ソ連軍の秘密戦史51
黄色軍


文:nona

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https://www.lsqww.com/zh-sg/zhanshizongshu/jsxw/1974.html
結局、ダマンスキー島(珍宝島)は中国が占拠することになった。

弔問外交で戦争回避


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https://www.baike.com/wikiid/6640942280380268494?from=wiki_content&prd=innerlink&view_id=4f0kbyx6f6b85c
コスイギン首相と周恩来首相


 ダマンスキー島の戦闘から半年後の1969年9月2日、北ベトナムの指導者であったホーチミン主席が死去。

 ソ連のコスイギン首相は葬儀に出席するためにハノイへ向かったのですが、その場で中ソ間で何かしらの接触があったようです。

 コスイギン首相は帰路において北京空港に降り立ち、周恩来首相と会談。話し合いの結果、両国が定期的に交渉の場を設けることがきまり、国境での緊張はひとまず緩和されました。

 しかし、ソ連による国境問題の凍結提案にもかかわらず、ダマンスキー島に人民解放軍が居座り続け、翌年の春には島への移住者まで住まわせたのです。


米国の反応

 両首相の会談に先立つ1969年8月、米国のソ連大使館に勤務するKGB職員は、米国務省職員との昼食の場で中国の核施設への米国との共同爆撃をほのめかし、反応をうかがいました。

 1963年のことですが、米国のケネディ大統領からソ連へ、中国の核施設に対する共同爆撃が打診したことがありました。

 この時期は中国の核保有が間近とみられており、かつ中ソ関係の悪化は誰の目にも明らかになっていました。

 米国はソ連が提案に乗ってくることに期待したものの、この時はフルシチョフが「中国の核兵器はソ連の脅威とはならない」と提案を拒否しています。

 6年前の米国にもそうした願望があったことを踏まえ、今回はソ連側から共同爆撃を持ち掛けたわけですが、国務省の職員は打って変わって否定的な見解を示しました。

 この頃のニクソン政権下の米国が、ベトナム戦争から脱却すべく中国との関係改善を模索していたからでした。

 中国も表面上は反米姿勢を崩していなかったのですが、非公式の場では思わせぶりな態度をとり、米国との有利な関係を築こうとしていました。

 モスクワは対中戦争時の懸念事項として第一に中国による核報復を危惧していたのですが、米国が中国側に立つ可能性もかなり警戒していた、と見られます。

 1969年7月に軍の長老4名は「われわれは予見しうる将来、アメリカ帝国主義者とソ連修正主義者が、共謀してあるいは個別に、中国に対して大規模な戦争を始めることはなさそうである」と周恩来首相に報告しました。

 彼らは文化大革命のあおりで地方に左遷された人々ではあったものの、その予測は的を射たものでした。


第二シベリア鉄道の建設再開

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https://zhuanlan.zhihu.com/p/28408844
アムール川で中国人の漁民と対峙するソ連の警備艇。


 両首相による会談後も両国の国境問題は解消されず、ソ連は7000kmに及ぶ長大な中ソ国境を警備し続ける必要に迫られました。

 特に極東の生命線であるシベリア鉄道は、約2500kmの区間が中国国境に近すぎるため、極めて脆弱でした。

 この指摘は満州を巡って日本と緊張状態にあった1930年代から存在し、1940年からバム鉄道(第二シベリア鉄道)の建設が開始されています。

 その後、ソ連を巡るめぐるましい情勢変化の中で建設の中止と再開が繰すものの、1950年代半ばには工事が中断。

 未完成の区間はしばらく放置されたものの、中ソ対立が激化しつつあった1967年にルートが再調査され、1974年から本格的に工事が再開されました。

 ただし、バム鉄道の開通は1984年までずれ込んだうえ、トンネルの掘削が完了していないために臨時に敷設した急こう配の路線が多く、輸送量に制約がありました。

 なお、ソ連はバム鉄道の敷設をシベリア開発が目的であると強調したものの、実際には軍用線としての目的が強く、路線の管理も主に軍の鉄道部隊が担当しました。


装甲列車の復活

 バム鉄道の建設と並行して従来路線の警備手段も模索され、一度は表舞台から姿を消した装甲列車の復活が決定します。 1971年に装甲列車の新規開発が開始し、BP-1やBTL-1が実用化されました。

 シベリア鉄道の沿線には舗装された道路網がほとんどないため、陸上戦力の迅速な移動にはこうした形態の兵器が最適でした。

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https://naukatehnika.com/files/journal/tehnika-vooruzhenie/suhoputnaya_tehnika/28.09.18-antikitajskij-bronepoezd-zhurnal/img%2012.jpg
装甲列車BP-1


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https://topwar.ru/41318-bronepoezda-na-transsibe.html
BP-1の対空砲モジュール


 装甲列車BP-1はディーゼル機関車、司令部モジュール、砲撃の可能な戦車モジュール、対空砲モジュール線路の修理と地雷対策機材を積んだ貨車に、戦車や装甲車を運ぶ貨車10数両が連結されています。

 より小型のBTL-1は8両編成の装甲列車であり、機関車、司令部モジュール1個、装甲対空モジュール2個、貨車4両で編成され、やはり戦車を搭載していました。

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http://balakliets.kharkov.ua/ocherki-voennoi-istorii/bronepoezda
BTL-1


 さらに、鉄道と通常の道路双方で使用できるBTR-40zhd装甲車も少数ながら生産されました。現在でいうデュアル・モード・ビークルです。

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https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%91%D1%80%D0%BE%D0%BD%D0%B5%D0%BF%D0%BE%D0%B5%D0%B7%D0%B4_%D0%91%D0%9F-1
BTR-40zhd。2015年にハバロフスクの戦勝記念パレードで公開された1両。



砲艦も強化

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https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%90%D1%80%D1%82%D0%B8%D0%BB%D0%BB%D0%B5%D1%80%D0%B8%D0%B9%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B5_%D0%BA%D0%B0%D1%82%D0%B5%D1%80%D0%B0_%D0%BF%D1%80%D0%BE%D0%B5%D0%BA%D1%82%D0%B0_1204
1204型

 中国東北部の国境は、主にアムール川や支流であるウスリー川の上に引かれています。ソ連はアムール川小艦隊を1961年に再編し重武装の砲艦を配備することで、国境を警備しました。

 1967年ごろから配備された小型の1204型は70トンの小さな船体に76mm戦車砲やロケット砲、機関砲を搭載した重武装艦でした。

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https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D0%B0%D0%BB%D1%8B%D0%B5_%D0%B0%D1%80%D1%82%D0%B8%D0%BB%D0%BB%D0%B5%D1%80%D0%B8%D0%B9%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B5_%D0%BA%D0%BE%D1%80%D0%B0%D0%B1%D0%BB%D0%B8_%D0%BF%D1%80%D0%BE%D0%B5%D0%BA%D1%82%D0%B0_1208
アムール川の1208型

 1975年以降は大型のヤズ級(1208型)河川警備艇が就役。内陸の都市ハバロフスクで11隻が建造されました。

 同艇は排水量約400トンの喫水の浅い船体に100mm戦車砲塔2基、AK-630 CIWSを2基、140mmロケットランチャー、重機関銃、グレネードランチャー、携帯式対空ミサイルなどを満載。20mmから30mmの装甲区画まで備えた重装備の砲艦です。

 このほか200トン級で武装を半分とした1248型、司令部機能を高めた1249型、揚陸艦や補助艦艇、軽武装の警備艇などが中ソ国境の河川警備に投入されました。

 これほどの陣容を誇ったアムール川小艦隊ですが、冬になると川に分厚い氷が張って身動きがとれません。

 仕方なく、冬の間はアムール川に点在する越冬基地につながれました。


フィンランドまで迫る黄色軍?

 横瀬榮一元陸将は中ソ対立期のフィンランドにおいて、以下のような小話があったとしています。

 あるとき、フィンランド駐在のソ連軍人が「フィンランドは近頃、東方国境で大演習をやっているが、これは反ソ的ではないか」とフィンランド人に問いただしたところ

 帰ってきた答えは「相手(の軍隊符号)は黄色軍で、われわれのほうは青い軍隊だ。黄色い軍隊というのはおそらく中国だろう。」というものでした。

 これは、当時のフィンランドがソ連に隷属的な立場にあれど、どこかに反抗心を秘めている、という状況を現したジョークでもあります。

 しかし、当のソ連自身も中国の勢力がソ連全土を制圧しそれがバルト海まで達する可能性を、冗談だと笑い飛ばせはしなかったのです。


和解の後も島には地雷が

 1985年の時点で、ソ連は中国と接する軍管区とモンゴルに50個の地上軍師団を配備していました。ただし、殆どの師団は見せかけで即応性のあるカテゴリーA師団は9個だけ。

 80年代のアフガン出兵や欧州における再冷戦の中、ソ連軍が極東に割ける兵力は限られており、それさえも停滞するソ連経済を圧迫していたのです。

 ゴルバチョフ書記長の就任以降、両国の関係は本格的に改善され始め、1991年5月16日に中ソ両国政府間で部分的な国境協定が締結されます。

 これにより、ソ連はダマンスキー島(珍宝島)が中国に属すると認めました。

 その後の新生ロシアと中国による交渉の結果、2008年7月21日に北京で調印された議定書で国境問題の全てに決着がつけられました。

 ただし、ダマンスキー島内には2012年の時点で大量の地雷が埋没されていたそうです。地雷は1969年夏以降に中国が埋設したものですが、洪水などの影響か正確な位置がわからなくなったようです。

 中露関係が安定している現在でも、中ソ蜜月時代のようにソ連が島を管理し中国の農民が島で自由に放牧をするような牧歌的な光景は、もう望めないのかもしれません。


参考


ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
続 ザ・ソ連軍 Inside the Soviet army(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎 訳 ISBN4-562-01414-8 1985年7月12日)
中ソ国境 国際政治の空白地帯(前田哲男 手嶋龍一 ISBN4-14-008487-1 1986年5月20日)
中国とソ連(毛利和子 ISBN4-00-430069-X 1989年5月22日)
シベリア鉄道 軍事と経済の大動脈(浅井勇 著 ISBN4-315-50659-1 1988年3月15日)
自衛隊のみたソ連軍 陸海空の対ソ防衛戦略(小沢和夫編 三岡健次郎 監修 1981年6月15日)

パワー・シフトと戦争 東アジアにおける事例を用いた因果分析
(野口和彦 2009年)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=25131