無題Name名無し21/06/04(金)10:17:06 No.28619
Nakajima_Ki-43-IIa

本日6月4日!
飛行64戦隊!!

と言うわけで1式戦スレ


無題Name名無し 21/06/04(金)11:49:30 No.28627
海軍の連中は何かと敵性語に染まり、まったくもって精神がたるんでおるが
我が陸軍では大和魂を決っして忘れることなく、例えば職務上必要な言葉も
すべて和製語におきかえておるのだっ!
海軍では戦闘機の型番をエーだのビーだの敵の文字を使って管理しておるが
我が陸軍では機体はキタイからとったキ、発動機はハ、などとしておるっ!
さあみんな! 真の大和魂をもつ我が陸軍の誇る飛行ロクヨン戦隊を称える歌
加藤隼戦闘隊を皆で歌おうではないか!
♪エン

無題
Name名無し 21/06/04(金)13:34:37 No.28635
1622781277072

なお現場では普通に英語フランス語を使うもよう

無題
Name名無し 21/06/05(土)01:19:00 No.28678
>なお現場では普通に英語フランス語を使うもよう
プロパガンダ映画で某正月のボーリング番組みたいにネタにしてたよね……

無題
Name名無し 21/06/04(金)13:47:05 No.28636
主導してたの内務省だし

無題
Name名無し 21/06/04(金)14:54:15 No.28637
1622786055413

第二次大戦後フランスが少数使用しましたが
13機捕獲されそのうち1機はATAIUに引き渡されテストされたとか。
1945年の9月にフランス軍の少数のフランス空軍要員が到着し翌年2月7日という短期間の運用でした。
配属先は領土的野心を警戒していたタイ国境に配属されてすぐに敵対しないと判断された後はジャングル上空を脚を出し簡易的なエアブレーキとしながらの偵察任務で運用されたとか。
機体の整備が困難なため日本軍捕虜を徴用して整備にあたらせたとか。
後にスピットファイアと共に到着した本体と共に後退して役目を終えました。

無題
Name名無し 21/06/04(金)14:58:21 No.28638
http://cgi.2chan.net/f/src/1622786301602.jpg
調べると少数ですが多種の日本軍軍用機が短期間で運用されていまして、一番長く運用されたのが海軍の零式三座水偵というのは意外でしたが。

無題
Name名無し 21/06/05(土)05:43:42 No.28679
http://cgi.2chan.net/f/src/1622839422876.jpg
国共内戦前に国府軍が捕獲した隼戦闘機を山東省に集めて3つの飛行隊が運用しようとしましたが
スペアパーツとメカニックを調達できなかったと1946年には飛行不能となってしまいます。
後に共産党軍が5機捕獲し東北部に新設した東北古航空学校にフェリーしようと日本人操縦手が2機操縦して飛行しましたが地理に不慣れだったために道に迷って墜落したと推測されています。
後に別個所から集められた隼を使用し東北古航空学校で運用され、中国共産党の航空士官候補生は、2 人乗りの立川キ-55 練習機での飛行からはやぶさでの単独飛行へ移行する工程に組み込まれ元日本軍人や満州国軍人が実地面を担当しています。
そして1948年3月に航空学校の人材で飛行隊を編成させられ国共内戦に参加し
1949 年 10 月 1 日の中華人民共和国建国パレード
に飛行隊が参加するも隼の老朽化によるトラブルを恐れ飛行させることを断念します
その後1949年11月までにまだ使用されていたはやぶさはわずか5機でした
これらの最後の5機は第 7 航空学校でトレーナーおよび教材として使用されましたが1952年までにすべての隼が練習機から引退しました

無題
Name名無し 21/06/05(土)05:44:16 No.28680
http://cgi.2chan.net/f/src/1622839456546.jpg
1947年10月15日の午後陽北嶺飛行場に所属する国民党の中国人が操縦するP-51D4機が北東旧航空学校に所属するKi-55練習機と遭遇し戦闘になり
日本人教官操縦手が回避している所を目撃していた共産党軍操縦手がスクランブル発進をして交戦を行ったのが共産党軍での隼の最初の戦闘といわれています

後は第二次大戦中に国府軍に捕獲された隼1型機の話が気になる所ですね

無題
Name名無し 21/06/05(土)09:09:51 No.28691
某惑星の感想だが零戦より随分とロールが速い
クルクル回る

無題
Name名無し 21/06/05(土)22:25:40 No.28748
http://cgi.2chan.net/f/src/1622899540582.jpg
インドネシアでも少数の隼戦闘機が運用されていまして
日本敗戦後の9月にジャワ島に分散する旧日本軍機をかき集めて
戦前にオランダで飛行訓練を受けたインドネシア人1人の教官で操縦手の育成を開始しました
そして戻って来たオランダ軍の空爆によって多数の航空機を破壊される中
1947年7月29日に行われたインドネシア空軍による初めての反撃に参加した少数の機体の中に隼戦闘機が加わりました
再生した隼は少数機のようで1949年の独立までに零戦・99艦爆・1式陸攻の海軍機も加わる中
生き延びましてジャカルタの航空博物館に最後は収まったようです

無題
Name名無し 21/06/06(日)21:57:22 No.28856
>生き延びましてジャカルタの航空博物館に最後は収まったようです
零戦、隼、99式襲撃機が展示されているが
戦後飛行場跡から回収復元された機体で
生き延びた物ではないよ

無題
Name名無し 21/06/06(日)21:15:56 No.28851
http://cgi.2chan.net/f/src/1622981756475.jpg
1942年4月のドゥリットル隊の日本本土奇襲を受けて、日本陸軍では同年5月から同隊が着陸した中国大陸の中国軍航空基地をツブす作戦(第2次せ号作戦)を開始するんですが、その一環として7月30日、飛行第24戦隊所属の27機及び独立飛行第10中隊12機の計39機の1式戦1型が、衝陽の飛行場の攻撃に出ているんだそうで

飛行第24戦隊は既にフィリピンで97式戦を以て米軍と戦った経験を持ち、新鋭「隼」に機種転換直後で士気は高揚していたそうなんですが、対する米軍側からは中国特任飛行団(ChinaAirTaskForce:CATF)所属の10機のP-40Eが邀撃に上っており、日本側は撃墜確実3機、不確実1機の戦果を報じているんですとか(米軍戦果報告も同数)

但し実際にはこの空戦で失われた米軍機は1機もなく、逆に日本側は独飛10中隊の「隼」
1機が敵地に不時着して鹵獲されているんですが、この「隼」は状態がよかったらしく、
後に飛行可能な状態に修復され、米軍の調査機関に回されたようです

無題
Name名無し 21/06/06(日)21:19:22 No.28852
1622981962267

「隼」39機対P-40が10機、中国における「隼」と米軍機の初対決は、敵に「隼」1機を奪われるという、日本側の敗北に終ってしまったわけなんですが、以降8月8日までに計4回行われた飛行第24戦隊とP-40との空戦全体を通じての結果も、失われた「隼」6機、空中勤務者6名(+独飛10の1機1名)に対し、撃墜されたP-40は1機(1名)のみという、「隼」の完敗であったそうです

CATFは前身のAVG(米国義勇航空隊)の戦訓を受けて、徹底して身軽な日本機との格闘戦を避けた一方、「隼」に乗り換えたばかりの飛行第24戦隊では、頑丈なP-40の急降下に追随して、機体強度を越えて引き起こした結果、3機が空中分解で失われており、それを見て動揺した2機が、更に帰還時に事故を起こすなどの損害も別に生じているとのこと

互いの部隊の彼我の機体特性への認知度というか慣れの差が、勝敗を分けたということなんでしょうかねえ

無題
Name名無し 21/06/07(月)00:10:44 No.28876
飛行審査部で酸素ボンベからエンジンに酸素供給する装置を隼に着けてたけど、何が駄目だったんだろう?
B29と並走出来たというし、危険性も体当たりよりはマシだと思うけど。

無題
Name名無し 21/06/08(火)18:09:43 No.29037
>飛行審査部で酸素ボンベからエンジンに酸素供給する装置を隼に着けてたけど、何が駄目だったんだろう?
>B29と並走出来たというし、危険性も体当たりよりはマシだと思うけど。
酸素過給の話なら酸素充填に時間が掛かったのもあるし、そもそも酸素過給自体の開発が難航したのもある
充填は7時間掛かるし充填した液体酸素は一晩で抜けてしまう
格納庫で火災が起きたのもあるね
開発者の回想録が残ってる

無題
Name名無し 21/06/07(月)19:30:51 No.28969
1623061851112

航空機エンジンへ酸素噴射を行い、高高度での出力を向上させるアイデアは、大元は1942年12月中旬、中島飛行機のエンジン部門所属の技師さん達から提案されたそうなんですが、陸海軍の承認を受けて「サ号実験」と命名されたこのプラン、気体の酸素ボンベは重い上に、酸素の必要量が人間用とは段違いというわけで、低温で液化した酸素を用いることにしたんですとか

真鍮製球型で、二重構造の中間部が真空の「魔法瓶」めいた容器に積めて携行するものとし、酸素の消費量はおおむね一馬力一時間当たり0.8キロを要する計算で、実際の携行量は100キロ程度として300馬力20分程度の短時間、いわば実際に敵機と交戦する短時間の間に絞って出力を向上させるというものだったそうです

越中島にあった清水低温研究所と中島飛行機の協力で装置が出来上がるのにおおむね1年、地上試験を経て、「月光」双発戦闘機に搭載しての空中試験が始まったのが1943年1月からだそうなんですが、試行錯誤の末、同年春頃には安定した効果を発揮できるようになったとのこと

無題
Name名無し 21/06/07(月)19:33:08 No.28970
1623061988377

ところが中島側での試験を終えた「サ号装置」搭載の「月光」を、横須賀の海軍飛行実験部に納めようとした矢先、技師さん達が格納庫内で「月光」の機内を清掃中、容器から自然に気化して滞留していた酸素ガスと、燃料パイプから漏れ出して充満していたガソリン蒸気の混合気が、清掃に使われていた掃除機のモーター整流子のスパークで引火、液体酸素容器および機体の燃料タンクも誘爆して大火災という事故が発生してしまったんだそうで

それでもその後、液体酸素の危険性に考慮して、操作性・安全性をより考慮した新設計の装置が開発され、1944年5月に行なわれた飛行試験では、

「酸素の気化が不十分だったり、量が多すぎたりすると、分配が悪くなってシリンダ温度が高くなるので、一定の限度があ」
るものの、
「高度1万メートルで出力の増加が30%位になる程度には使用しえることが」
分かったそうです(「日本航空学術史」より)

無題
Name名無し 21/06/07(月)19:34:35 No.28972
1623062075464

海軍空技廠の技官さんで、中島側と協力して「サ号」研究を進めた中田金市さんによると、

「飛行機が酸素を持って歩くことは不利に決まっているが、排気タービン駆動の過給機の完成が遅々としている場合、一時凌ぎとして、この不利を敢えてしても一万メートルの上空で10分間でもいいから、相当の性能が欲しいという要望が強くなったのが昭和18年頃」

…で、昭和19年には5月の実験成功を受けて、7月からは量産準備も始まり、液体酸素補給センターの設備計画、パイロット用の小型サ号装置等の量産計画なども立ち上げられたそうなんですが、技術史ライターの前間孝則氏によると、

「しかし、装置機器を量産し、飛行機に積むまでの時間は残されていなかった。しかも、銃撃されたときに液体酸素が爆発するかもしれないと恐れたパイロットが、この酸素過給装置の搭載に積極的ではなく、結局は、使用されることなく、むなしく終戦を迎え」

…たんですとか

無題
Name名無し 21/06/07(月)19:36:53 No.28974
http://cgi.2chan.net/f/src/1623062213523.jpg
因みに1944年11月1日、サイパン島のイスリイ飛行場から飛び立ったB-29改造の偵察機F-13A「トウキョウ・ローズ」号が快晴の東京上空に侵入、約一万メートルの上空から約35分間にわたって「値段の付けられないほど貴重な数千枚の写真(カーチス・ルメイ)」を撮影し、首都防空の任務に当る陸軍第十飛行師団および海軍302空の防空戦闘機を尻目に悠々と飛び去っていったそうなんですが、このF-13に、ただ一機同高度まで達して併行飛行までしたのが、偶々この日「サ号」装置の試験中だった陸軍審査部の「隼(林武臣准尉操縦)」であったんだそうで

惜しくも実弾未搭載の為、真横に付けて外形・飛行状況のデータ取りをしただけで終ってしまったそうなんですが、仮にこの時実弾も積んでいて、首尾よくF-13の撃墜にまで成功していたならば、或は「隼」が東京上空でB-29を墜とした初の機体になっていただけでなく、「サ号」装置の威力が評価されて、その後の採用状況にも、大きく影響を与えていたかもしれないですなあ

無題
Name名無し 21/06/08(火)11:51:51 No.29016
確かB-29と初めて交戦した日本機も一式戦でしたね
インドと中国の国境上空で、フェリー中のB-29と偶然遭遇して、お互い相手を撃墜したと報告しているものの、実際にはどちらも損傷しただけで墜落機はなかったとか…

無題
Name名無し 21/06/08(火)13:16:06 No.29020
機銃2門だけの1式戦でB公落とすのは大変そうやね・・・

無題
Name名無し 21/06/08(火)16:36:36 No.29031
しかも12.7mm・・

無題
Name名無し 21/06/08(火)16:46:19 No.29033
パイロットを正確に打ち抜ければ12.7ミリでもB公の撃墜は充分可能なのである

無題
Name名無し 21/06/08(火)18:12:07 No.29038
>パイロットを正確に打ち抜ければ12.7ミリでもB公の撃墜は充分可能なのである
無理だと思うよ…
某惑星で身に染みたけど防護銃座がカチカチな爆撃機は下手な戦闘機よりも厄介
圧倒的な速度優位でもなけりゃ返り討ちにあう

無題
Name名無し 21/06/08(火)21:40:52 No.29062
1623156052520

大戦中日本の友好国だったタイの空軍でも、日本から購入した「隼」が使用されていたわけですが、タイ空軍パイロットさん達に「隼」の操縦教育を行った一人である、飛行第33戦隊の操縦者だった山本斉さんによると

「教育に来たタイ空軍の将校はほとんどすべて欧米に留学して基本教育を受けた者ばかりで、操縦経験は明野を卒業して三ヶ月目という私などの比ではなく、飛行時間も千時間以上のベテランであった」

「常に礼儀正しく(略)説明したこともよく守り、慎重な訓練を行っていたのが印象的であった」

「何しろ、タイ空軍では飛行機を自分の不注意で壊せば、自腹で弁償しなければならないとのことなので、皆が慎重にならざるを得ないということがありありとわかった」

…そうです

無題
Name名無し 21/06/08(火)21:46:34 No.29063
1623156394891

機体破損修理は自腹、というのはちょっと世知辛い印象なんですが(棒)
やがて大東亜戦争も後半になってくると、東南アジア地域の日本軍の後方地帯だったタイにも連合軍機の空襲が始まり、時にはタイ王立空軍所属の「ハヤブサ」が、B-29と交戦することもあったんですとか

1944年6月5日、バンコクの鉄道操車場を目標に初めてB-29編隊が来襲した際には、3機が邀撃にあがったものの戦果は挙げられずじまいであったそうなんですが、同年11月27日、2度目となるB-29編隊(55機)の来襲の際には、発進した7機の「ハヤブサ」の内、ターサック・ウォラサップ=サン搭乗の1機が、B-29からの防御砲火で被弾炎上しつつも1機を撃破した、とされているんだそうで

実際、米軍側の記録では、B-29の内1機(カール・E・ブラックウェル中尉機)が未帰還となった他、別の1機(ロバート・モス大尉機)が空戦で手ひどく被弾、辛うじて基地までは辿り着いたものの、機体は廃棄処分となったとのこと

無題
Name名無し 21/06/08(火)21:47:53 No.29064
http://cgi.2chan.net/f/src/1623156473862.jpg
もっとも、この空戦にはタイ空軍機以外にも日本陸軍の「隼」も十数機が参加していたそうですので、実際に1機、若しくは2機のB-29を葬った「はやぶさ」が日タイどちらの所属機であったかは定かではないんですが、何れにしろ、1式戦による戦果であったのは間違いなかったようです

因みに殊勲のターサック=サンは燃える愛機から落下傘降下、やけどを負いつつも生還されておられるそうなんですが、流石にその後失われた「ハヤブサ」の代金を、タイ空軍から請求されたりはしなかったと思わr(略)

無題
Name名無し 21/06/08(火)23:23:21 No.29076
http://cgi.2chan.net/f/src/1623162201740.jpg
10分50Lの液体酸素ってそんなデュワー瓶よく隼におさまったな
この右の機械の下部分で30Lデュワー瓶だぞ(冷却再生器ついてるけどまあそんなにデカくないから無視)

無題
Name名無し 21/06/09(水)13:35:01 No.29113
B-24とかなら割と撃墜しているんだけどね
B-29だと下手すると普通に1式戦より早いんじゃって場合も・・・

無題
Name名無し 21/06/09(水)15:49:13 No.29122
http://cgi.2chan.net/f/src/1623221353331.jpg
満州国空軍でも隼戦闘機が運用されていましてファインモールドのプラモデルでもご存じでしょうが
ググって見たらこんなもの位しかないのですが

1945 年に中島の Ki-43 を与えられアメリカのB-29 スーパーフォートレスを迎撃するより良いチャンスを得ました
マンチュクォンのパイロットは爆撃機の到着予定時刻を知らされ到着予定時刻の約 20 分前に離陸し
7,000 メートルに登って B-29 が範囲外に出る前に正面からのパスを行いました。
当時は満人操縦手の育成が行われていて日本陸軍から移籍した人なのかどうか知りたい所です

1960年代のKF誌に掲載されていた中国戦線での日本陸軍航空史ですと
終戦後進駐していたソビエト軍が舐めた態度で航空基地に乗り込んできた所
3機編隊の隼戦闘機が現れて見事な曲劇飛行を披露すると飛行場へ3機同時に激突し自爆死を敢行
その後ソビエト兵達の舐めた態度が消え紳士的に振舞ったそうです
その自爆した隼が満州国軍か日本陸軍機だったかは失念しましたが

無題
Name名無し 21/06/10(木)22:31:57 No.29286
http://cgi.2chan.net/f/src/1623331917832.png
小山悌氏は九七式戦、隼、鍾馗、疾風の設計主務者を努めた人材だが
三菱の堀越二郎氏や川崎の土井武夫氏と比べて知名度が低いよね?
むしろお弟子さんの糸川英夫氏の方が世間ではずっと知名度が高い。

また面白いのは土井さんの師匠がドイツ人のフォークト博士だったが、
小山さんはフランス人のアンドレ・マリー博士から学んでいるので、
同じ日本のメーカーでありながら川崎はドイツ流、中島はフランス流の
設計思想を受け継いでいるところ。

無題
Name名無し 21/06/11(金)16:25:51 No.29360
みんな年齢差も近いんだっけ?
お互いいい刺激になってそうやね

無題
Name名無し 21/06/11(金)22:21:02 No.29396
>小山悌氏は九七式戦、隼、鍾馗、疾風の設計主務者を努めた人材だが
>三菱の堀越二郎氏や川崎の土井武夫氏と比べて知名度が低いよね?
>むしろお弟子さんの糸川英夫氏の方が世間ではずっと知名度が高い。
本人は戦争に関わって人殺しの武器を作ったことを後悔しててあまりそういう話をしたがらなかったそうな

無題
Name名無し 21/06/12(土)18:33:01 No.29466
>本人は戦争に関わって人殺しの武器を作ったことを後悔しててあまりそういう話をしたがらなかったそうな
よく美談として語られるその手の話も結局「負け戦」ゆえなんだろうね
負けちゃうと名誉もへったくれもない
戦勝国側で人殺し云々なんてたわごと聞いたことがない

無題
Name名無し 21/06/14(月)01:27:03 No.29625
>戦勝国側で人殺し云々なんてたわごと聞いたことがない
戦勝国側にも良心の呵責に苦しんだ兵器設計者は少なからずいたと思うけど
戦勝国の場合は「戦勝に貢献した英雄」という社会的評価があるのに対して、敗戦国の場合は「実質的な戦争犯罪人」として世間から白い目で見られることも少なからずあったと思う。
この社会的および心理的な差というのは大きかったように思うな。

フォン・ブラウン博士? あの人の精神構造は特別なんじゃないかな? (´∀`;)

無題
Name名無し 21/06/14(月)14:03:00 No.29653
>>本人は戦争に関わって人殺しの武器を作ったことを後悔しててあまりそういう話をしたがらなかったそうな
>よく美談として語られるその手の話も結局「負け戦」ゆえなんだろうね
>負けちゃうと名誉もへったくれもない
>戦勝国側で人殺し云々なんてたわごと聞いたことがない
広島に原爆を落としたパイロットと原爆を開発したアインシュタインは終生原爆に関わったことを後悔してたぞ

無題
Name名無し 21/06/11(金)19:27:16 No.29376
三型のエンジンは零戦では不採用になった水メタノール噴射式だと聞いたが、出力向上に結構な期待をかけてたはずなのに不採用になるくらいのものを、隼ではその手のシステムに慣れてるからといって問題なく使えたんだろうかと思う。配備数が少ないためトラブルも目立たなかっただけではないかと。

鍾馗に飛燕、後継機の疾風も見えてたから隼三型が全面採用されるわけでもなく、ほぼそれにかけることになる海軍とは事情がちがったのかもしれないが。

無題
Name名無し 21/06/11(金)20:51:54 No.29385
1623412314642

>No.29122

終戦後の8月19日、満州の奉天北陵飛行場に編隊で自爆突入した話でしたなら、日本陸軍第2航空軍羽飛行団中、第26教育飛行隊所属の「隼」のコトではないでしょうか

指揮官鎌田正邦大尉以下、後藤宰久、西谷真六、福田滋中尉らの4機編隊で、東京から関東軍に「承詔必謹」の勅使を務めた竹田宮恒徳王の護衛飛行を果した帰途の話だったとのこと

因みにこの日の奉天北陵飛行場は非常に慌ただしかったそうで、正午過ぎに東京を目指す満州国ラストエンペラーの溥儀=サンを乗せた通化からの連絡機が飛来、皇弟や側近らを乗せた後続機を待っていた所に、ザバイカル方面軍政治部長A・D・プリトウレ少将率いる総兵力225名のソ連軍空挺部隊が輸送機で奇襲着陸してきたんだそうで

当初、ソ連側もまさか同飛行場に満州国皇帝がいるとは思っても居なかったそうなんですが、程なく飛来した後続機の乗員の口からその存在を知り、思わぬ「獲物」に驚喜していた所に、突如飛来してきた鎌田編隊が飛行場端に突入してきてまたまた驚愕…という流れであったようです

無題
Name名無し 21/06/11(金)20:57:12 No.29386
1623412632204

>満州国空軍

1944年12月7日に、B-29重爆108機が奉天の航空工場の攻撃に出撃しているんですが、この攻撃は同地に収容されていた、約1600名の連合軍捕虜の士気高揚も意図していたんですとか

これに対し、邀撃する日本側の戦力は飛行第104戦隊の「疾風」、2式単戦、1式戦、独立飛行第25中隊(2式複戦など)、独飛81中隊の武装100式司偵の他に、満州国空軍の97式戦および1式戦約10機などであったそうなんですが、日本および満州国側とも、かねてより必墜を期して空対空特攻部隊を編成して待ちうけており、連合軍捕虜さんたちの見守る奉天上空の邀撃戦は、何機もの日本機がB-29に体当たりする、凄絶な光景になったそうです

まず、「ギャロッピン・グース」が独飛25の池田忍軍曹の2式複戦の体当りをうけ墜落(池田軍曹も戦死)したのを皮切りに、「ハンピン・バニー」は104戦隊の永田忠則曹長、若しくは明野吉博軍曹の2式単戦の体当たりで墜落(日本側両名も戦死)、「ジョージア・ピーチ」は第4錬成飛行隊の宗文朗少尉の「隼」に体当たりされ第一エンジンのプロペラを損傷したものの、辛うじて基地まで辿り着いたんですとか(宗少尉も落下傘降下で生還)

無題
Name名無し 21/06/11(金)20:58:35 No.29387
1623412715272
結局、この作戦で失われたB-29・7機のうち、事故などを除いて日本機の攻撃で失われた機体が4機に対し、日本側の損害は2式単戦2機と隼1機、2式複戦1機と97戦1機の5機、戦死操縦者が4名と負傷1名であったそうなんですが、この内の97式戦1機は満州国空軍の所属機で、戦死した松本太平少尉はやはりB-29に体当たりして散華したと伝えられているそうです

損失機のほぼ全てが体当たり、若しくは体当り攻撃中に敵の防御火網に倒れたものという壮絶な戦いぶりであったようなんですが、2週間後の12月21日、およそ40機のB-29編隊による奉天空襲の際にも、チャールズ・ベネディクト大尉操縦のB-29が満州国空軍の97式戦(松本太平少尉、または西原成雄少尉機、両名戦死)の体当たりによって墜落、他に1機が第104戦隊の「疾風」により撃墜され、日本側の損害は満州国軍の97式戦2機(2名)であったとのこと

こうした奮戦ぶりを示した満州国空軍の「隼」及び97式戦の操縦者さん達について、哈爾浜(ハルビン)生まれで戦前戦中は国策会社である満州航空のパイロットを務めた、下里猛さんという方の手記の中で触れている箇所があるんですが、曰く

無題
Name名無し 21/06/11(金)20:59:24 No.29388
1623412764640
「(12月7日)迎撃戦には満州国軍『蘭花特攻隊員』として哈爾浜中学グライダー部の同期生、新妻上尉と朴中尉が参戦した(略)初の体当たり攻撃で自爆した満軍の春日中尉を讃えて、森繁久彌の作詞で『嗚呼、蘭花特攻隊』という唄が作られ、その功績が喧伝された」

「ちなみに、飛行第104戦隊は満州に残された唯一の精鋭戦闘機隊である。しかし、内情は南方戦線へ抽出されて弱体化していたので、満軍から日系の熟練パイロットを招集していた」

「満州国軍航空学校長はノモンハン事件で勇名を馳せた野口少将である。哈爾浜に駐屯していた野口部隊(飛行第11戦隊)は開戦と同時に出陣して奮戦したが、充分な補給も援軍もない(略)戦いを強いられて、多くの戦死者を出して停戦となった」

「野口部隊長は敗戦の責任をとって退役し、満州国軍に迎えられたのである」

無題
Name名無し 21/06/11(金)21:01:02 No.29389
1623412862362s
「野口少将は、ノモンハンで捕虜となって抹籍されていた部下のパイロットを満軍の軍属教官として招いた。満軍航空隊を実戦的訓練で鍛えて、精鋭戦闘隊に育成したのであった」

「哈爾浜中学グライダー部はノモンハン事件前、この野口部隊で合宿して訓練を受けたのである。満軍に入隊した新妻と朴は、再び旧野口部隊の教官から戦技を鍛えられ、蘭花特攻隊員としてB-29に挑戦したのである」

…んですとか

大戦末期に「隼」より更に旧式の97式戦を駆って果敢にB-29に挑み、遂には体当り撃墜まで果たした満州国空軍の闘いぶりは、生まれ育った満州の地を守るという地元出身隊員さん達の想いと、ノモンハンの古強者だった元日本陸軍飛行隊の教官さん達の指導あってのものだった…というハナシになるんですかねえ

無題
Name名無し 21/06/11(金)22:04:37 No.29393
すみません、誤記に気が付きました

12月7日に体当たりしたとされる満州国軍のパイロットさんは、正しくは春日園生中尉ですね

21日の松本太平少尉と重複して書き込んでしまいました、訂正させて頂きます…

無題
Name名無し 21/06/11(金)23:30:00 No.29399
1623421800420

>No.29385

満州国空軍について記憶違いになっていた所の詳細を教えていただきありがたいです
後は英豪ソによってテストされた機体の話位ですね

無題
Name名無し 21/06/12(土)19:05:32 No.29468
一式戦・隼を語る_檜與平(桧与平)エースパイロットの証言
https://www.youtube.com/watch?v=L4glvsnWJ6U

さんざん既出だが何度視聴しても飽きない。

無題
Name名無し 21/06/13(日)22:13:38 No.29603
http://cgi.2chan.net/f/src/1623590018316.jpg
米軍に捕獲された隼と言いますと
>No.28851
の中国戦線で捕獲されていますが調べてみますとニューギニアのブナ飛行場で1942年後半に捕獲した機体の方が有名なようで
テクニカルエアインテリジェンスユニット–南西太平洋(TAIU–SWPA)という米陸軍航空隊と豪州空軍後に英空軍で構成された日本軍航空機の調査組織によってテストされました。
豪州イーグルファーム空軍基地で1942年11月の間に調査が行われ機体は5基の部品で構成されている事が判りました
テスト飛行はスピットファイアVに対する模擬ドッグファイトが含まれていまして
「オスカー」は20,000フィート以下のスピットファイアよりも優れていると結論付けられました。 1943年後半航空機は護衛空母コパヒーに乗って米国に輸送され、
ライトフィールドに送られそこで飛行および評価されました。
その後の消息は定かではなくスクラップにされたかと思います。

無題
Name名無し 21/06/13(日)22:13:42 No.29604
http://cgi.2chan.net/f/src/1623590022107.jpg
フィリピン攻略で捕獲された2型はアメリカに送られてスミソニアン所有機となっていますがもう1機ありまして
フィリピンのクラーク空軍基地にゲートガード機として展示されていた機体がありました
1950年台に行われた基地改修工事の為処分しようとしたところ
日本政府のどの部署かは失念しましたがスクラップにするなら費用は出すから返還してほしいと米国に打電しました
ですが当時のクラーク基地の司令官が大の日本人嫌いであったため勝手にスクラップにしてしまったそうです

残された写真を見ますと程度の良い機体なだけに悔やまれる話ですね。

無題
Name名無し 21/06/13(日)23:14:11 No.29614
見たところこんなに綺麗な状態でちゃんと日の丸も塗ってあって
しかも基地のゲートガードにするぐらいだから最初は
ある種の敬意なり好意でここに飾ったのだろうけど
後からきたその司令官がよほど日本嫌いだったのだろうなぁ
むしろあまりに綺麗に飾ってあるから「こんなものはやく壊してしまえ!」
みたいな感じでかえって反感を煽ってしまったのかもしれない

無題
Name名無し 21/06/13(日)23:25:40 No.29616
ゲートガードなのに基地に向かって襲いかかってる態勢じゃ嫌われて当然では
引用元:http://cgi.2chan.net/f/res/28619.htm