
つまり、終戦の時点で陸軍が新たに戦闘飛行戦隊を編成しうる可能性は極めて低く、仮に昭和20年8月以降戦争が継続した場合でも、グループNの111・112戦隊が、正統な戦闘飛行戦隊としては最後の存在になったと思われる。しかしまた、「もしも」の世界でキ201(火龍)の装備部隊が、どのような戦隊番号を冠したか想像するのも、いち航空機ファンとしては楽しい限りである。
<著者紹介>
加賀谷康介(サークル:烈風天駆)
第2次大戦期の航空戦に関する研究を行う。
代表作に『編制と定数で見る日本海軍戦闘機隊』
URL:https://c10028892.circle.ms/oc/CircleProfile.aspx
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コメント
だがそれがいい
陸軍航空隊は勢力圏の内外に薄く広く展開したため、海軍航空隊にとってのラバウル方面のように「核」と呼べる戦場がなく、記述も散漫になりがちなのは否定できません。
ですが、部隊の編成傾向を丹念に見てゆくと、零戦の次の主力機問題が迷走して結果的に訳わかんなくなった海軍と比べ、四式戦をしっかり主力機に据えることのできた陸軍の方が、兵力増備の方針もその過程も明瞭で簡潔です。
自分で読み返してみるとややマニアックに過ぎた解説文ですが、多数の飛行戦隊が無事四式戦を装備して、ちゃんと実戦に参加できたんだという事だけでも伝わればと思います。
これからも陸軍航空隊のおもしろ話をお願いします!
陸軍航空隊戦記ってどうしても本土防空戦メインだったりしますもんね…。
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