無題Name名無し21/01/01(金)05:55:16 No.516104

Variety_of_Japanese_combat_rations_type_I
様々な戦闘糧食 I型。手前がオカズ缶、奥がカンメシ。
PekePON


http://may.2chan.net/39/src/1609448116501.jpg
正月料理といつても戦場では何も出来ない。それで、やはり糧秣廠でつくりた
小判形の大きい缶詰につめられて、小さいけれどもびんと尾頭を張つた鯛の焼ものや
艶やかな黒豆や、うこん色の金とん、それに数の子、昆布巻、田作が一通り揃つてゐる。
これが一箇づゝ渡つた時の兵隊達の喜びやうは、大へんなものである。
陸軍糧秣本廠第二二一号(昭一六・一・一)より抜粋

明けましておめでとうございます。
正月休みの徒然に、軍用糧食などお語りいただければ幸いです。


無題Name名無し 21/01/02(土)17:57:44 No.516154
1609577864109
昭和18年末からインド洋作戦に出た伊26潜水艦の水雷長さんの手記に、洋上での艦内の年越し準備の描写があるんですが、曰く

「今日は大晦日、静かな海中で大掃除が下令された、迎年準備がはじまると、艦内はなんとなく浮き浮きし、越年気分となってきた」

「艦内神社は清掃され、御幣も真っ白となり、発射管室の御神酒も発令所の神棚に移される。缶詰の餅を円く切ったお供えも出来た。その上に、だれがつくったか紙製のエビ、ただ1個残しておいたじゃが芋を赤インキで染めた橙が乗る。兵隊さんは器用でアイディアマンでもある」

…とのことで、缶詰乍らちゃんと「鏡餅」も用意されていたとのこと

無題
Name名無し 21/01/02(土)17:59:00 No.516155
1609577940684
ただそこはやはり戦争中、大掃除のゴミの海中投棄も終わってホッとした所に敵船発見、魚雷戦用意!となったそうで、「轟沈」の紙(神)を貼った一升ビンの御神酒の霊験新かだったものか見事全魚雷命中、その年最後の戦果を飾ったそうなんですが、その日の夜食には「年越しそば」もちゃんと出たそうです

更に元旦の朝食のメニューは、餅入りの「お雑煮」であったそうなんですが、この日も前夜音源探知していた敵輸送船を発見、文字通り朝飯前の襲撃により見事撃沈したものの、直後に敵哨戒機に発見され

「『タダン、ダダン』と2発の爆発音。頭がしびれ目がくらむような衝撃だ。艦は(略)ブルブルと身ぶるいする。神棚の1升ビンが縛った小索を切り、おどり上がって床に落ちた(略)海水パイプの接手から、白刃のような海水が噴き出した」

無題
Name名無し 21/01/02(土)17:59:52 No.516156
1609577992313

…とのことで、以降10時間以上潜航しての退避行となり、折角の御雑煮も「餅がとけてしまい、まるでおじや」と、「とんだ正月」になってしまったんですとか

それでも無事虎口を逃れた1月3日、2日遅れの元旦日課とされた伊26潜の艦内メニューは

「かまぼこ、筍、ほうれん草、お餅などの入ったお雑煮に、数の子、銀杏、するめ、黒豆等、それに紅しょうが出る。中ぐらいの大きさの鯛が十名ぐらいの各テーブルに1匹ずつ。これで冷凍、冷蔵庫とも完全な空所となった」
というもので、
「酒は十本。もちろん、当直後であるが、足りない分はサイダーで乾杯だ。昼過ぎからは拡声器からレコードが流れはじめた(略)それらを聞きながらまどろむ睡眠の心地よさ」

…と、ようやくお正月らしい気分に浸れたそうです…w

無題
Name名無し 21/01/03(日)02:45:55 No.516188
おせち自体元々正月の間の保存食だし、レーションとの相性は案外よかったりして・・・?

無題
Name名無し 21/01/04(月)00:32:19 No.516229
この口取缶詰ですが、現代に復活させてくれたら独身の自分としては、ありがたいです。
通販でお節料理とかあるけど、どれも面倒臭く、缶を開ければ良い口取缶詰は手頃感があります。

無題
Name名無し 21/01/04(月)10:05:23 No.516243
>No.516229
でもきっと、一つの缶に詰め込んでいるから味が混ざって・・・
全部同じ味になってそう

無題
Name名無し 21/01/04(月)20:47:41 No.516269
前述の伊26水雷長さんの手記には、同潜水艦の日常の糧食についても詳述されているんですが、曰く

「ペナン出撃時に横須賀からの分を含め、糧食65日分、約30トンを積み込んだ。冷凍・冷蔵、米麦、野菜、醤油、みそ庫等はいずれも2週間程度と小さいので、もちろん満杯である。じゃが芋、玉ねぎ、ごぼう等の根菜類は比較的涼しい(32度位か)発射管室に積み込まれた。ここだと2週間は保つ」

「そんなに大量の食糧も、マルジィブで野菜が、カラチで魚や肉が、ハッド岬沖ではほとんどの生ものがなくなった。あとはもっぱら缶詰と乾燥野菜、乾物類の生活となる」

「缶詰は、野菜の水煮を含め、あらゆる種類があるが、はじめの2、3日は、うまいうまいで食欲もでるが、4、5日すると特有の匂いが鼻につき、みんな、ほとんど食欲がなくなる」

無題
Name名無し 21/01/04(月)20:49:21 No.516270
「缶詰生活で乗員に好まれた食事は、たとえば、熱いごはんにトマトの水煮を汁ごとかけ、バターと塩、コショウをたっぷりふりかけたもの、お茶漬けにびん詰の塩辛やがん漬けをかけたもの、飯にたくあんといった類で、缶詰のローストビーフ、ビーフカレー、大和煮、アワビの水煮、乾燥卵のオムレツ、プティング等は、ほとんど見向きもされななくなる」

「乾燥野菜は無味無臭で、どれもこれも全く同じだ。誰かの発案で、シャワー室の片隅で作るもやし、切り干し大根(途中で腐ったが)の酢漬けは人気食品」

…であったそうです

高温多湿の潜水艦艦内で、いくら主計兵さん達が工夫をこらしてくれても、保存食品主体の食事に食欲をなくす…というのは、潜水艦戦記ではよく出てくる話ですが、年末からおせちとお雑煮の連食で胃腸お疲れという方は、伊26潜裏メニュー「トマトバター茶漬け」、お試しになられてみてはいかがでしょうk(

無題
Name名無し 21/01/04(月)21:37:55 No.516274
>じゃが芋、玉ねぎ、ごぼう等の根菜類は比較的涼しい(32度位か)発射管室に積み込まれた。ここだと2週間は保つ
32℃は休眠している根菜とは言えかなり辛い…特に玉ねぎ…
>乾燥卵のオムレツ
日米ともに乾燥卵は不評だったんですね…

無題
Name名無し 21/01/05(火)21:17:14 No.516315
>シャワー室の片隅で作るもやし、切り干し大根
潜水艦の中に栽培室を設けて野菜の栽培をですね…

無題
Name名無し 21/01/05(火)21:53:26 No.516318
http://may.2chan.net/39/src/1609851206577.jpg
>潜水艦の中に栽培室を設けて野菜の栽培をですね…

昭和基地では水耕栽培やってるけど
あちらはまだしもスペースはあるからなあ

無題
Name名無し 21/01/05(火)06:28:15 No.516294
「潜水艦味」ってやつですね
缶詰の金属臭と、オイルや様々な艦内の汚物のにおい、人体のにおいが
換気の悪い艦内で常に一緒になってしまうんで、どんなご馳走が出ても
食欲を失ってしまうという…

無題
Name名無し 21/01/05(火)10:23:45 No.516296
今はかなり改善してるし、潜水艦内での食事はかなり気を使ってると聞く(予備役の人に聞いた)
とは言え、匂いは取りきれないらしい
大変な職場だなと

無題
Name名無し 21/01/06(水)00:07:11 No.516324
>潜水艦内での食事はかなり気を使ってると聞く
アメリカ原潜の食堂映像を見たけど、レストランなみの豪華な内装で美味しそうな料理が提供されてたな
ただし、省スペースのための片手喫食は厳守されてた

無題
Name名無し 21/01/05(火)11:43:24 No.516297
ワキガは配属されないようになってるんだろうなあ
…そもそも適正試験とかで落とす?

無題
Name名無し 21/01/05(火)21:17:34 No.516316
>ワキガは配属されないようになってるんだろうなあ
>…そもそも適正試験とかで落とす?
そんな事で落とす事は無い
パイロット以上に適性がいるんで、多少の事は目をつぶるよ
狭い艦内で普通に過ごせるだけでもすごいのに、戦闘時の重圧なんて頭おかしいレベルだから

無題
Name名無し 21/01/05(火)11:48:48 No.516298
今ならテレビ・ディナーみたいなものもあるしトレイを工夫すればできると思う

無題
Name名無し 21/01/05(火)22:03:10 No.516319
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>乾燥卵

WW2中、エゲレスの潜水艦乗りだったジョン・ウィンゲート=サンの著書に、戦中の英国海軍潜水艦の食糧事情のアレコレが出てくるんですが、氏の乗り込んでいた「U」級小型潜水艦では

「調理員が配属されていないので、水兵一名、時には照準手などが艦の料理長(シェフ)に任命される。電気オーブンを備えた小さな調理室(ギャリー)は、そんな”シェフ”が食事を作ろうと奮闘すればするほど、ますます奇妙な臭気を発散するようになる」
「この任務は仲間から感謝されることがないうえ、すぐに食料品の不足と言うピンチを迎え、いっそう難しいものになる。真水は慎重に使わなければならない。両舷にある二つの真水タンクの量が哨戒可能な期間を左右する要素の一つになるからだ」

…とのことで、当初は正規の教育を受けた料理人は配属されず、各艦で出る食事の質は、偶々任命された素人”シェフ”の腕次第、時に調理場からただならぬ異臭が漂ってきても我慢するほかない…というものであったそうです

無題
Name名無し 21/01/05(火)22:10:00 No.516320
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それでも、運よく料理上手のヒトが当たれば
「多くの料理は、潜水艦でコックと呼ばれていた人たちの腕前と創意工夫のたまものだった。P-46は幸運にも『招集される前パン屋だった』上等水兵ベネットを乗艦させていた。
『このマンチェスター人は進んでまた楽しそうに多くの料理法を着実に改善していた』とスティーブンズは書いている」
「ウナの先任士官ランカスターも、別の上等水兵を憶えている。『この男は平時トラックの運転手だった』が、乾燥卵や乾燥野菜で『びっくりするような料理を作った』し、『彼のオムレツはまったくすばらしかった』」

…と、味気ない保存食原料でも素晴らしい食事にありつけたそうですし、

「潜水艦乗組員が『おひょう魚油カプセル、アスコルビン酸錠剤それに軍隊用ライム・ジュース』などの各種栄養剤を与えられて(略)これらが彼らの健康維持に役立っていた」

…とのこと

無題
Name名無し 21/01/05(火)22:11:48 No.516321
http://may.2chan.net/39/src/1609852308118.jpg
それでも当たりがあれば外れがあるのが物事の道理と言うもので、ある潜水艦では

「このときのコックの選定はひどかった。彼は大きなシチュー鍋で乾燥ホウレン草7ポンド(3.2キロ)を茹でようとした結果、ホウレン草をビルジと小さな調理室一杯にあふれさせてしまった。その後数日間、艦内中にホウレン草の臭気が漂っていた」
…なんてことになってしまったそうなんですが、この時救いの神となったのが、偶々同艦に撃沈された後、救助されていたイタリア人水兵さんであったんだそうで
「彼は自らシェフとして交代するよう志願した。われわれはこれを許した(略)彼はすぐれたコックであることを証明した。われわれは本土出撃以来これほど快適に過ごせたことはないくらいであった」
…そうです

ある意味ではこのイタリア水兵さんの振る舞い、「利敵行為」とも言えそうですが、考えたらイタリア人が逃げ場のない所に閉じ込められて、毎食エゲレス飯(しかも素人作)を食べさせられていたわけですから、まあ止むを得ない自衛行動だったんでは無いでしょk(

無題
Name名無し 21/01/05(火)22:36:12 No.516322
乾燥卵については高橋孟さんの著作「海軍めしたき物語」でも
「(略)粉末状になった卵(水に溶かしたら生の卵と変わらない味だった)、今のインスタント食品よりいいものがあったのである」(「今」と言うのは執筆時期の昭和52年頃)
とあり、あるいは烹炊員の技量に依存する部分があった可能性もあるかと

無題
Name名無し 21/01/06(水)15:12:51 No.516347
>あるいは烹炊員の技量に依存する部分があった可能性もあるかと
リエナクトで粉末卵の調理経験がありますが、上手く味付けしないとそのままでは美味くはないですね
水で戻し塩、砂糖少々、粉末コンソメで味付けし米軍フィールドレンジで焼きました

無題
Name名無し 21/01/06(水)10:36:48 No.516337
戦時中、長期間航海してきた日本の潜水艦の乗組員たちが疲労困憊しているのに、ドイツのUボートの乗組員はピンピンしている!っていうんで、ドイツ側の潜水艦糧食を教えてもらった話とかあったね
期待に反して、大して変わったものは使って無かったらしいけど

無題
Name名無し 21/01/07(木)17:39:49 No.516394
>期待に反して、大して変わったものは使って無かったらしいけど
管見ながら潜水艦の長期行動だと日本人には「入浴できない」ことが辛くてそれが消耗を招いたのかも
伊17潜に上官していた原源次さんの著作でも体の垢・汚れが辛苦の描写の大きな部分を占めているし
佐世保の場合は嬉野温泉、横須賀だと熱海温泉、呉は湯田温泉、舞鶴は山中温泉と保養所が確保されていたという話もある

無題
Name名無し 21/01/06(水)14:29:26 No.516346
アイスクリームのフレーバーを何味にするか決定の権限を持っているのは艦長だという米国の原潜
士気に関わるから極めて慎重な判断が求められます

無題
Name名無し 21/01/06(水)20:41:24 No.516364
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伊26潜と同じく、インド洋での通商破壊戦に従事していた伊6潜では、酷暑の艦内の暑気払いに、「粉末鶏卵とミルクと砂糖」で作ったアイスクリームが乗組員さん達に振るまわれ、大好評であったそうですw

因みに乾燥鶏卵は18世紀末頃からは割合ポピュラーな保存食であったそうで、1911年に南極で遭難した英国スコット隊の糧食にも加えられていたんですとか
そしてエゲレスでは1930年代頃から、より近代的なフリーズドライ製法による乾燥卵の製造が始まるんですが、元々は製菓業者さんが中国から輸入していた液卵の嵩を減らすために導入したものであったそうです

しかしながら程なくWW2が勃発し、ドイツUボート部隊が猛威を奮い、また船舶が軍需に徴用されて民需輸送が落ち込む中、船腹量の占有割合が「生鮮卵の20%」という乾燥鶏卵は輸送効率からも重要な食品とみなされ、また戦時下でも鶏卵の生産が過剰気味だったアメリカからの供与により、イギリスの各家庭は4週間ごとに「生鮮卵1ダースに相当」する粉末卵の配給が受けられたそうです

無題
Name名無し 21/01/06(水)20:43:30 No.516365
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ただ、ケンブリッジ大学研究員のリジー・コリンガム=サンによると、所謂「戦時食」のなかでも、最もエゲレス国民に嫌われたのがこの「粉末卵」であったんだそうで、例えば戦中寄宿学校の生徒だった人の証言が紹介されているんですが

「いまなお、血が凍る思いをさせられる単語は、粉末卵です」
「何よりも最悪の朝食は…水分が染み出したスクランブルエッグのかたまりで、厚さが2インチあり、その下のトーストと呼ばれる物体も水浸しでした──そしてその味ときたら──※△■!」

…という、到底「卵の代用品と呼べるようなしろものではなかった」んだそうで

他にも船腹量の節約策として「だれもがおぞましいと考えていた」乾燥バナナの粉など、様々な加工品が考案されたものの、殆どが(エゲレス人にさえ)乾燥卵同様敬遠される味だったそうなんですが、唯一コンデンスミルク缶のみは歓迎され、支給された兵隊さんは民間人との物々交換を行う際、大いに重宝したそうです

無題
Name名無し 21/01/06(水)20:46:42 No.516366
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最も、そんな嫌われ者の乾燥卵でも、国によっては大歓迎されたそうで、例えば1945年5月、カナダ軍によってようやくドイツの占領から解放されたオランダのある地域の女性の回想録によると

「食糧品店には、軍の余剰物資から仕入れた粉末卵が売られていた。いままでだれも聞いたことのないものだったが、その可能性にみんながうっとりした。ただ水を加えるだけで、オムレツが焼けるのだ!」
「もうひとつの新しい食品はスパム…缶詰の肉だ。これもまた無数の可能性があって、どれも美味しかった」
…そうです

女性の住んでいた地域は独軍へのサボタージュの報復として、食料やガス、電気の供給を止められ、大変な耐乏生活を強いられていたそうですので、ようやく十分な食料にありつけた感動も一入だったんでしょうが、やはり空腹に勝る調味料なし、ということなんですかしら…

無題
Name名無し 21/01/06(水)22:52:47 No.516374
なんで乾燥卵を焼いたら水浸しになるのや
人為的に水を加えているのではないか

無題
Name名無し 21/01/07(木)00:57:20 No.516377
>なんで乾燥卵を焼いたら水浸しになるのや
昔の粉末卵粉は水分との結合に時間がかかるとか上手く融合しないという問題があったのかもね
大量に作るので調理員が適当にかき混ぜた程度で出していたとか
(第一、2インチの厚みで焼くこと自体が難しいと思うw)

無題
Name名無し 21/01/07(木)09:34:57 No.516383
2インチって厚焼き玉子だから
そういう焼き方しないでタダ枠に流し入れて固まるまで加熱してるだけなんだろうな
んで均一に焼けるわけでもないしちゃんと混ぜられてるわけでもないから水分が分離しちゃうのか

無題
Name名無し 21/01/07(木)20:10:20 No.516395
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「日本海軍潜水艦史」に、海軍潜水学校で食品衛生の立場から研究調査を進めていた瀬川俊雄さんという薬学博士・薬剤中佐さんの回想記が引用されているんですが、曰く

「第二次世界大戦時南方に出撃した潜水艦は艦内の高温多湿に乗員の疲労も著しく、純白米食に茶で僅かに食事を済ます実情だった」
「特に若い乗員程この傾向著しく、折角の食卓上の肉類もビタミン錠も無視されて、脚気患者や栄養失調患者すら発生して、一部潜水艦では戦闘行動に支障を来した」

「昭和19年(略)大型潜水艦中3隻は当時原因不明の浮腫患者が、特に若い乗員中に多発、作戦困難となり内地に帰投した」

「早速(略)潜水艦衛生研究部はその全力を結集して(略)原因の究明とその対策に没頭した(略)だが(略)的確な対策もたたず終戦を迎えて研究は一時中断された」

無題
Name名無し 21/01/07(木)20:11:38 No.516396
http://may.2chan.net/39/src/1610017898261.jpg
「そして十余年、昭和31年(略)九大(外科)友田教授は胃癌患者(略)でしばしば浮腫が発生するが、之はビタミンB1の不足(略)に起因するものと発表された」

「そこで友田教授の御意見を伺った所(略)潜水艦浮腫も単食による栄養失調症に起因するものと断定され、それ迄不明であった問題は急に解明された」

…そうです
いくら食欲のない時でも食べやすくても、「お茶漬け」ばかりで毎日を過ごし、折角用意されていた肉類やビタミン剤に手を付けないとトンでもないことになるYO!という教訓であったみたいなんですが、一方同手記ではドイツ潜水艦の糧食にも触れられていまして

「独潜U511号に便乗して帰国された杉田医博の体験談によれば、独潜の糧食は次のように述べられている。パンは黒パン(一~十日分、~二十日分、~三十日と一〇日分ずつ焼き方が異なる由)で何れも五百瓦になっていた。」

無題
Name名無し 21/01/07(木)20:12:41 No.516397
1610017961872

「食事に当り各人はそれぞれの食欲に応じて欲しいだけ切りとり燻製のサラミソーセイヂ、チーズ、バターなどを充分にパンに添えて摂り、生野菜は出港三週間位までは玉葱の輪切り、馬鈴薯等の丸煮があり、以後は主に缶詰馬鈴薯となった」

「レモンを珍重し、ビタミン錠は忠実に服用していた。コーヒーを飲み比較的単純な食事ながら、飽きることもなくスタミナは上々の由」

…と紹介されておりましたり

肉類、果物、ビタミン、ライ麦混じりの黒パンと、栄養学的には「お茶漬け」よりは遥かに優等生な食生活であったようで、或はこの辺が日独の差異の源であったのかも知れませんが、かといって当時の日本の一般的な兵隊さんに、毎日サラミとバターと黒パンで暮らせ!なんて強制したりしていましたなら、それはそれで士気がガタ落ちするような気がしないでもないですなあ…

無題
Name名無し 21/01/07(木)20:53:27 No.516399
ソ連軍の配給する魚の缶詰が酷い物で
受け取った兵士が悲鳴を上げたとか聞いた

無題
Name名無し 21/01/08(金)00:11:35 No.516407
ニシン...缶詰....

https://sp.seiga.nicovideo.jp/seiga/#!/im6124878

無題
Name名無し 21/01/16(土)20:51:46 No.516829
>ニシン...缶詰....
おお!ロシアの話と思ったらイギリスの話だったんですね記憶違いでした
しかしイタリアがイワシの缶詰を作ったらアンチョビなんて名前で売られ
ピッツアの具になったり・・コラ!コーン乗せるな!コーラで流し込むな!

無題
Name名無し 21/01/08(金)00:30:24 No.516408
「ソ連・ロシア」「海軍」「食事」と来れば戦艦ポチョムキン…

無題
Name名無し 21/01/08(金)01:04:33 No.516409
ソ連軍は給与が悪くなると逃亡兵が増えるからw、食事量などは気を使っていたと聞くけどね(パンツァーグラフに書いてあった)
と言っても塩水とパスタだけの海軍マカロニとか野戦食は茹でジャガイモ数個とレンドリースのコンビーフとか

無題
Name名無し 21/01/08(金)12:45:06 No.516420
>ソ連軍は給与が悪くなると逃亡兵が増えるからw、
戦場では督戦隊や政治将校が目を光らせてたのに
基地ではそんなにザルだったの?

無題
Name名無し 21/01/08(金)13:48:33 No.516421
>基地ではそんなにザルだったの?
基地って・・・これは前線の温食や携帯糧秣の話です
(正確にはパンツァーグラフ誌バックナンバーの高田裕久氏のページをご覧下さい、私も記憶だけで書いているので間違いもあるでしょう)
前線のどこにでもNKVDが居た訳ではないかと
ステレオタイプな「ソ連軍」に囚われすぎな気がします

無題
Name名無し 21/01/08(金)12:01:37 No.516419
味付けに薬味や酢を効かせて工夫した潜水艦航海食でも生糧品が不足してくると生野菜が渇望されたとのこと
玉ねぎすら齧れないなか固形ケチャップや刺激の強い紅生姜が生野菜に変わって尊ばれたという記事があったがどこだったか…

無題
Name名無し 21/01/08(金)18:23:06 No.516426
1610097786021
前述のリジー・コリンガム=サンの著書に、WW2中のソ連陸軍の食糧事情の話も出てくるんですが、やはりドイツの破竹の進撃が続いた序盤は事情が悪く

「1941年末までに、ソ連は450万人の兵員を失い(略)肥沃な農業地帯の大半と、相当な数の家畜を奪われ(略)途方もない食糧危機に瀕した」

「戦地勤務の赤軍兵士に割りあてられる食糧は、1日わずか2954キロカロリーだった(略)戦闘中の場合(略)1日3450キロカロリーに増やされることになっていたが、それでも、低温環境下の戦闘に必要な量をゆうに700キロカロリーは下まわる」

「規定量ですら少なすぎるというのに、実際に受けとる食糧のカロリーは、それよりはるかに少ないことが多かった。開戦から1年半のあいだ、歩兵の糧食は、民間人の悲惨な食事よりもわずかにましな程度だった」

無題
Name名無し 21/01/08(金)18:25:46 No.516427
1610097946032

「前線の兵士の場合、朝食が粥、昼食がスープ、夕食がパンときゅうりの酢漬けという内容だ。赤軍の野戦炊事場はごく簡素で、そば粉、干し魚、じゃがいもの食事から得られるなけなしの脂肪で兵士たちは寒さをしのいだ」

「しかも開戦後数年は、赤軍の兵士が野戦炊事場の温かい食事を提供されるのはまれで、大勢が何週間も続けてパンと干し魚の乾物食で持ちこたえた」

…とのこと

そしてそこに更に事情の悪化に拍車をかけたのが、管理部門の腐敗と混乱であったそうで

「1942年3月、軍の機関紙(略)の特派員が、モスクワ北部の(略)前線で兵士たちが飢えていることを報告した。補給将校のアンドレイ・フルリーリョフが現地を査察し、報告が事実であることを知ってげんなりした。輸送上の問題を隠れ蓑にして、将校たちが食糧を闇市場で売り飛ばしていたのだ。首謀者たちは懲罰大隊に送られた」

無題
Name名無し 21/01/08(金)18:27:00 No.516428
「1942年の夏(略)スターリングラードを守っていた第64軍、第57軍、第51軍のあいだで食糧備蓄に格差が生じた」
「第64軍は最も事情が悪く、ほぼ食糧が底をついて、かろうじて3日分程度の小麦粉とパンと肉はあるものの、魚と脂肪はなかった」
「第51軍も似たような状況だが、脂肪だけは59日分と、あきれるほど大量の備蓄があった。両軍とも砂糖はまったくなかった」
「かたや第57軍はかなり状況がよく、1ヶ月分の砂糖、およそ1週間分の小麦粉、パン、雑穀、肉、魚、脂肪を備蓄していた。こうした不備の背景には管理部門の混乱がある」

「その混乱ぶりは、ドイツ軍がスターリングラード周辺地域を占領した1週間後にようやく、赤軍食糧供給本部が前線に食糧を送る計画を策定したことにも表れている。食糧をヴォルガ川の左岸に備蓄することが決まったが、結果的に、はしけでドイツ軍の集中砲火をくぐり抜けて運搬することとなった」

無題
Name名無し 21/01/08(金)18:27:58 No.516429
1610098078689

「食糧がぶじ川を越えても、がれきに囲まれて戦う兵士たちに食事を運ぶのは至難のわざだった。ある対戦車分遣隊の勇敢な炊事番は、背中に大きな軍用保温容器をくくりつけて陣地まで這い、砲火を浴びる兵士のもとにスープや温かいお茶を届けた」

「だが、たいていの場合(略)民家の地下室をあさり、なんであれ残された食べ物を手に入れるほかなかった。あるソヴィエト退役軍人は次のように振り返る。『目に留まったものはなんでも食べた。定期的な食料供給はいっさいなかった。スターリングラードでは、馬や犬も食べた』」

「スターリングラードは東部戦線の心理的な転換点となった(略)とはいえ(略)赤軍の食糧事情の転換点にはならなかった。戦時中に将校だったある劇場支配人は(略)こう話している。
『スターリングラード戦のあとは、配下の兵士に与える物資も食糧もなかった…食べ物といえば、キャベツだけ。やむなく、食料を盗むことを許可し(略)懲罰大隊送りになった」

無題
Name名無し 21/01/08(金)18:29:31 No.516430
1610098171393

「赤軍の部隊は『すべては前線のために」というスローガンをおそろしく濫用した。村に入って馬をかり集め、集団農場から食糧を徴発し、農民の個人菜園を襲って蜂蜜とじゃがいもを奪った」

「兵士たちは徴発の達人になった。ある退役軍人は、仲間とい刺草(いらくさ)を集めたと話している。彼らはあかざの葉を摘み、民間人が放棄していった凍ったじゃがいもを集めた。また畑からにんにくや玉葱を掘って野菜スープを作った」

「壊血病を免れようと、ビタミンCが豊富な松葉を煮て、臭いお茶をたびたび作った」

…そうです
独ソ戦の前半の数年間、独軍と激しい戦いを交える赤軍兵士に対する給養は決して十分とは言えず、彼らが生き延びたのは、むしろなりふり構わぬ各個の必死の努力の結果であったということみたいなんですが、逆にそんな状況下でとにかく独軍を押し返す反撃準備が整うまで持ちこたえたしぶとさは、ドイツ側にも予想外であったんじゃあないでしょか…

無題
Name名無し 21/01/08(金)20:33:40 No.516433
ソ連だと市民らだと動物の角製のボタンや革製品に煮込んで食べた…なんてのも印象的だった

無題
Name名無し 21/01/08(金)21:00:46 No.516439
「これはウジではない ハエの幼虫だ」

無題
Name名無し 21/01/09(土)09:16:29 No.516459
ロシアとか東欧では、塩漬けにした豚の脂身をそのまま食べる習慣があるのよね
日本人の感覚だとどぎついけれど、それぐらいしっかり脂肪を取らないと寒さに耐えられないし、そういう食品が好まれるようにもなるんだろうね

無題
Name名無し 21/01/09(土)11:42:51 No.516466
http://may.2chan.net/39/src/1610160171324.jpg
サーロあるいはサロウですかな
バターやラードを塗るのと同様にパンに載せたり
そのまま食べたり

無題
Name名無し 21/01/09(土)14:56:40 No.516471
イワン・デニーソヴィチの一日の中でもサーロはソ連のラーゲリ内の貴重なカロリー源として重宝されてる描写があったね
寒冷地以外の人間が常食したらすごいことになりそうだが

無題
Name名無し 21/01/09(土)21:16:51 No.516479
1610194611626

>脂肪

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ=サンの「戦争は女の顔をしていない」の中に、ソ連兵士が自分たちの食事のパンと塩漬けの脂身で味付けした粥を、捕虜のドイツ軍兵士に分けてやった話が出てきましたですね

因みにコリンガム=サンによれば、赤軍兵士の食事が大幅に改善されるのは、アメリカからのレンドリーズ物資が届き始めたからであったそうで

「1943年、ソ連はイギリスを抜いて、武器貸与法でアメリカから貸与される食糧が最も多い国となった。貸与物資や食糧は、1941年11月から届きはじめていたが、41年から43年までは、イギリスに送られる量のおよそ30%しか食糧を受けとっていなかった」

「1943年にこの状況が変わり、貸与食糧のおかげで、ソ連内で入手できる砂糖と野菜の量が推計で5割増しになり、肉については5分の1増、脂肪にいたってはおそらく倍増したものと思われる」

無題
Name名無し 21/01/09(土)21:17:54 No.516480
1610194674039

「貸与物資の総トン数でみると、食糧の割合はわずか14%だが、穀類以外の食品は、乾燥野菜、粉末卵、缶詰の肉、牛乳、バター、青果物、ドライフルーツやナッツなど、高度に凝縮された食品だった」

「貸与食糧の貢献度合いを正確に推計する文献証拠はないが(略)スターリンが強く要請する物資がつねに食糧と原材料だった」

「貸与された食糧は、600万人の兵士に高カロリーの良質な食べ物が1日約0.5キロずつ行き渡る量があった。アメリカの缶詰をあけるとき、ソヴィエト人兵士たちは『さて諸君、第二戦線を開こうではないか』とジョークを飛ばしたという」

「缶詰の肉は、西部戦線の代わりとしては貧弱だったが、兵士たちは膨大な数のスパム缶に感謝した」

無題
Name名無し 21/01/09(土)21:18:50 No.516481
1610194730895

「前線の糧食ではほぼ唯一のたんぱく源だった干し魚に、スパムが取って代わった。干し魚には、明らかな欠点がふたつあった。たいして空腹を満たさないし、喉がひどく渇くのだ」

「ドイツの狙撃部隊の射程内で蛸壺壕にこもる小銃兵にとって、喉の渇きをいやす為に水を飲むことは、ささやかな問題どころではなかった。頻繁に用を足すはめになるからだ。スパムはこの問題を解決すると同時に、胃袋を満たし、カロリーもはるかに多く、貯蔵中にねずみに略奪される心配もない」

「アメリカからの食糧は(略)軍需工場の労働者たちにもいくらか割り当てられた(略)粉末卵や粉ミルクやチョコレート(略)水っぽいスープだけでしのいでいたソ連の労働者には、きわめて貴重なたんぱく源とエネルギー源になった」

「こうした貸与食糧が軍隊や工場労働者の配給に回されたことで、国内産品の備蓄にかかる負担がいくらか軽減され、一般市民にもわずかながら多く配給する余地ができた」

無題
Name名無し 21/01/09(土)21:19:59 No.516482
1610194799669

「アメリカから送られた数千トンの野菜の種が、あちこちの家庭菜園で役立った。終戦近くには、一般民間人の平均カロリー消費量のうち、貸与食糧が占める割合は3分の1に達していたと思われる」

…そうなんですが、また同時に

「1943年、赤軍に自給自足の方針が採りいれられ(略)軍隊は5000ヵ所の農場を新設し、肉、魚、牛乳、鶏卵、じゃがいも、きのこ類、緑色野菜を生産し始めた。1944年には、軍の基本糧食のたんぱく量のうち、かなりの割合をこれらでまかなえるようになった」

…という自給自足体制の強化も図られて

「貸与物資のおかげもあって、赤軍の兵士たちは戦争終盤の2年間にようやく(略)良質でカロリーが多い糧食を与えられた」

無題
Name名無し 21/01/09(土)21:21:24 No.516483
1610194884573

「1944年から45年にかけて、赤軍の兵士はひとり当たり年間約18キロの脂肪を消費したが、これは民間人の割り当て量の2倍以上に相当する。戦争の後半に入隊した兵士の多くは、1941年以降はじめて、食事を1日2回とることができた」

…そうです

今の私たちの感覚からすれば、オリジナルのスパム缶は塩辛さという点では干し魚に負けず劣らず喉が渇く食品のような気がするんですが、栄養と保存性の面で缶詰スパムが勝るというのは十分納得できる話ですし、あるいは塩気と脂たっぷりの豚肉の味は、ソ連人にとっては元々馴染み深いものだったのかもしれませんですなあ

無題
Name名無し 21/01/10(日)10:54:56 No.516513
>オリジナルのスパム缶は塩辛さという点では干し魚に負けず劣らず喉が渇く食品のような気がするんですが
干し魚は文字通り水分0で奪うだけだけどスパムはそれなりの水分も含んでいるからじゃないですかね

アメリカのレンドリースは自国(米)の軍隊の用意ができていないので
他国に頑張ってもらおうという算段のもとに行われたので文句言われない位には
頑張ったんじゃなかろうか

無題
Name名無し 21/01/10(日)02:49:09 No.516494
アメリカ恐ろしすぎるな...

無題
Name名無し 21/01/10(日)04:28:36 No.516496
世界各国の自分の兵隊に「スパムはもう勘弁!」って言われる位支給したうえ
同盟国にも大量にばらまくとかいったいどんだけ作ったの?てなるよな・・・

無題
Name名無し 21/01/10(日)06:32:30 No.516497
大戦中コカ・コーラ社は国外だけで64か所の工場を建設したが、そのうち59か所は合衆国政府がその費用を負担したという
我々人間はコーラが無いと生きていけないのだと改めて実感する

無題
Name名無し 21/01/10(日)10:59:57 No.516514
>我々人間はコーラが無いと生きていけないのだと改めて実感する
日本人にはペットボトルのお茶があるのだ
英国人には午後の紅茶

無題
Name名無し 21/01/10(日)14:43:30 No.516521
http://may.2chan.net/39/src/1610257410850.jpg
>我々人間はコーラが無いと生きていけないのだと改めて実感する

コカ・コーラ社ドイツ法人「じゃあファンタ作るわ」

無題
Name名無し 21/01/10(日)09:24:30 No.516498
http://may.2chan.net/39/src/1610238270875.jpg
なにラムネがあればよい

プラゴミが蛇蝎のごとく嫌われる昨今
蓋を捨てる事もなく予想より内容量もない
今こそラムネを復活させるのだ

無題
Name名無し 21/01/10(日)10:12:08 No.516501
ガラス瓶もビー玉も
製造出来ない(設備が無い)って聞いていたが
販売出来る状態になっていたんですねぇ

無題
Name名無し 21/01/10(日)18:11:32 No.516524
>ガラス瓶もビー玉も
>製造出来ない(設備が無い)って聞いていたが
>販売出来る状態になっていたんですねぇ
瓶全体がガラス製の昔ながらのラムネ瓶はもう製造できなくなっているはず
今新規製造されている瓶は飲み口部分がプラスチック

無題
Name名無し 21/01/10(日)11:17:35 No.516515
そういえば日本は脚気予防のビタミン補給として
お茶碗一杯分くらいの砂糖が支給されていたらしいが
それをラムネにして摂取し易くしたとか聞いたけど
水と砂糖と消火剤を混ぜるだけで造れるお手軽
清涼飲料水ってのも日本らしい感じですよねー

無題
Name名無し 21/01/10(日)18:33:27 No.516526
ラムネが海軍で愛用されたのは炭酸ガス消火装置の普及で炭酸ガスが自前で用意できるようになったことと
瓶の「自己完結性」が高い(蓋が瓶自体に組み込まれているので王冠を別途用意する必要が無い)ことからかな

無題
Name名無し 21/01/10(日)18:52:42 No.516527
1610272362514
ナチスの情報宣伝部では、戦中

「アメリカが世界の文明に貢献したのは、チューインガムとコカ・コーラだけだ」

…なんて吹聴したそうなんですが、逆に言えばナチスと雖もコカ・コーラの魅力自体は否定できなかった、というコトなんですかね

因みに米軍の将帥でも、D・マッカーサー=サンやO・ブラッドリー=サン、J・パットン=さんなど、コカ・コーラの愛好者だった方々は少なくなかったそうなんです
が、中でも熱烈な支持者が欧州における連合軍最高司令官だったD・D・アイゼンハワー=サンであったんだそうで、氏が1943年、北アフリカでの作戦を指揮した際、本国に打った

「瓶詰したコカ・コーラ300万本と、その倍のコカ・コーラを毎月、瓶詰め、洗浄し、蓋のできる機材一式を至急送れ」

無題
Name名無し 21/01/10(日)18:54:26 No.516528
1610272466164
「機材は、10箇所に設置できるよう、1日に2万本生産可能なものが10セット必要。600万本の詰め替え用の原液とキャップも送れ」

…という要請電報は、戦後もアトランタのコカ・コーラ本社に誇らしげに飾られているそうですw

当時の同社社長、ロバートウッドラフ=サンの

「たとえどこで戦っていようとも、またわが社にどれだけ負担がかかろうとも、軍服を着たすべての者が5セントの瓶入りコカ・コーラを飲めるようにしろ」

…という厳命の元、戦中消費されたコカ・コーラはおおよそ100億本/杯と推定されるそうなんですが、ラムネと同様、ビンがリサイクル可能で、原液だけ送れば現地生産が可能とはいえ、その規模の大きさはやはりさすアメ…!というところでしょうか

無題
Name名無し 21/01/10(日)18:55:23 No.516529
1610272523763
余談ですが、戦後海外の日本人引き揚げの為に、米軍から使い古しの戦車揚陸艦(LST)が大量に貸与され、日本人の民間船員の手で運行されているんですが、その一人だった加藤智弘さんという方の手記に、米国本土のある港で

「港の荷役にはたらく仲仕が、岸壁においてある大きなボックスに、金を入れてビンをとりだし、カンタンに栓を抜いて、ラッパ飲みで何か黒い液体を、うまそうに『ゴクッゴクッ』と飲んでいる」

…風景を見た話が出てくるんですが、

「私はそれがなんであるか、めずらしく、たしかめてみたい思いにかられた。それに、金をいれただけでビンが出てくる装置も珍しかった」

「彼は(略)さらに1本をだして、それを本船までわざわざもってきて、私に飲めという」

無題
Name名無し 21/01/10(日)18:58:45 No.516530
1610272725581
「拒絶するのも礼儀に反すると反すると思い(略)ラッパ飲みで、続けざまに飲んだ」
「その独特の香りが、口の中にさわやかにひろがり、飛び散る様な炭酸水の刺激は、サイダーとはまた違う南国の味わいで、『なんとうまい飲料水』と驚き感じて、その仲仕氏に心から感謝の意を表した。それはコカ・コーラであった」

…とのこと

コカ・コーラ自体は戦前の大正8年ごろから既に日本への輸入が始まっているので、鬼●の刃に出てきてもおかしくないそうなんですが、まだまだ一般へ広まるには至らず、またコカ・コーラの自販機もアメリカでは1937年に既に登場し、戦中軍のPXなどにも置かれていたもの、日本で民間に親しまれるのはやはり戦後十数年たってからのことであったそうです

それでも、加藤氏の手記にみられる好印象ぶりからだけでも、その後の日本国内でのブレイクの予兆が伝わってくる気がしますですねえ…w

無題
Name名無し 21/01/10(日)19:34:34 No.516534
>コカ・コーラ自体は戦前の大正8年ごろから既に日本への輸入が始まっているので、
詩人の高村光太郎も初めてコーラを飲んだ時感激のあまり「コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH」とコーラをたたえる詩を書いていますな(『道程』所収『狂者の詩』1914-大正3-年)
もっとも山陰の田舎育ちだった老母は戦後初めてコーラを飲んだ時に「薬臭くて」拒絶反応甚だしくその後70年余を経ても決して手を触れようとしませんが

無題
Name名無し 21/01/10(日)21:33:20 No.516545
それなんて30年くらい前のドクペ

無題
Name名無し21/01/10(日)23:51:40 No.516547
コカ・コーラのコカはコカインじゃないの?

無題
Name名無し21/01/11(月)01:02:50 No.516553
>コカ・コーラのコカはコカインじゃないの?
コカの葉っぱとコーラの実から作ったのでコカコーラ
作った当時は違法じゃなかったから大丈夫
(作った人が非常にあれな人だったんで)
でもコカコーラにレシピについては秘密とされている

無題
Name名無し21/01/11(月)00:01:16 No.516549
1610290876226

>「薬臭くて」

「狂者の詩」には、「銀座2丁目3丁目、それから尾張町」というフレーズも有るんですが、これは当時銀座尾張町にあった聖路加病院薬品部が、「ファウンテン・コーラ」の名でコーラを販売していたコトによるものだそうですw

もっとも、コカ・コーラ自体が元々薬屋さんが医学的効果を謳ったシロップとして販売を始めたものですので、なんだか薬っぽい…というのは実際的を射た感想なのかも知れないですが、当のアメリカでは薬としてより清涼飲料水としての需要が高まり、また1898年から「売薬」に課せられるようになっため、コカ・コーラ社ではコーラを「薬でなく、清涼飲料だし!」と主張の転換を行って、税金の徴収をまぬがれた…なんて逸話が残っているんですとか

1900年ごろには全米での年間売上高が378万キロリットルを超えているそうなんですが、1924年頃の日本の全清涼飲料水の生産高が1万2千キロリットル(内サイダー40%、ラムネ45%)と言いますから、その爆発的な広まりの程が窺えますですな

無題
Name名無し21/01/11(月)00:02:26 No.516550
1610290946861

余談ですが清涼飲料研究家の野村鉄男さん著の「ラムネ・Lamune・らむね」によると、明治から大正にかけて、まだガラス瓶の品質が安定しない時期に、炭酸ガスの圧力がかかるラムネ製造は実際「命がけ」のシゴトであったそうで、

「壜詰めは危険な作業であった。当時の壜は今日のように質が強くなく、割れる危険が多かった。その上、ガラスの厚みが均一ではない、いわゆる偏肉物が多いので、ちょっとした刺激でも肉の薄い部分から割れることがあった」

「大阪でラムネの製造の指導をし、関西ラムネの父と呼ばれた岩井弥吉も、作業中に破裂した壜の破片で目を負傷し、それが原因でなくなっている」

…そうです

無題
Name名無し21/01/11(月)00:03:23 No.516551
1610291003391

因みに同著によれば、日本の軍艦で初めて「炭酸飲料製造機」を備え付けたのは、1921年(大正10年)の「鹿島」「鹿取」になるそうなんですが、これは両艦がこの年未だ皇太子だった昭和天皇がヨーロッパ外遊に出る際の乗艦に選ばれたゆえであったとのこと

もっとも、当時はラムネは大衆品、サイダーは高級品といった扱いで、野村氏も僚艦で皇太子に提供されたのは
「ソーダ水やサイダーなどで、まさかラムネを造って差し上げはしなかっただろう」
…なんて推測されておりましたり

それでも「玉壜」さえあれば逆さまにするだけでビー玉が栓をしてくれるラムネの手軽さ故に、昭和期には軍艦上にラムネ製造機は大いに普及して、戦艦「大和」では上甲板右舷後部に、兵員烹炊室に隣接して縦横約2.5m、約6.25㎡の「ラムネ製造室」が設けられ、ビンの搭載数は5千本に及んだそうです

無題
Name名無し21/01/11(月)00:06:16 No.516552
http://may.2chan.net/39/src/1610291176567.jpg
また「ラムネ」が日本国内で売り出されたのはまだ幕末の1865年であったそうなんですが(当初は「ポン水」と呼ばれていたそう)、明治に入って1894年8月、折しも日清戦争勃発直後の東京日日新聞の記事には、「出兵した兵士は飲料水の質が悪いため、代わりにラムネを買って飲んでいる。しかし、輸出を増大しても限りがあり、品不足から兵士たちはラムネを買えずに困っている」
…なんて書かれているんですとか

更に時代は下って1938年、陸軍糧友会理事長の丸木彰造陸軍少将は講演で「戦争においては(略)清涼飲料水が給水できるということは非常に喜ばしいことで(略)これを与えると、将兵の戦闘力が増すことになるのであります」…と述べているそうです
斯様に日本陸海軍でも「清涼飲料水」の効能を重視していたようなんですが、「清涼飲料水」の供給力≒将兵の戦闘力となるなら、やはり世界最強はあの国になってしまうんでしょうかねえ…

無題
Name名無し21/01/11(月)10:29:46 No.516572
>ガラス瓶の品質が安定しない時期に、炭酸ガスの圧力がかかるラムネ製造は実際「命がけ」のシゴトであったそうで
これ現代でもそうなんですけど同じコーラでも瓶と缶では掛けられる圧力が全然違うので
昔の瓶の方が炭酸が強めだったらしいですね
冷えた瓶の方が美味い、という記憶はあながち間違いでは無いのかも

無題
Name名無し21/01/11(月)07:19:36 No.516554
1610317176560
こちらはその道では有名な給糧艦間宮にアイスクリームとラムネの製造機を搭載する稟議
昭和7年度末なので海軍次官は藤田尚徳(終戦時の侍従長)、
艦政本部長はこの1年後の友鶴事件で引責辞任する杉政人

無題
Name名無し21/01/11(月)09:15:16 No.516562
アメリカ軍じゃあふだん酒が飲めないからアイスの配給が増えたらしいね
アイスクリーム製造専用バージまで作ったとか・・・

無題
Name名無し21/01/11(月)13:38:58 No.516583
http://may.2chan.net/39/src/1610339938144.jpg
第35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディ=サンが、WW2中魚雷艇の艇長だったのは有名な話なんですけれども、氏の伝記を書いたロバート・ドノヴァン=サンによれば

「疾風のように走りまわり、敵艦に魚雷をぶっ放して活躍するPTボートの勇姿については米国でもいろいろと報道されているが、ソロモン海域のPTの勇士たちが、スパムばかり食べさせられているという事実は一向に知らされていない」

「陸軍とくらべると海軍の方が食生活がいいという理由から海軍を志願した者もいたが、彼らはいまさらのようにPTボートは戦艦や空母のようなわけにいかない、という事を思い知らされた(略)製パン業者が乗り組んでいるわけではなかった。事実、パンはビフテキ同様に貴重なものであった」

無題
Name名無し21/01/11(月)13:40:59 )No.516584
http://may.2chan.net/39/src/1610340059837.jpg
「マウアー水兵長は最善を尽くした。彼はスパムをそのまま出したり、スパムバーガーにしたり、漬物の薄切りとまぜたり、いろいろと工夫をこらして料理をした。しかし、マウアー式スパムや缶詰めウィンナーソーセージや焼き豆の定食より、いくらかましなものを食べようと思えば、ケネディや彼の部下がやがて示したような、食糧かき集めの才覚が必要であった」

「ケネディは甘いものを求めて、ずいぶんほっつき歩いた。何かにありつけそうだと思ったときには(略)陸軍のPXや海軍建設隊の兵舎を巡回した(略)ケネディはよく24個入りのO・ヘンリー(※米国製チョコキャンディ)の箱を抱えて帰ってきた」

「輸送船が水平線上に姿を見せると、ケネディは(略)これを追っかけ、新鮮な食料を貰い受けたり、借りたり、買い入れたりした。時には、彼は1ダースばかりの卵や、ひと焼きのパンや、棒状石鹸2、3本を意気揚々と持ち帰ってくるという案配であった」

無題
Name名無し21/01/11(月)13:42:06 No.516585
1610340126387

「ケネディはホットケーキには目がなかった(略)食堂で何度も列につくのを見つけた料理番が怒って彼を追い払うという一幕があり、ケネディはクルーからひどくヒヤかされたことがある。
『米国へ帰ったら、毎日マウアーにホットケーキを作らせて差し上げますよ』
ドローディ(※ケネディ艇の機関下士官)はある日、こういって約束した。マウアーはメリケン粉が手に入れば必ずホットケーキを作った」

「彼はもう何年も前に母親から教わったとおりに、乾燥卵と粉末ミルクと小麦粉を混ぜ合わせ、『消失しないバター』と呼ばれていたかん詰の油脂を使って焼き上げた」

「あるとき、他のPTボートでドーナツを御馳走になったケネディは、帰って早速マウアーにドーナツ作りを命じた。だが、彼はただ悲しそうに頭を横に振るだけだった。彼はドーナツの作り方を母親から教わっていなかったのである」

無題
Name名無し21/01/11(月)13:43:26 No.516586
1610340206459

「クルーはとくに粉末アイスクリームを”せしめて”くるケネディの腕に感心した。どうしてこの材料の補給を確保してくるのか分からなかったが、これは全く驚異といっていいくらいだった」
「この粉を水で溶いて、艇内の小さな冷蔵庫の氷皿に入れておくと、結構食べられるアイスクリームができる(略)ケネディは夜、南太平洋を縦横に走りまわりながら、幾皿もこのアイスクリームを平らげるのだった」

…という状況であったそうです

十分な生鮮食料を積めず、専門の主計・炊事兵も乗っておらず、スパムや乾燥卵のような保存食メインの生活を送る部下の食生活改善に、常に気を使っていたケネディ=サンの姿は、米海軍士官の鑑ともいうべきものであったんではないでしょうか

…決して、単に自分が甘いもの好きだから努力を惜しまなかっただけ、というわけでは無(略)

無題
Name名無し 21/01/17(日)08:04:19 No.516881
>「クルーはとくに粉末アイスクリームを”せしめて”くるケネディの腕に感心した。どうしてこの材料の補給を確保してくるのか分からなかったが、これは全く驚異といっていいくらいだった」

さすが未来の大統領というか、やっぱり政治家ってその手の交渉には長けてるんだなあ

無題
Name名無し 21/01/12(火)00:31:11 No.516627
まあコーラもドクペも飲むシップたるルートビアの独自レシピから生まれてるしもともと薬というか養命酒

無題
Name名無し 21/01/13(水)00:34:07 No.516662
1610465647744

満洲にも春
陣中の正月

「陣中デ オ正月ノ雑煮トハ ウレシイナア」
「水筒カラ飲ム オトソハ マタ格別ダ」
「オイオイ モウ一パイ ノマセロヨ」
「アツ 餅ガツカヘタ」
「アンマリガツガツスルカラヨ」
「オーイ 年賀状が来タゾー」

無題
Name名無し 21/01/14(木)17:10:21 No.516728
1610611821527

逆に戦時下の将兵さんや民間人の方々の食生活について良い電子書籍等ご存知でしたらご紹介いただければ、驚喜するのはワタクシだけではない筈…!

無題
Name名無し 21/01/17(日)02:04:05 No.516875
1610816645642

>逆に戦時下の将兵さんや民間人の方々の食生活について良い電子書籍等ご存知でしたらご紹介いただければ、
驚喜するのはワタクシだけではない筈…!
戦前の駅弁の掛け紙を画像検索されるとよろしいかと
駅弁の中身も言わずもがなですが掛け紙には調整日の日付け印が押印されているので世間の変化が一目でわかります
昭和14年頃までの多色刷りの上等御弁富だったのが数年でこんなのに

無題
Name名無し 21/01/17(日)12:15:44 No.516888
1610853344578

>No.516875

御情報ありがとうございます

モノの本によりますと、日本の駅弁産業の拡大のきっかけになったのが日清・日露戦争での動員時の「軍弁」需要増だったとかありますし(鉄道で兵隊さん達が大勢移動するわけですから)
「駅弁と軍隊」ネタでで1冊、どっかから本が出ないですかしら(他力本願)

因みにとっくにご存知だとは思いますが、個人の方のこんな興味深いページがございます

http://ekibento.jp/index.html
画像はそこで紹介されている、戦中の節米弁当の一つなんですが、ソバ海苔巻…ザルそば状のものを束ねるのか、それとも「そばがき」みたいな塊だったのか、どんなシロモノであったんでしょう…
引用元:http://may.2chan.net/39/res/516104.htm