ソ連軍の秘密戦史20
赤い島に迫る危機


文:nona


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https://mikesresearch.com/2019/03/24/m41-walker-bulldog/
SU-100に搭乗したフィデル・カストロ首相

キューバ革命

  1959年1月、カリブ海の島国キューバにおいてフィデル・カストロら革命軍は新政府を樹立しました。

  同国は程なくして社会主義を標榜し、米州における数少ないソ連の友好国となるわけですが、この時点でのキューバは米国との関係を重視し、ソ連とは距離を取っています。

  ソ連がキューバ新政府を承認したにもかかわらず、国交を結ぼうとさえしませんでした。

  ところが、同年2月に革命政府が農地改革法を検討すると、農地を失う恐れのあった米国企業においてキューバへの反感が高まりました。

  4月にはいりカストロは米国を訪問したものの、米政府は彼を冷遇。アイゼンハワー大統領は些細な理由をつけて面会を避け、代わりに右派タカ派だったニクソン副大統領が対応。

  右派として知られるニクソンはカストロの言動が共産主義的として、以前にもまして警戒を強めました。

  1959年6月、キューバ政府は米国の同意を得ずに米国企業が所有する農場の接収を開始。米国は報復としてキューバ産砂糖の輸入を拒否しました。

  そんな両国の対立を傍から見ていたソ連は、キューバとの友好関係を築く機会とみて、行き場を失った砂糖を国際価格で購入すると提案。キューバもこれに応じ、秘密裏にソ連の外交官を招き入れます。


キューバとソ連、最初の接近

   1959年10月、ソ連の外務省職員にしてKGB将校であるアレクサンダー・I・アレクセイエフは「TASS通信の報道特派員」という肩書でキューバへ入国。ソ連人として初めてカストロに面会を許されました。

  アレクセイエフによると、キューバへの入国に申請から半年も待たされたうえ、ハバナではいまだに反共的な新聞が発行されソ連は「危険な帝国」として糾弾されていました。

  アレクセイエフは先行きの不安を感じたものの、対面したカストロはレーニンの言葉を引用して共産主義への深い理解を示し、彼を興奮させます。

  このとき、カストロは国民の感情に配慮しつつ手始めにソ連との文化交流を進めてから、貿易や外交関係へ発展させることが望ましいと発言。

  アレクセイエフは翌年に開設されるソ連大使館の文化交流担当書記としてキューバに留まります。

  1960年2月、キューバにてソ連文化博覧会が開催され「赤いセールスマン」と呼ばれたミコヤン貿易大臣(第一副首相と兼任)が訪問。

  貿易協定と共に兵器供与協定が結ばれました。

  さらに、同年の7月にはカストロの弟であるラウル・カストロ国防相がソ連を訪問。オーバーホール済みのT-34-85M、SU-100自走砲、IS-2M重戦車といった重装備の供与と、ソ連軍事顧問団の派遣が決定します。

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https://time.com/4582628/fidel-castro-cuba-dies-90/
1961 年にレーニン廟に立つカストロとフルシチョフ第一書記


ピッグス湾事件

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Attack_near_Playa_Giron._April_19,_1961._-_panoramio.jpg#mw-jump-to-license
ピッグス湾事件に投入されたT-34

  1961年4月15日、国籍マークを偽装した爆撃機がキューバ空軍の飛行場を攻撃。
その2日後に約1500名の軍勢がコチノス湾に上陸しました。

  彼らはCIAの支援によって組織された亡命キューバ人の部隊で、米国では2506旅団と呼ばれます。

  この前年の4月、アイゼンハワー大統領はキューバ革命政府の転覆を計画するNSC指令に署名。

  CIAは1954年にグアテマラ政府を転覆したように、キューバ人亡命者に武器を与え、国外で軍事訓練を施しました。

   2056旅団は米国からB-26(A-26)爆撃機やM41軽戦車などの重装備を供与されたものの、兵員は約1500名と小規模。

  それでも彼らがキューバへ上陸したのは、キューバ軍や民衆が赤化した革命政府を見限って2056旅団に協力し、米国からも援軍を得られるというCIAの誤った認識によるものでした。

  実際のところ、彼らの爆撃機はキューバ空軍へダメージを与えることに失敗し、残存した空軍機が2506旅団の軍需物資を搭載する貨物船を撃沈。

  彼らは米国に救援を求めたものの、ケネディ大統領はこれを拒否したため、4月19日に降伏を余儀なくされました。

  この戦闘はピッグス湾事件として世に知られ、ケネディ大統領は作戦への関与と失敗を認めます。


米国による次の手

  カストロは、ピッグス湾事件の原因を米政府内の強硬派による暴走としてケネディ大統領を擁護し、捕虜の引き渡しに応じるなど一定の配慮を示します。

  しかし、CIAは事件から半年後に「マングース作戦」という新たな謀略作戦を立ち上げ、カストロの暗殺と革命政府の転覆を計画しました。

   1962年に入ると国防総省が「ノースウッズ作戦」を計画。これはキューバ系共産主義者による米国へのテロを自作自演することで、キューバに米軍を投入する口実を作る、という偽旗作戦でした。

   1962年の春には米国自治連邦のプエルトリコにてLANTPHIBEX1-62が、フロリダではクイックキック作戦という対キューバを想定した演習も相次いで実施されました。

   1962年8月の政府内協議では、マコーンCIA長官やマクナマラ国防長官らがキューバへの積極策を主張。10月の作戦決行を要求しました。

   一方、大統領補佐官であったマクジョージは、この作戦を「無為を慰める心の薬」と回想しています。

  これはマングース作戦が米政府内の強硬派に対し、大統領がキューバ対策を考えているとアピールするための方便であり、実のところケネディ大統領は積極策に乗り気でなかったといいます。

  対岸のキューバ情報機関も米国の動向を冷静に見ていました。

  情報分析官だったドミンゴ・アムチャステギは、米州機構(南北アメリカの各国が加盟する国際機関)がキューバ侵攻を容認する状況になく、米国による侵攻の可能性も低い、と見ていたそうです。


加速するソ連によるキューバ支援

  一方、ソ連の情報機関(KGB)は、米国はチャンスさえあればキューバに侵攻するだろうとソ連本国に報告。

  ソ連に限らず、世界各地に派遣された情報機関の職員達は、本国に報告書を取り上げてもらえるよう内容を誇張する傾向があり、報告を受け取った側が過剰な対応を取る恐れがありました。

   ピッグス湾事件の後、ソ連はキューバへの追加支援として戦車400両、MiG-17/19戦闘機40機、レーダーや対空機関砲など防空装備を供与。

  米国の演習が始まった4月以降はS-75(SA-2)地対空ミサイル4個大隊、IL-28 爆撃機10機、P-15地対艦ミサイルなどの追加とソ連軍事顧問団の倍増を決定しています。

  S-75については、エジプトに供与予定だったものを急きょ転用したものでした。

  ただし、マリノフスキー国防相の見立てでは、米国の本格侵攻に対しキューバが持ちこたえられるのは数日から1週間。

  同盟国の危機を懸念したフルシチョフ第一書記は「米国のポケットにハリネズミを投げ込む」とマリノフスキーに語り、ソ連軍に秘密作戦の実施を指示しました。


参考

キューバ危機 ミラーイメージングの罠(ドンマン・トン デイヴィッド・A・ウェルチ 田所昌幸 林晟一 ISBN978-4-12-004718-3 2015年4月25日)
十月の悪夢(NHK取材班 徳永敏介,山崎秋一郎,大和啓介,小谷亮太,阿南東也 IABN978-4-14-080072-0 1992年11月30日)
対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)

キューバの第32親衛戦闘機航空連隊(セルゲイ・イサエフ 2009年)
アナディール作戦のファイル(TASS通信 2017年9月8日)