ソ連軍の秘密戦史47
中ソ対立の最前線


文:nona

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https://www.bbc.com/russian/features-49555803

中ソ国境の警備兵。

中ソ対立

 ソ連と中国(中華人民共和国)は共に社会主義を掲げた友好国でしたが、その関係を維持できたのはごく短い期間でした。

 両国が対立した遠因には、18世紀の清朝衰退期からスターリン書記長が死去するまでの約100年間、ソビエトロシアが中国に利権を強く要求していたことも関係しています。

 しかし、対立の直接的なきっかけは1956年のソ連共産党第20回大会にありました。

 この場でフルシチョフ書記長(当時)が米国との平和共存政策(と個人崇拝の否定)を主張したものの、中国がこれに賛同しなかったのです。

 台湾の併合を望んでいた中国にとって米国との対立は不可避でした。

 1957年の時点では、中国がソ連の核技術を求めたこともあって関係は維持されたものの、1958年8月の会合で意見のすれ違いが生じます。

 このとき、ソ連が提案した中ソ合同艦隊と合同空軍の創設や中国領内におけるソ連の無線基地建設を中国が拒否したのです。

 その理由は国防の主導権をソ連が奪おうとしている、という中国の警戒心によるものでした。

 さらに、会談の直後に発生した金門島砲撃事件では、ソ連は中国が勝手に中華民国の領域に砲撃し米国を刺激したことを批判。中国への軍事支援を拒否します。

 この時点の中ソの対立は水面下のことでしたが、程なくして両国とも対立を隠さなくなり、過去の国境問題も蒸し返されました。

 1966年2月、ソ連はモンゴルとの軍事協定を締結し、同国を中国との緩衝地帯としました。

 ソ連にとっては防衛策の一環でしたが、数個師団とはいえソ連軍をモンゴルに駐留させたことは中国を大いに警戒させました。ソ連軍が北京を侵攻するための足掛かりを築いたように見えるからです。

 このとき、毛沢東主席は「2 年以内にモスクワが攻撃してくるだろう」との予想を人民解放軍軍の高官に語りました。


「報復」作戦

 実際にはその後の2年でソ連からの攻撃はなかったものの、東欧ではチェコスロバキア事件が発生。

 中国は、公には「修正主義者同士の仲間割れ」と冷淡に評したものの、内心はソ連による膨張主義的野心の表れ、かつ対中全面戦争の前触れだと危惧しました。

 実際、ソ連軍は1968年の間にザバイカル軍管区、極東軍管区およびモンゴルの師団を22個から28個師団に増やしていました。

 一方の人民解放軍も北京、内モンゴル、中国東北部の瀋陽軍区に36個師団を配備。国境地域では親ソ的とみなした住民を強制移住まで実施したほどです。

 それでも中ソ両国の軍事技術には約10年の格差があり、かつ拡大していたために現時点のパワーバランスも長くは維持できないと懸念されました。

 そんな状況の中、毛沢東主席ら中国首脳部はソ連に奇襲的な予防戦争を仕掛けることで、将来に予想されるソ連の南下を牽制できると判断。

 1968年末ごろ、中国東北部の瀋陽軍区に作戦の準備を指示しました。

 瀋陽軍区は3つの省軍区から歩兵偵察中隊を選抜した特別部隊を編成し、実戦経験のある陸軍参謀を指揮官に選定。過酷な冬季戦訓練を繰り返します。

 ソ連に対する奇襲作戦は1969年2月19日に中国共産党中央委員会に承認。暗号名を「報復」と呼称しました。


ダマンスキー島

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https://gamestoday.info/pc/war-thunder/nasty-situation-with-t-62-545/
ダマンスキー島


 瀋陽軍区の司令官達が作戦地に選んだのが中ソ国境のダマンスキー島(珍宝島)でした。

 この島は中ソ国境を流れるウスリー川の中州であり、極東ソ連最大の都市であるハバロフスクからは南に約200km、かつての日本軍の虎頭要塞からは北に約50kmの地点に位置します。

 ダマンスキー島の帰属は1860年に結ばれた北京条約において帝政ロシア領と定められ、ソ連も自国領と認識していました。

 一方の中国は、北京条約が列強の横暴によって結ばされた不平等条約であり、川の国境線に関する国際的な慣習に従えばダマンスキー島は中国領とするのが筋だと主張。

 ただし、ソ連がこれまでの非礼を認めるのであれば中国は領有権を放棄し共同主権地としてもよい、としました。呑める話ではありませんが。

 前述のとおりダマンスキー島は中州ではあるものの、11月末にはウスリー川が凍結するため、中国人が氷上を渡ってきて、ソ連国境軍とも度々衝突しました。

 1968年1月には中国側に死者が出ています。

 これは中国人の集団がソ連国境軍の装甲車を取り囲んで、バールでハッチをこじ開け劇物をまこうとしたのに対し、ソ連側が発砲したからでした。

 中ソ対立の渦中にあったダマンスキー島でしたが、ソ連側の主要な都市から離れているために警備は比較的薄く、ソ連側の支流がいりくみ大軍を配置しづらい地形でした。

 人民解放軍が奇襲を仕掛けるには好都合な土地だったのです。


ソ連国境軍

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https://www.yzzk.com/article/details/%E6%AD%B7%E5%8F%B2/2019-18/1556769490729/%E4%BF%84%E7%BE%85%E6%96%AF%E8%A6%96%E9%87%8E%E5%9B%9E%E7%9C%B8%E7%8F%8D%E5%AF%B6%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6/%E5%90%8D%E5%AE%B6%E5%8D%9A%E5%AE%A2/%E5%91%A8%E4%B9%83%E8%94%86
国境軍の兵士。

 中国で秘密裏に作戦の準備が進行していたころ、ダマンスキー島の一帯を警備していたのがソ連国境軍の第57国境分遣隊でした。

 ソ連国境軍は国家保安委員会(KGB)の管轄下にある組織で、正規軍とは分離された準軍事組織です。


 ソ連側の国内法では、通常は国境から2kmまでのラインを国境軍の管轄としており、軍事的な緩衝地帯としています。

 さすがのソ連も、平時から国境に軍隊を並べ置くのはよろしくないと理解していました。

 とはいえ、国境軍の装備は正規軍の歩兵部隊に準じており、必要に応じて戦車や火砲に航空支援などの支援を得ることができました。

 ウスリー川流域に点在する前哨基地では国境軍の1個小隊が駐屯し、重機関銃、無反動砲、BTR-60装甲車などの兵器が配備されました。

 中国側の国境警備隊や紅衛兵らを追い払うにはやや過剰といえますが、それでも人民解放軍による本格攻撃に耐えうるものではありません。


 第57国境分遣隊司令官のレオノフ大佐も国境地域の保全に危機感を抱きます。

 1969年初めのモスクワ宛て報告書では「中国からの本格的な攻撃に備えるべきだ」と記し、国境警備の強化を求めました。


 しかし、その返答は「挑発に屈するな。全ての問題は平和的に解決されるべきである。」というもの。

 当時のソ連は極東の軍備増強には積極的でしたが、それは抑止力を期待したものであり、最前面に並べることはかえって緊張を高めると考えていました。

 そんな中でも、レオノフ大佐は中国の越境攻撃が必ず起こると確信。部隊の実弾訓練を頻繁に繰り返しました。


 前哨基地の指揮官だったブベニン氏は、自分や同僚の妻まで大佐による射撃等の軍事訓練をうけていた、と回想しています。

 レオノフ大佐は、来る中国との国境戦争が前線も後方もなく男女の分け隔てもない激戦になると予感したようです。

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ダマンスキー島で対峙する中国の国境警備隊(手前)とソ連国境軍。


参考

中ソ国境 国際政治の空白地帯(前田哲男 手嶋龍一 ISBN4-14-008487-1 1986年5月20日)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
中国とソ連(毛利和子 ISBN4-00-430069-X 1989年5月22日)
現代中国の国境紛争史(山崎雅弘 2011年4月)
〈決定版〉ソ連・ロシア 戦車王国の系譜(古是三春 2019年1月3日)

パワー・シフトと戦争 東アジアにおける事例を用いた因果分析
(野口和彦 2009年)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=25131

Горячий остров
(Валерий Яременко 2009年3月17日)
https://polit.ru/article/2009/03/17/china/

«Военная Литература» Глава 12.Советско-китайский раскол
(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
http://militera.lib.ru/h/lavrenov_popov/12.html

Советская артиллерия в боях за остров Даманский
(Д.С. Рябушкин, В.Д. Павлюк  2012年5月2日)
https://bmpd.livejournal.com/214406.html

Остров Демократа
(Леонид Млечин 2019年2月15日)
https://novayagazeta.ru/articles/2019/02/15/79563-ostrov-demokrata

Оружейные дебюты Даманского
(Игорь Плугатарёв 2006年11月10日)
http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/oruzhejnye-debyuty-damanskogo/

中苏两军争夺T-62主战坦克(附图) (2006年01月30日 新浪軍事)
http://mil.news.sina.com.cn/p/2006-01-30/1016347784.html