ソ連軍の秘密戦史38
竹組みのミサイル


文:nona


S-75初の戦果

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Photos/igphoto/2000558803/
1965年8月に撮影されたSA-2サイト。右上にファンソング管制レーダーが置かれ、中央部に複数のサイトが見られる。


 米軍機による北爆が始まってから5か月が経過した1965年7月24日、ハノイ北東50kmのディエンビエンフー補給処とラングチ軍需工場に米空軍機が襲来。

 このとき、2つの地対空ミサイルシステムS-75(SA-2ガイドライン)陣地からミサイルが発射され、F-4C 1機を撃墜し3機に損傷を与えます。ベトナム戦争におけるS-75の最初の戦果でした。

 公式には2名のベトナム人将校がミサイルを発射したと記録されたものの、彼らは全ての訓練を修了していませんでした。


 ソ連の担当教官だったモザエフ中佐とイリニク中佐は彼らに心理的な不安があるとして、発射ボタンが押された前後で自ら発射ボタンを押していたようです。

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196003/tankers-at-war-air-refueling-in-southeast-asia/
空中給油を受けるF-105戦闘爆撃機。1965年12月に撮影。



スプリングハイ作戦

 先の戦闘から3日後、46機ものF-105戦闘爆撃機がS-75を破壊すべく北ベトナムに再び侵入。作戦名はスプリングハイ作戦でした。

 ところが、既にS-75は2個とも陣地転換を完了しており、元の場所にはミサイルに似せた竹の束が置かれていました。

 そのうえで陣地の付近には大量の対空砲が集まっており、罠にはまったF-105は濃密な対空射撃を浴びました。この戦闘で多くのF-105が被弾し、6機を喪失しました。

 米空軍のモーマイヤー大将によると、米軍は対空ミサイル基地の存在を建設段階から察知していたものの、米国政府が攻撃を禁止したことで先制攻撃をうけ報復も失敗した、としています。

 この頃の米国政府は、戦争拡大を避けるにはベトナムの同盟国に対する刺激を抑制する必要があると考え、ソ連人が運用に関与している対空ミサイル基地への攻撃に消極的でした。

 同様の理由で航空基地に対する攻撃も1967年春まで禁止され、結果的にMiG戦闘機による米軍機の被害増加を招いています。

 ちなみに、S-75はそこそこ立派な陣地を構えているものの、一応は移動が可能なシステムです。陣地転換に要する時間は2から4時間と言われ、身を隠すだけであればより短い時間で移動できるはずです。

 ただ、当時の関係者の回想によると、かなり過酷な作業であり道のぬかるんだ豪雨の中であったり、夜間の灯火管制下であっても陣地転換は実行しなければならず、かなり過酷な作業であったようです。


試行錯誤の防空網制圧

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https://media.defense.gov/2014/Jan/14/2000883976/-1/-1/0/140114-F-DW547-007.JPG
偵察用の無人機ファイヤー・ビーを搭載したC-130。


 さすがの米国政府も空軍機に被害がでたからには対空ミサイル基地への攻撃を許可したものの、事前の航空偵察で発見するのはとても困難でした。S-75はより頻繁に移動しており、擬装も巧妙になっていたのです。

 そこで囮の航空機をS-75が潜む地域へ飛ばし、ミサイルの噴射煙で陣地を見つけ出す戦法が模索されました。基本的はは有人機がこの任務にあたったものの、1965年8月31日にが無人機が囮に使用されました。

 このとき、C-130輸送機からファイヤービーが空中発進し、同機は囮の役割を果たしS-75に撃墜されました。しかし、キラー役であるF-105の到着が遅れたことでS-75の陣地を発見できず作戦は失敗。このF-105は副次目標の攻撃に向かったものの、そこで1機が対空砲に撃ち落とされています。

 この状況に変化があったのは1965年12月末のこと。防空網制圧装備を搭載したF-100戦闘爆撃機(ワイルドウィーゼル1)が実戦に投入されたのです。

 同機はS-75の発するレーダー波から所在を解析し、すぐさま反撃を加えるためS-75に逃げる余裕を与えませんでした。

 とはいえ、1965年から67年において米軍機は防空網制圧作戦の24%で偽物のS-75陣地を攻撃し、さらに20%はもぬけの殻となった陣地を爆撃していたようです。

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http://www.nhat-nam.ru/vietnamwar/oldfoto53-2.html
擬装が施されたSNR-75(ファンソング)射撃管制レーダー



S-75の天敵

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http://www.nhat-nam.ru/vietnamwar/oldfoto23-4.html
1968年12月に鹵獲されたAGM-45シュライクの残骸


 1965年の後半、海軍機でAGM-45シュライク対レーダーミサイルが初めて使用され、翌年の春には空軍でも配備が進みました。

 S-75が初めてAGM-45による攻撃をうけた時、予期していなかったオペレーターは弾頭の破片で死傷。ミサイルも燃料が誘爆して大損害を被ったとされます。

 AGM-45は対空兵器にとっての天敵ですが、一度電波を見失うと目標に命中しない欠点がありました。1960年代後半にベトナムへ派遣されていたA.D.ヤロスラフツェフ大佐は、AGM-45の命中率を19.5%としています。

 S-75のオペレーターはAGM-45を早期に発見し、一時的に射撃管制レーダーSNR-75(ファンソング)の電波を止めることで被弾を回避できたのです。

 AGM-45のレーダー反射は微弱ではあるものの、レーダースクリーンを注意深く監視していれば発見は不可能ではありませんでした。

 しかし、米軍はAGM-45の発射母機が電子妨害を併用できるよう改良を加え対抗し、目視の対空監視でAGM-45を発見する必要性が高まります。

 S-75の部隊は独自に監視所を設置しており、天候による制約はあるものの、米軍機の機種と機数から飛行目的を推測しました。それが防空網制圧機であると判断すれば、あえて攻撃しない措置をとることもできたのです。

 目視監視所以外には、射撃管制レーダーの方位や仰角を妨害電波の発せられた方向からゆっくりと逸らす方法も有効でした。

 これを実施するとAGM-45はファンビームを用いるSNR-75の旋回に追従し、背後の母機から発せられる電子妨害のノイズからそれるため、発見が容易になるのだそうです。

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http://www.nhat-nam.ru/vietnamwar/oldfoto51.html
AGM-45や各種の対地兵器からの破片除けとして木材の束に巻かれたS-75の管制室。



暑さとの闘い

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http://www.nhat-nam.ru/vietnamwar/oldfoto30.html
S-75で用いるV-750ミサイルへの燃料充填作業。V-750は酸化剤の充填に防護服が必須で、酷暑下での作業では脱水で体重が1kg減少した。


 GSVS(遣ベトナムソ連軍事専門家グループ)の参謀長だったボリス・ボロノフ少将は、ベトナムにおける苦労の一つに、高温多湿環境での戦闘を挙げています。

「戦闘活動中、気温は日陰でも40度に達し、湿度もひどく高かった。ミサイル誘導基地の作業室に空調設備はなく、部屋の扇風機は60度の温風を送るだけで、装置も、そこで働く軍人も、冷やされなかった。我々の軍人の制服は、鋼鉄のヘルメットとズボンだった。汗が滝のように流れ、床に落ちた。部屋のオペレーターの肘掛け椅子の下には乾くことのない汗の水溜まりができていた。重い制服で汗疹を患い、戦闘能力を失って病院に搬送される者もいた。」

 同世代の対空ミサイルである米国のナイキシステムの場合、管制トレーラーなどは主に機械を冷却する目的で厳格に空調管理されたものの、この時代のソ連製兵器にそうした装備はありません。

 暑さそのものはオペレーターを交替で休ませてしのいだものの、汗疹対策としては可能な限りの入浴と衣服の洗濯が推奨されました。

 浴場は現地にある資材を用いて将兵の創意工夫によって作られました。例えばドラム缶に注いだ水を日中の日差しで温め温水シャワーとしたり、焼き石でバーニャ(サウナ)を作ったりもしたそうです。

 ベトナムの地方では天然の温泉もあるため、これも利用されました。

 ただし、入浴の時間になると現地民の子供(ときには若い女性)が周りにやってくるのが常。彼らに入浴を覗かれることになり、皆が恥ずかしい思いをしたと、S-75連隊長だったフェドロビッチ大佐は語っています。

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https://x5jomd6objjcnw42q6fe6uiila-crygvbawpgmxy-www-nhat-nam-ru.translate.goog/vietnamwar/memory36.html
子供たちに覗かれつつ手作りのシャワーを浴びる



ベトナムでの娯楽

 娯楽の乏しいベトナムにおいて映画はソ連兵の数少ない楽しみでした。

 ソ連軍は電気が通っていない田舎でも映写機に発電機をつなぎ、地元のベトナム人と一緒に映画を楽しみました。

 映画はリール交換のために何度も中断されたものの、その時にベトナム人通訳が地元民に映画の内容を解説して、その場をもたせました。

 特に地方のベトナム人達はソ連の映画に興味津々でしたが、フェドロビッチ大佐いわくベトナム人が特に気に入ったのはНу, погоди́!というアニメ映画。同作にはセリフがほとんどありません。

 映画以外には、本国から家族からの手紙(2~3か月ぶんがまとめて送られてくる)や、酒やタバコ、菓子などの慰問品が届く場合あり、どちらも待ち遠しいものでした。

 不思議な話ですが、慰問品の中でもライ麦の黒パンは特に喜ばれたとされます。

 北ベトナムの都市部では歴史的な経緯からフランス風の白パンが焼かれており、ソ連においても小麦のパンのほうが上等とされ、黒パンは粗食の扱いでした。

 それでも、長く外国にいるうちに故郷の味が恋しくなり、ソ連の人達は故郷の味である黒パンが届くと、それが多少傷んでいても喜んだそうです。


参考
Air Power in three wars ベトナム航空戦 超大国空軍はこうして侵攻する(W・モーマイヤー著 藤田統幸 訳 ISBN4-562-01218-8 1982年2月)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)

ロシア・ビヨンド
ソ連はベトナムで米国とどう戦ったか(写真特集)
(2020年7月02日)

ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 21
(P.T.フェドロビッチ 2008年4月)

ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 20
(アレクセイ・ミハイロビッチ・ベロフ 2008年4月)

THUD PILOT
Operation Spring High – A Failed Mission which Led to Success
(Vic Vizcarra 2016年8月7日)

historynet
Operation Spring High: Thuds vs. SAMs
(Mark Carlson 2018年12月)

Air & Space Magazin
The Christmas Bombing
(Marshall Michel 2001年1月)