無題Name名無し21/06/19(土)02:48:34 No.523651
戦中戦後の食べ物が不足していた時代って
海で魚を釣っちゃいけなかったんでしょうかね?
大人は忙しかったでしょうが、子供に釣りをさせればいいのでは。
疎開先の田舎で「芋やかぼちゃしか食べるのが無かった」と聞きますが
田舎なら川にも魚がたくさんいるのでは。
無題Name名無し 21/06/19(土)02:57:52 No.523652
あー、戦争って体験しないと理解できないんだなと思い、出しゃばって書きます。戦後の食糧難で苦しんだのは米軍機の都市焦土作戦によって灰燼と化した日本全国の大都市とその周辺部に住んでいた人々です。戦争が終わって、トタン板と焼け残りの柱で掘っ立て小屋を建てて暮らし、職探しに奔走していて悠長に魚取りなど出来るわけがありません。やったところで、シロウトはボラや小魚が数匹釣れる程度で電車賃にもなりません。一方、農漁村部の住民は食料に関する限り特に不自由はありませんでした。
無題Name名無し 21/06/19(土)03:12:20 No.523654
あ、最初のレスはコピペね
実際どうだったかは知らん
無題Name名無し 21/06/19(土)03:09:00 No.523653
俺のばっちゃは農家だったから食料に困ったことは一度もなかったといっとったわ
都会に送るための農作物がだぶついてたんだから
かえって食い物が余る状況にもなったのかもな
無題Name名無し 21/06/19(土)03:33:29 No.523655
飢えていたのは都市部だけだったというのはなるほど説得力あります。
>シロウトはボラや小魚が数匹釣れる程度で電車賃にもなりません
素人だろうが子供だろうがちょっとした釣りの基本だけ知ってれば家族の食事になるくらいの魚は釣れると思いますが
貝など採ることだってできますよね
ボラは食べてもうまくないですが腹の足しや栄養にはなるでしょう
無題Name名無し 21/06/19(土)03:50:02 No.523656
うちの父は島の出身だったのでしょっちゅうやってたみたい
たまにイルカ(スナメリか?)が寄って来るのがちょうどキモかったらしい
無題Name名無し 21/06/19(土)05:40:31 No.523657
漁師の娘だった祖母「戦時中も魚食い放題」
満洲にいた大叔父「ビフテキ食ってた」
京都にいた大叔父「戦争末期は苦しかった」
フィリピンへ出征していた祖父「食い物がなかった」
無題Name名無し 21/06/21(月)13:54:19 No.523812
>満洲にいた大叔父「ビフテキ食ってた」
ばあちゃんによるとじいちゃんが国策会社で働き、きれいな家に住んで。中国人のお手伝いさんを雇っていたそうだけど。
大連ではロシア人のメイドさんがいたそうだ。
無題Name名無し 21/06/19(土)06:19:36 No.523658
戦争で輸送機関(日本だと鉄道網と船舶運航)に支障をきたしたので、満州・漁村・農村が食糧を生産できても、都市部や遠征部隊に行き届かなかったのでしょうね。
むろん、生産量そのものも下がっていたとは思うけど。
ソビエトでも鉄道網の混乱が原因で、供給量は充分でも食糧難になっていたとか。
無題Name名無し 21/06/19(土)06:19:47 No.523659
>子供に釣りをさせればいいのでは。
魚は穫っていたよ。
ただ田舎の小さい河川では学童疎開で大量に集中した学童や元からの住民を支えきれないので数週間に1食の補助食料だし、海魚はすぐに腐るので徒歩圏内の子供しか利用できない。(戦局悪化の燃料統制で製氷機が動かせないので、例え本職の漁師と漁船とその燃料を確保しても、一部の干魚以外は腐るので自分の街でしか消費できない)
そのおばあちゃんの体験のように、子供の体力·機動力で全国何処でも確実に手に入れられて腐らない食べ物になるとカボチャやジャガイモと言った根菜類の栽培に自然となるのよ。
無題Name名無し 21/06/19(土)23:19:01 No.523697
>腐らない食べ物になるとカボチャやジャガイモと言った根菜類の栽培に自然となるのよ。
サツマイモといい南米原産の野菜は良い仕事するなと…
逆にこれらがもしなかったら完全に積んでいたんだろな…
あとどれも低温貯蔵だと痛んでダメになるリスクが乾燥保存できる穀物より高いし
(澱粉とかにすれば良いけどそれはそれで手間かかるし)
無題Name名無し 21/06/19(土)16:19:06 No.523677
親父の話だと戦中・戦後と魚とかはとってたそうだが
案の定というか子供一人でとれる量なんかたかが知れてて圧倒的に物量が足らなかったそうだ
ただ潮の満ち引きを利用した罠は結構な量が確保できてたが
あっち系の人が因縁つけてきて全部持ってかれたそうだ
あと実家じゃ米も普通に余ってたそうだが都心部への輸送手段が貧弱っちゅうか破壊されてて届かなかなかったのも食糧難の要因だったとか
無題Name名無し 21/06/19(土)19:20:32 No.523682
農地改革が始まる前は全農地のうち小作地が5割近くあったから、農村と言っても小作農だとコメに不自由してたところもあるんじゃないか?
1945年のコメの作況指数は史上最低だし(タイ米を輸入する羽目になった1993年より悪い数字)
無題Name名無し 21/06/19(土)19:22:15 No.523683
俺の曾祖父は農家と高利貸しを兼業してたらしい
食事は有り余っていたし、都会から食糧をねだりに来た人々に対して、色々エグい事をしてたらしい
戦争末期になればなるほど、それはもう美味しい思いをしたそうだ
その後、GHQによる農地改革の影響で地権は削られたけど、高利貸しによって蓄えた資産を投じて東京の一等地を購入して不動産業を営み、戦後も悠々自適に暮らしたらしい
その息子たち(俺の叔父にあたる)は今もなお定職に就かず、不労所得で暮らしてるそうだ
なぜ俺に恩恵が無いのか…
無題Name名無し 21/06/19(土)20:31:45 No.523685
爆撃と機雷で流通機構が壊れてしまった
だから余ってる所は余って、足らんところは足らなかった
無題Name名無し 21/06/19(土)21:33:11 No.523688
お米がなければお魚を食べればいいじゃない的な?
そんな適当な手段で生きていけたらみんなやってるって
無題Name名無し 21/06/19(土)22:10:07 No.523691
曽祖父は漁業の浜師(水産物の相場師)と農業の兼業、親類は置屋などで財を成し、戦争中・戦後は比較的裕福な一族だった
ちなみに一力一家の若衆だった
その後、台風で畜養していたものが流されて、一気に凋落した
私は本家筋の長男だが、普通の勤め人をしていて過去の一族の栄光はない
母親は戦後の苦しい時期に学校へ通っていたが、芋・麦飯が当たり前の中で銀シャリを弁当にして、おかずも多かったらしい
戦中戦後だろうが、あるところにはあったんだねぇ
無題Name名無し 21/06/19(土)23:05:00 No.523696
今日レポート書くために祖父母に話を聞いた私にタイムリーなスレ
祖父の家は新潟の農家だったので肉や魚はなかなか食えなかったが、飢えることはなかったそうだ
祖母も新潟だが小学校に弁当を持ってこれず同級生のものを盗んで食べたり栄養失調でなくなったりする子もいたと言う
無題Name名無し 21/06/19(土)23:37:45 No.523700
塩が手に入らなくて浜辺で鉄板焼いて作ったとおかん(実家は小作を抱えてた豪農)は言ってた。
あと魚は漁村に米と野菜を持ってけば喜んで物々交換に応じてくれたそう。
(お互い現金取引より率が良かったかららしい)
無題Name名無し 21/06/20(日)00:18:42 No.523708
あまり知られていないけど
戦前のコメ収穫量は約1000万トンだったけど
終戦の昭和20年は582万トンまで落ち込む
ピーク時でも内地での生産分では足りず台湾や朝鮮からコメを輸送していた
終戦後輸送インフラの潰滅と外地からの引き上げもあって極端な食糧不足に陥る
当時政府ではこのままだと1000万人の餓死者が出ると真っ青になってGHQに泣きついた
無題Name名無し 21/06/20(日)01:13:17 No.523710
戦前も昭和に入ると穀物自給率は100%切って中国大陸に依存し始めるからな
直接の食べ物のみならず大豆カスみたいな肥料も同様で
昭和21~22年はこれの途絶に加え天候不順からくる凶作まで起こる始末
無題Name名無し 21/06/20(日)03:09:25 No.523716
ガダルカナル島などではどうだったんでしょうか。
魚を釣ったり貝を採ったりできなかったんでしょうか。
海は敵に発見されやすいので近づけなかったとも言えますが、
ジャングルには鳥もたくさんいたそうですが罠など作って取ることはできなかったのでしょうか。
銃を使ってよければさらに鳥は取りやすくなると思いますが。
銃はやっぱりだめ?
無題Name名無し 21/06/20(日)06:10:41 No.523722
>ジャングルには鳥もたくさんいたそうですが罠など作って取ることはできなかったのでしょうか。
ガ島での戦死者は約20,000人で、そのうち餓死者は10,000人以上と言われている
この10,000人の食料を野鳥や海岸で取れる魚で賄えると?
無題Name名無し 21/06/20(日)03:36:00 No.523721
養鶏もできない環境では、鳥猟で得られる肉の量など労力と釣り合わない
餓島じゃないけど、ウェーククイナみたいに飛べない鳥は海軍陸戦隊が絶滅するまで食い尽くしているし
飢餓のメレヨンではヘビやトカゲまで姿を消したとか
無題Name名無し 21/06/20(日)09:31:13 No.523728
>ジャングルには鳥もたくさんいたそうですが罠など作って取ることはできなかったのでしょうか。無題Name名無し 21/06/21(月)16:53:28 IP:126.243.*(bbtec.net)No.523819+
インパール作戦を強行した牟田口将軍もそういってろくな補給も与えずガ島に並ぶ悲劇を作りましたな
>インパール作戦を強行した牟田口将軍もそういってろくな補給も与えずガ島に並ぶ悲劇を作りましたな
俗に行軍5日で米が無くなり、1週間で調味料が無くなり、10日で塩も無くなり
山岳地帯で運搬に不向きの水牛も食うために潰し
無題Name名無し 21/06/20(日)12:15:18 No.523735
ジャングルに食べ物が豊富と思うのが勘違いなのでは
主食がないからむしろ食べ物がほとんどないのでは?
一ヶ月現地調達のみで自活してみろと言われたら、ガリガリになっちゃうのは想像に難くない
無題Name名無し 21/06/20(日)14:06:40 No.523742
栄養事情が悪くなると疾病が追い打ちをかけるから
加速度的に状況が悪化する。
食料調達も敵の状況で大きく制限されるだろうし
飛行場とか固定施設を維持できる程度には支配していないと
畑で作物とか育てられんよね。
無題Name名無し 21/06/20(日)14:24:54 No.523744
「古来、大和民族は草食民族である」
「ジャングルには植物がいくらでもあるので食べ物に困ることはないのである」
「大丈夫! わたしには神様がついている」
無題Name名無し 21/06/21(月)14:01:15 No.523813
>「古来、大和民族は草食民族である」
米とか大豆は野草ではない
>「ジャングルには植物がいくらでもあるので食べ物に困ることはないのである」
毒蛇やマラリア蚊もたくさん
>「大丈夫! わたしには神様がついている」
八百万の神の内。死神しかいない
無題Name名無し 21/06/20(日)15:25:23 No.523746
戦後うちのじいちゃんは田舎から送られる食材で労働者向けの中華屋始めて、復興需要で儲けてた
闇市で余剰食料の売買してたから、ばあちゃんが近所や孤児院にお裾分けできる程に困ってなかったらしい
無題Name名無し 21/06/20(日)17:23:39 No.523757
ナワバリあるからヨソ者が勝手に釣りや山菜取りなんぞしたら
現地人からボコスカに殴られるかと・・・
無題Name名無し 21/06/20(日)20:03:10 No.523768
http://may.2chan.net/39/src/1624186990621.jpg
IJA第2師団第1野戦病院所属の軍医だった長谷川英夫さんという方の手記によると、ガダルカナル島の密林は
「いわゆるジャングルという日本人のつかうニュアンスとおよそかけはなれて存在している(略)強いていえば、『地球上において生物が棲息し得ない空間であり、悪気流の充満する地帯』とでもいうべきであろうが、それでもいい尽くしているいるとは思わない」
…ものであったそうです
具体的には、密林内はまず樹木や蔦草などが密生していて、そもそも人が通行する余隙が無いのが普通で、地形も平坦でなく急峻な坂や渓谷がいたる所にあり、降雨が多いため湿地帯も多数、人跡未踏の森林内には倒れた巨木が放置されるままになって障害物となっていたんですとか
無題Name名無し 21/06/20(日)20:09:38 No.523769
http://may.2chan.net/39/src/1624187378169.jpg
また、第230聯隊第1大隊の第4中隊長だった、川口五朗軍曹大尉によると
「まあジャングルってのは、地面といったって、普通の土じゃねえんですよ。日本内地の山みてえな生やさしいもんじゃない(略)何万年てえ以前からの落葉や枯木が横たわっているもんですからね。ジメジメしめっぽいんですよ。いや、しめっぽいどころか、沼みてえなところがあるんですよ(略)ズブズブとね、入ってっちゃうんですよね」
…とのことで、まず狩猟にしろ採集にしろ、密林の中を獲物を探して徘徊する事自体が、非常に困難な環境だったみたいですねえ
それでも補給を絶たれた日本側では、否応なく現地での食糧採集を余儀なくされたわけなんですが、第2師団経理部の主計中尉だった鈴木信道さんという方によると
無題Name名無し 21/06/20(日)20:11:42 No.523770
http://may.2chan.net/39/src/1624187502468.jpg
「ガ島の後半戦は(略)皆もう毎日、朝から血眼になって食糧探しをやった(略)終日、食うもんおちとらんかと歩き回っている」
「どんなもん食ったかといいますとね。まず椰子の樹の下にね、ちょろちょろ出没しておる蟹(略)それから、木の実(略)しかし、なんといっても、一番お世話になったのは椰子です(略)というてもね、あれはオーストラリアかなんかの民間会社が植林して、現地人を使って栽培しとったんでね、野生じゃない(略)もしガ島に椰子が生えていなかったとしたら、死者はもっとうんと増えていたでしょうな」
…そうなんですが、もう一つ、第2師団司令部経理部の見習士官だった山内七郎さんの著書「ガダルカナル」から引用させて頂くと
「椰子の実の採取に地区を決めて協定したのだが、一寸でも椰子の枝を動かすとすぐ飛行機がやってきた」
無題Name名無し 21/06/20(日)20:13:00 No.523771
「(※海岸では)海水を汲み蟹をとるのだが、蟹はまたたく間にとりつくした。また海岸には海岸のマイナスがあったのである。屍臭といたる所に垂れながす糞便のため、蠅が無数に殖え爆弾であけられた赤土穴には、スコールが溜りぼうふらの温床となった。マラリアは風土病と重なり飢餓に苛まれた身体をどしどし斃していった」
…んですとか
結局のところ、正規の糧秣の補給を絶たれるほど敵の優勢な状況下で、行動しやすい海岸や海上での漁労はまず無理、また移動自体困難な密林内では、狩猟したり獲物を運搬することが困難な上、食用となる動植物の量も十分でなくその栄養価も労力に対して満足できるものでない、更に湿地の多いジャングル内は、致命的な風土病を媒介する蚊やダニが待ち構える猖獗地帯…とくるわけですから、「ジャングル内で食糧採集生活!」は文字通り机上の空論といいますか、実際にガ島その他で無数の餓死含む戦病死者が生じたのも、当然だったというハナシになるんでしょうか…
無題Name名無し 21/06/20(日)21:02:32 No.523775
そもそも何が食えて何がダメなのか知ってないとな…
貝なんて時期によっては毒持ってたりするし
無題Name名無し 21/06/20(日)21:16:06 No.523779
南方でもラバウルなんかは占領期間が長く農作ができる土地も広いから自給自足できてたとは聞くね
無題Name名無し 21/06/21(月)15:21:47 No.523815
>南方でもラバウルなんかは占領期間が長く農作ができる土地も広いから自給自足できてたとは聞くね
人類の歴史を紐解けば採取狩猟時代から農業家畜の発明で食料が大量に安定供給できるようになって一気に人口が伸びたのよね
死んだ爺ちゃんも植物の根っこを食って何とか生きながらえたって言ってたなぁ
無題Name名無し 21/06/21(月)18:13:05 No.523822
ガダルはエスペラントやタサファロングまではそこそこ物資が来てたけど、それをジャングルの中担いで前線まで運ぶのがしんどかったみたいだね。
かと言って陣地放棄して撤退したら、米軍に包囲殲滅される。
ガダルで捕虜になった人がアメリカの収容所で毎日米の飯が出るもんだから「どこの米?」って訊いたら「ガダルの鹵獲品」って言われて「??」ってなった話も。
無題Name名無し 21/06/22(火)21:12:35 No.523881
>魚を釣ったり貝を採ったりできなかったんでしょうか。
祖父はパラオへ出征したようなのですが、鯵を(どのような方法かは不明)大量に獲ってドラム缶で煮たものを連日食べていたらしく、「それで鯵が嫌いになって」以後食べなかったと言ってました。
無題Name名無し 21/06/22(火)21:22:56 No.523882
爆雷の衝撃波で魚を失神させて浮かんできたところを一網打尽、なんて魚の獲り方もあったそうな
対潜哨戒と称して駆潜艇か何かで本業が漁業の人がうまくやっていたかもですね
無題Name名無し 21/06/22(火)23:09:53 No.523891
都市部の話なら学童は疎開できるが
成人は防空法のせいで消火活動しないといけないから疎開しにくい
無題Name名無し 21/06/23(水)10:07:03 No.523908
http://may.2chan.net/39/src/1624410423355.jpg
>芋やかぼちゃしか食べるのが無かった
本当になかったのかわからない。。
ま、ララさんが助けてくれたんでしょ?
自分で壊しておいて。。助けてるなんて・・ひどい
無題Name名無し 21/06/23(水)10:31:44 No.523909
ララ物資の脱脂粉乳というのは食べ物が無かったあの時代でも誰も飲めなくて
飲めと指導すべき教師自身も飲めなかったから捨てるのを黙認せざるを得ず
昼時の学校周囲のドブ川が真っ白になったと言うのは昭和8年生まれの老母の言
無題Name名無し 21/06/23(水)13:25:11 No.523918
http://may.2chan.net/39/src/1624422311120.jpg
>ま、ララさんが助けてくれたんでしょ?
何だその謎のインド人ぽいのは
ララさんといえばこっちでは…?
無題Name名無し 21/06/25(金)17:35:46 No.523999
>何だその謎のインド人ぽいのは引用元:http://may.2chan.net/39/res/523651.htm
そりゃ、四十代以上のアイドルのララア・スンさん
>ララさんといえばこっちでは…?
三十代以下のアイドルです。
コメント
戦後会社ズタボロでかろうじて作れる漁船でカツオやマグロ取って日銭稼いでたっていうし
当時の本とか読むと明日のために生きるんだよ!ってケツしばいてリーダーになれる人が少なくて
人足を集めていかに食わせるかってことを考える技量すら貴重だった印象
長野に疎開した母は現地の子供はウサギやら蛇やらを捕って食べたりしてたらしいけど、東京の子供にはそんな能力は無かったらしい。
そもそも東京では川魚取れる川も少ないし(石神井川だの神田川で採れはするけど漁獲高なんて大してないし)
魚大小合わせ百匹以上と戦闘機搭乗員の先任軍曹一人
今は誰も取らないからウヨウヨいるけど
敗戦後の日本で現実的に手に入る数少ないタンパク源として価値が高かったのに加えて、戦時中、ロクに魚を獲ってなかったので、メチャメチャ資源量が増えていたらしい。
(但し引き上げで全ての資産を失うことになる)
母は米の代わりに食べさせられた熟れてないかぼちゃが不味かった話をよくする
母方の伯母は戦中は陸軍、戦後は米海軍の仕事をしてたのでたぶんほとんど苦労していない
そんでひいじいちゃん(父親)が余暇の釣りで魚釣ってきたら大御馳走で喜んだと
そんな話聞いてからばあちゃんがスーパーでカップ麺爆買いしてバカ食いするのを怒れなくなっちゃったけど、かくも人類は偉大なんやなとも思う
意外と知られてないことだと思うけど熱帯雨林って土がやせてんだよね、落ち葉が速攻で分解されて猛烈な雨に流されちゃうから。
植物が多くても食べられるものは少ないし、衛生環境は最悪、生きていける気がしない。
大人が「農業を手伝いますからもっと食わせて下さい」って頼んで農家で働いた話は聞かないよね
学童疎開はみんな就農してたイメージだけど大人が都市から脱出して一時就農した話は聞かない
農家側から見たら子供はいいけど農業の素人の大人はいるだけ邪魔だったのかな?
そうそう人一人の腹を満たすほど釣れるようなもんじゃないよあれは。
釣り場にいる魚の数にも限りがあるし狩猟圧(いわゆるスレ)もあるし皆でやったらあっという間に魚が居なくなる。
漁業が何故産業足りうるかというと釣りなんかとは比較にならない程に超高効率な魚の捕り方をしているからで、それでもなお不漁だとか燃料高騰だとかで立ち行かなくなることがある位に不安定だしでそもそも安定的な食料源として見るのは無理。
自分たちの所の腹を満たそうにも漁船は乗り手ごと供出させられて監視任務に充てられててそれも不可能だしで踏んだり蹴ったりよ。
せいぜい運良く今日は釣れたからおかずが出来た程度のレベルでそれを当てにして生活できるかって言えば出来ないのが現実でしょう。
大人は工場などで仕事がある、都会育ちは農作業ができない。
ニューギニア高地の農業民でさえジャングルで迷ったら餓死するそうな
なんか不穏な釣果が一人混ざってますが、それは…。
車を持っている人なんてほとんどいない。公共交通機関も
電車は今のようにたくさん走ってるわけじゃないしバスも少ない。
徒歩かせいぜい自転車が自由な足になってくる。
冷蔵庫もないから保存も効かん。
そもそも腹減らした手空きの人間が手慰みで釣った魚で飢えが改善できるほど魚が豊かな土地なら、はなっから住民も飢えてはおらんだろ
焼畑農業が積極的に行われるくらいには土地の養分ないからなぁ。
戦時中だと、冷蔵と冷凍は電気不足で製氷機が動かせないし、冷蔵庫や冷凍庫の圧縮機のメンテナンス部品も入手困難
塩漬けも塩が手に入らない、塩を大量に作るための燃料が手に入らないので不可だし
乾燥も気候の制限と、作業スペースの制限があるので厳しい、省スペースで効率的に乾燥するには換気するための電気動力が必要となる。
生簀なら、水を循環させるポンプと空気を吹き込む為の電気動力が必要
生鮮食料品は保存手段か加工手段がないと、都市へ輸送できない。
流通に乗せられるだけの漁獲量を安定して得るには、やはり漁船が必要ということに。
ちなみに魚油はニトログリセリンの原料になるので、戦略的には漁船も立派な軍事目標。
※13
イギリスだと「婦人農耕隊」なんて言って、男の家族が軍に行ってヒマになった都市部の女性を政府で雇って、農業支援を行わせる組織があったりする。
ちなみに訳の都合で「農耕隊」になってるけど(原語だとWomen's Land Army)、農業だけでなく水産業や林業にも参加していて、戦後も農業生産が安定する1950年代まで活動していた。
因みに、現代はガソリンと軽油が無ければ
全く農作業は出来ないし、種も蒔けなければ
収穫も出来ないんだな、コレが!
終戦直後はありとあらゆる港に、機雷が投下されてて、漁船の焼き玉エンジンすら磁気機雷を作動させて吹っ飛ばされて仕舞う。
最悪なのは、釣り糸もナイロン糸だから、石油化学工業が無いと無理wwww
当時は麻糸なんかで釣ってて、コレが弱くてよく切れる。馬は徴収されてて尻尾の毛も使えない。
だからこそ、手掴みしか無いが、これ、マトモに出来るやつ少ないんだよ。
しかも、寄生虫多いから、扱いには細心の注意がいるし。
そもそも、金属徴収令で縫い針すら供出させられて、釣り針が残ってるとでも思うのかな。
鍋すら取り上げられてんだからさ。
豚のエサだったのだから、推して知るべし。
バターを取り、チーズを取り、残った液体を噴射して乾燥させたる粉だよ?
凝集剤入ってたりして、マトモなものではない
そして、港で出港しようとしたら機雷で爆沈w
だから掃海作業が終わるまで、漁船すら出せなかった。
まあ、エンジン無い手漕ぎボートですら、接触機雷でやられたからなぁ。
そんな釣れんわ
数時間粘って0なこともめずらしない
貝なんぞ腹の足しにならんし
そして、燃料が無くてな。コレ無いと船は物凄く燃費悪いから。
地引網するにも、漁網が、偽装網として徴収されてたから。無いんだわ、現場にね。
漁網は漁民が麻糸を何とか手に入れて編んで作ってた位で、全く足りなかったとさ。
ナイロン製の漁網が普及したのは、何年かしてからじゃなかったか?
田鰻と言って、ドジョウや小魚は獲得出来たが
それは田んぼの持ち主が味噌汁に入れるぐらいの量、とても分けて貰う量では無い。1反部程度ではな。
なんで、昆虫食が中部山岳地帯で普及してたと思う?捕まえやすく、佃煮にして保存食にしやすかったから。他に、タニシ、モロコ、芋虫の類い・・・食べないのはウジ虫ぐらいのもんよ。
鳥を捕まえても、数十分で腐敗して当たる様な悪環境・・・
だから、潜水艦や高速駆逐艦にドラム缶詰めの玄米を入れて、最高速度で突っ切り、海岸線に寄ってロープ切ってLET GO(レッコ)したって有り様。日本で2番目に足の速い高速駆逐艦すら食糧補給のあと傷病者を回収して逃げ帰る時に、空爆され撃沈させられる程。
応戦してかなり命中弾与えても、金属片が飛び散るのは見えたが、撃墜出来なかった!との言
挙句に、大型爆弾食らってボカチンだとさ。
艦上で対空機関砲に居たから、船の沈没に巻き込まれる事なく助かったとの事。
41ノット出せた高速駆逐艦ですらそうなんよ。8ノットしか出ない遠洋漁船でどうする。
結果、ほぼ、漁船は壊滅。
スレ主は、釣り経験も、魚掴みの経験もないのだろうさ。
当然だが、調理経験もないと思われるw
やりそうなミスとして、アユ以外の川魚の内臓を取らずに、そのまま塩も振らずに焼きそうだな。
言うまでも無いが、フンの匂いでとてもじゃないが食べられたものではなくなる。
キチンと内臓は抜き、腹腔にへばりついてる腎臓を粗塩使ってこそげ落として、じっくり水分を抜き、焼き締めて、漸く食べられる物になる。
また、そこまでやらないと、夏場は家に持ち帰る事が食中毒の為できなくなる。
肥料不足、(徴兵で)男手不足だったにせよ、農村は食っていけたわな
まあ冷蔵庫の普及自体は戦後の高度成長期
あと川魚を食する際は、しばらく容器の中で泳がせて泥を吐かせるのがデフォなので保存自体はあまり
都市部への工員として移住、兵役で第一次産業人口が減少したにも関わらず、機械の導入で農業生産はむしろ増大した
イギリスは横ばい
手榴弾を投げた坂井三郎って人です
流石に45年だと収穫の人手不足が懸念され始めてたとかどっかで見たような>米
というのも40t未満の遠洋漁業には漁業権が必要なかった
(漁師の常識的に考えれば40t未満で遠洋漁業なんてリスクが高すぎる為)
それ+戦後は漁業権の売買が合法で貸し借りが違法という状態であった為金のある人が漁師から買い取り大型船で遠洋漁業し貧乏な漁師が39t船に乗り遠洋漁業をするなんてことも多発した
マグロ漁船の逸話はこのあたりからでている
労働の価値ってものを理解せず漫然と生きてる人間の発想
農家とかは食い扶持は自分でどうにかするからな。枯渇するのは都市部や前線
魚はそんなに釣れるもんではごさいませんことよ
素人が思いつきで釣りを始めても、
それは釣りにすらならないものですわ
昭和初期に大陸や台湾から安価な塩や岩塩が大量に輸入されるようになって
瀬戸内に古来からあった塩田が競争に負けて廃業していった
という背景があるようだ
そういやジョークにもあったな
囚人の会話で一番人畜無害そうなヤツが一番刑が重苦しい、理由がダイナマイト漁をしたら密漁者数人が浮かんで来たってヤツ
塩田では工業塩を賄えるほど作れないしね
なんなら飯たらふく食ってて死ぬ魔境なんだが
親族が飲んだ事が有り「とにかく酷い味」
という様な事言ってました。
ドイツは「こんな物飲めるかっ」と断ったので
日本に比べて餓死者が出たというような話を聞いた事有りますね。
ジャングルで狩り?
食料が1週間も経たずに枯渇
マラリア発症
で立つのもままならない状況で出来るとでも?
テレビのドキュメンタリーで、
生き残った方が(前述状況なので)
「大型の猫科に襲われて落命」というのを見たと言ってました。
いうて自分も、戦中の食糧事情は地主の祖母と苦学生の祖父から聞いた両極端な話しか知らないから、実態のところは何とも分からないし。
1人分でもそうなんだから集団の食料調達を狩猟で賄うのは無理だよなぁって
農業ってのは偉大な発明だったのだなぁ
上級国民ほど過酷な研鑽をせねばならないという好例ですなぁ・・・
「海鷲だより」の歌詞にありますね。
とりあえず難民出る位の国でも見てこい。本当に貧しいと生きるだけで精一杯でそんな余裕ないよ。
飽食日本のそれと違って切実な問題の気がする
そもそも食料自給出来るだけの畑作が真水や面積の問題で物理的に厳しいと思われ。
長野に疎開した母は現地の子供はウサギやら蛇やらを捕って食べたりしてたらしいけど、東京の子供にはそんな能力は無かったらしい。
↑
これは戦地の兵隊にも差が出たそうな。
田舎出の兵隊は平気で蛇だの虫だの採って食べる。都会出の兵隊は、それができずに餓死か病死したそうな。
戦後しばらくも雑穀米+漬物がデフォ
↑
亡父に聞いたが昭和30年代くらいまで続いたそうな。だから昨今の健康食?で五穀米だの、麦飯など「バカにしてるのか!」と憤慨していた。食べたくて食べてた訳じゃない!白米がどれだけ旨くて有りがたいか解らんのか!とね…
当時のラバウルでは使い道がなかったからだっけ?
たまに釣りに行って釣果があるから、日課として成り立つと思い込む。趣味と稼業は違う。
元上司の話で、上司の祖母が60km離れた町までリヤカー引いて買い出しに行ったと言ってたな…
戦後生まれの上司の子供時代の遠足は、今なら電車や車の距離を文字通りの遠足で「よく歩けたよなぁ…」なんて言ってたな。
米など、医者から止められるレベルの量だよな?1食で二合。ためしに食べたら無理だった。
因みに、某元坂道アイドルは3合食べるとか…
あこがれのログハウスで離婚危機って話を読んだな…
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